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われわれは原罪を犯せしや?

 【質問】 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。  こう表現しては 間違いでしょうか?  * 批判的なご見解 つまりそれは間違いだというご意見の場合には特にこてんぱんに けちょんけちょんになるまで述べてくださるよう願います。  * 原罪についてのわたしの考えは ついこの四月でも 次のような内容でした。よかったら参照してください。  【Q:原罪】その回答No.3  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4904345.html

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回答No.16

>二河白道のほうは そこにかすかに見える道を行きなさいというブッダの声がすると言っているようです。後ろから後押しし 前からも導いているみたいです。 以前、何かで読んだことのある話です。これは、留まることなく原罪と対峙し続けていることが祝福されているということと同じではありませんか。 >>鋭い界面は、原罪が祝福に包まれているという神の御心を知る傲慢を >>許してはくれません。だから、祝福されているというパラドクスがあります。 このパラドクスを固定された呪縛だとは思ってはいないのです。 その動性のなかで、常に解かれているのだと思っています。 原罪を抱えたまま楽園に入れないとは思いますけどね。 >開き直りが昂じて ここからは、メルヘンの世界ですが、 今の現状も前の天と地から見て、新しい天と新しい地だという 感覚があります。 輪廻転生とか前世、来世というこの時空間内の話ではなくて、 特異点に帰還した後の全く別の新たな世界ですね。 そんな中で、現在が、常に、今である問いう事実は、日常の想像を 遥かに超えた重大な事象だと直感するんですけどね。 だって、「こと」は、まだ始まっていないか、既に終わっているはずでしょう。そうはならず、「こと」が今わたしに起こっているんですから・・・ここ聖地エルサレムにおいて・・・

bragelonne
質問者

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。  ▲ (イザヤ書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・  狼と小羊は共に草をはみ  獅子は牛のようにわらを食べ、  蛇は塵を食べ物とし  わたしの聖なる山のどこにおいても  害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは むろん比喩ですが あなたの  ★ 《界面を生きる》問題 ∽ 他者の合理的な排除の問題  ☆ にかかわっていますね。生物ないし食物の連鎖が いまとは違ってくると言おうとしているようです。無根拠にですが。  人間の社会においても その社会力学がよい方へ変質するかも知れないと言おうとしているようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そんな中で、現在が、常に、今であるという事実は、日常の想像を 遥かに超えた重大な事象だと直感するんですけどね。  だって、「こと」は、まだ始まっていないか、既に終わっているはずでしょう。そうはならず、「こと」が今わたしに起こっているんですから・・・ここ聖地エルサレムにおいて・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ キリスト教音痴と自己紹介する方で これほど鋭く突っ込んで把握し表現したひとには あまり会いませんでした。  ○ 永遠の現在 という自己表現の過程=動態=時空間=固有時  ☆ の問題ですね。しかも  ★ 聖地エルサレムにおいて  ☆ という表現が すでに《新しい天と新しい地》の次元を――永遠の現在において――先取りしていますね。  ★ 特異点  ☆ についてわたしは詳しくありません。  ★ 輪廻転生とか前世、来世というこの時空間内の話ではなくて、 / 特異点に帰還した後の全く別の新たな世界ですね。  ☆ もちろんですと言いたいところです。たぶん さらにべらぼう話を延長させ得れば この  ○ 特異点は はりつけになったイエスなるわたし  ☆ のことではないかと言いたいところです。少々わるふざけが過ぎましたでしょうか。  ★ メルヘンの世界  ☆ が現実よりも現実感があるとは これ如何に? 文学のほうが 哲学を超えているのかも知れません。  ★ これ(二河白道)は、留まることなく原罪と対峙し続けていることが祝福されているということと同じではありませんか。  ☆ ブッダの場合は そのブッダがつねにブッディストの頭の中に人間の乗り越えられない存在として宿っているようです。どちらかと言えば やはりアイドルではないかと疑われます。  言いかえると 無明とつねに対峙し続けるというよりは 無我だの無の境地だのと言ってそのブッダの境地を下敷きにしてなぞろうとしているように思われます。ブッダもブッダで そのような自己とその他の人びととの隔たりをすでに前提しておしえを説いたのではないかとやはり疑われます。  これを解いてくれるブッディストは いません。そこまでの普遍的な存在であるブッダを 神(絶対者)としては見ない。どういうわけか見ようとしません。そのような論理や理論の問題よりは 修行のほうを持ち出すでしょう。修行が足りんという答えにしかならないようです。  ただし唯一 親鸞の信仰は いまこのように扱っているわたしたちの信仰(=非思考のこころ)と同じ類型だとわたしは捉えています。

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その他の回答 (17)

回答No.7

>パラドックスではないメタパラドックスがあるかも知れないからです。 信仰が教祖を離れ教義となったときに一定の限界が発生せざるを得ないため、 ストーリー、メルヘン、寓話などを用いて、教祖が伝えようとした本質を 指し示すため、結果として巧妙なメタパラドクスが構成されることになった ということでしょうか。 >たとえば《うそをつく》とき われわれは心に多少とも やましさを感じます。これが原罪だと考えます。 やっぱりキリスト教音痴のためか元がずれていました。 人は、他の死や犠牲の上に成り立つ、罪深い存在であって、 これは、やましさの前に自分と他との分離から始まると思っていました。 自他の意識のない幼児は楽園の住人でしょう。この子はこの子から見てどこにもいません。空腹や不快で泣き叫んでいてもこの子はいません。 この子が「自分がある」のだという思いを抱いたとき、このエワちゃんは楽園から追放されたと思うんですね。 この原罪を犯すまで、エワちゃんはいなかった・・ つまり、自分というものが「いる」のであれば、そのために犠牲になった ものへのやましさがあるということです。 だから、イエスをとおして詫び、祈りが必要なのだと思っていました。 やましさを感ずべき思考なり行動が無ければ原罪とならないのでしょうか。 逆質問・・おっと、補足要求です。

bragelonne
質問者

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。補足要求としてでも 推論を進めてくれますので 過程的なご回答です。  二点 わたしが基本と考えることがらを述べ直してみます。  まづ自然としての誕生のあと訪れる 意識における自己の誕生に関してです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自他の意識のない幼児は楽園の住人でしょう。この子はこの子から見てどこにもいません。空腹や不快で泣き叫んでいてもこの子はいません。  この子が「自分がある」のだという思いを抱いたとき、このエワちゃんは楽園から追放されたと思うんですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 物心が着く(≒自他の意識を持つ)前の幼児は 心にやましさも感じないゆえ 言わば《楽園の住人》である。  ☆ この前提に立って  ○ 物心が着いたとき(≒《「自分がある」のだという思いを抱いたとき》) すでに《うそ》の問題を知っているか? つまりは 《このエワちゃんは楽園から追放された》と言うべきか?  ☆ 言いかえると  ○ 自己意識を伴なった《楽園の住人》はいるか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >パラドックスではないメタパラドックスがあるかも知れないからです。  信仰が教祖を離れ教義となったときに一定の限界が発生せざるを得ないため、 / ストーリー、メルヘン、寓話などを用いて、教祖が伝えようとした本質を / 指し示すため、結果として巧妙なメタパラドクスが構成されることになった  ということでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうだと考えています。つまり  ○ もともと信仰=非思考=《無根拠のなぞに対する受け容れ》がひとに起こって これが経験現実つまり歴史に対する言わば目に見えざるパラドクスに成っていた。  ○ この信仰が 言葉に表わされ教義となったとき つまりは目に見えるパラドクスが現われたのであるから 非思考の信仰は メタパラドクスの方面へしりぞいた。  ○ しかも この依然として目に見えないメタパラドクスは とうぜん存続しているのであるが いわゆる理性の優位を唱える思潮のもとでは 省みられなくなっている。  ○ この点でひとこと付け加えるとすれば プラトンにおいてすでにイデアという《理性を超えたところに位置づけるものではあるが それとして理性の産物である神》が現われていた。  あと 次の点について 考えるところを述べてみます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  人は、他の死や犠牲の上に成り立つ、罪深い存在であって、  これは、やましさの前に自分と他との分離から始まると思っていました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように表わされた思想は 別様に或る種の倫理学として存在するものと思います。  たぶん神学としては 緩衝材がひとつ差し挟まれていると考えます。それは 善行悪行あるいは罪などを問わず人の思惟やおこないは その一人の人間において・つまりはその自由意志の振る舞いにおいて 完結しているという見方です。  さらに言いかえると この独立した意志自由の公理において ひとは社会性をかたちづくり互いに関係性を持つ。つまりは 自由の互いによる尊重であり いわゆる平等性だろうと考えます。  この自由と関係性とは ひとりの存在にそのまま共存していると捉えますが 互いに他を侵食するまでには到らないとも見ます。一方で ひとは  ★ 他者の死や犠牲の上に――関係性の側面における限りで――成り立つ罪深い存在である  ☆ のですが この罪深さが 自由意志によって独立しているその存在の固有性を傷つけることはなく まして葬り去ってしまうこともないと考えます。  親子兄弟あるいは夫婦でも 一方で連帯責任という考え方もとうぜんのように当てはまるという見方もあるのですが 他方では基本的に 一人ひとりは それぞれの自由つまり責任において生きていると考えます。そのようにして堂々と生きていると見られます。  またそれゆえにも 関係性において助けあうことができます。責任の連帯性を引き受けるまでに 互いに 平等を目指します。

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  • mmky
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回答No.6

 ☆ その《悪魔連中》の為すことをゆるしているのは 神でしょう? やはり神がいちばんいぢわるです。 ● そうきましたか。確かにそのようにも見えますね。 神は人間に自由意志を担保して創られた。それをひたすら守っているように思えるのですが。私はそれが神の愛の証と取りますね。 よほどだめになると神ではなく地球自身の反作用(天変地異)が生じて何もかも綺麗さっぱり無くなるという、例えばソドムやポンペイの出来事のようになると思えますね。 ソドムの時はロトが神の警告を伝えてますし、ポンペイでも大災害の10年ほど前に警告としての地震があったようですね。 そう考えると、神は耐えてるとしか思えないですね。悪魔連中にだまされた放蕩息子も、地球の反作用による粛清にも何とか救いたいと思ってるのではないでしょうか。 おっと悪魔連中でさえ放蕩息子連中でしたね。放蕩息子の筆頭はルシファーですね。 悪魔連中は無し。地獄(煉獄)にいる人霊は無し。といえばたちどころに消えてしまう存在ですが、私の知るところでは地獄にいる霊でさえ60億もいますよ。地上人口は約60億ですから、同じぐらいの数の放蕩息子や娘が瞬時に消えてしまうということですね。 何のために人霊を創造したのかわからなくなってしまいますね。 誰しも長い転生で一度は地獄にごやっかいになってると聞いてますから、その都度消せば地球人口はもっと少なかったのではなかったでしょうか。天使しか残らず7万人、あるいは7千人ですか。 いくらなんでもそりゃないでしょうと思いますし、産めよ増やせよの神がそんなことを望むわけもないかと。

bragelonne
質問者

お礼

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  まづ  ☆☆ 七千人  ☆ と書いたのは エリヤの時の光の子らの数です。現在何人なのか知りませんが ちょうどそれに応じた数の人たちが 子どもたちをいぢめるバール神には耳を貸さないで 今は今でいるであろうと考えた結果です。  二点 問題提起です。  ○ 《ルシファーら悪魔連中や放蕩息子連中》 これらは わたしである。  ☆ と現在のわたしたちは 一人ひとりそれぞれが 宣言する。互いにこのことを認め合い 内面において処理する。存在を愛し 悪を憎む。その悪を棄てる。内面において棄てる。――その物語を互いに文学としても哲学としても扱っていく。  (名前は それを規定して物語を進めれば分かりやすいという限りで なお残るかも知れません)。  ★ 神は人間に自由意志を担保して創られた。それをひたすら守っているように思えるのですが。私はそれが神の愛の証と取りますね。  ☆ (1) 神は人間に その自己同一性を裏切りうるところの自由意志を与えた。  (2) つまりは 原罪を犯すであろう存在として――それを見越して――つくった。これを へびや悪魔のしわざの所為にするわけには行かない。  (3) だからその原罪を消すために――原罪を犯す以前の存在を回復させようとして―― イエスを送ったというのは あまりにも弁解がましい。  (4) ゆえに 第一のアダムと第二のアダム(つまりイエス)とのあいだの歴史は 原罪にかかわる箇所としては 無きに等しい。  (5) イエスは 神の愛を――非思考において持たれるものとして ただし人間には実現不可能のこととして しかもその人間に神の愛がはたらくなら その形で実現可能なこととして――指し示した。  (6) ほかに 《復活》の命題があるが この愛(つかみどころがないので 霊・聖霊と呼ぶ)のことを伝えただけでじゅうぶんだ。  どうでしょう?  (がけっぷちを歩きつつ 述べています)。

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回答No.5

全体が大きなパラドクスにあるとも言えるし、アダムとエワが象徴する状態から原罪を導いているとも取れますね。 そして、原罪を犯す主体が楽園に真に存在しえたのかという疑問ですね。アダムとエワは楽園にいたのでしょうか?そんなことがありえるのでしょうか。 ありえるなら、はたして、原罪を犯し神に背いたとしても楽園から一歩も外に出ていないのではないでしょうか。 つまり、「われわれは、原罪を犯せしや?」という犯す前の我々が主体的に存在していたととは言えないということですね。 だから、原罪とわれわれは不可分であって、「われわれ」の消失とイエスを通して詫びることが同じにならないと原罪は消えないでしょう。 原罪を犯したわれわれが罪を償って、われわれが残り、楽園へもどるなんてことなど有り得ません。と思ってます。 >けちょんけちょんになるまで述べてくださるよう願います。 聖書をザッと目を通しただけでキリスト教音痴の私には上述の感想めいた記載が限界です。

bragelonne
質問者

補足

 bananasand さん この件でも期待申し上げます。特に  ★ キリスト教音痴の私  ☆ なる方がたにも 絶対音感を持っておられる方がたと同じように――勝るとも劣らず同じように―― 何ものにも縛られない自由なご発言をいただきたいと願っています。神学の伝統ないし公式見解に挑もうとしています。  お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 全体が大きなパラドクスにあるとも言えるし、  ☆ これですね!!   ○ 初めの人たちが わたし(=神)に背いた。その基本的な罪をつぐなうには 原罪以前の状態に戻って身代わりにならねばならない。それに合う人間はもういない。  ○ 原罪を犯す以前の自然本性を保つ人間 もしくはそれ以上の善である存在が 身代わりになった。つまり神の独り子が わざわざ人間になってこれを実行した。  ☆ というのであれば このイエスの歴史上の出現は もしアダムとエワに原罪という事件がなかりせば 必要でなかった。通俗的に言えば 《初めに自分で火をつけておいて あとでやはり自分で消火活動をおこなう》つまりいわゆる《マッチポンプ》ということになります。  悪いこともおこなえば良いこともおこなう人間の本流としての歴史があります。その脇に いまのこのマッチポンプの物語をパラドックスのごとく置いてみた。ということではありませんか? というのが質問趣旨です。  質問の中に趣旨説明を述べようと思ったのですが 長くなることを恐れてやめました。というのも 上のような物言いだけを提起しても まだどうもしっくり来ません。  歴史の街道の脇道にパラドックスを敷いたという問題ではなく そうではなく そのような経験事物としてのパラドックスではないメタパラドックスがあるかも知れないからです。非経験・非思考としてのメタ物語は つまりは信仰として なお生きていると考えるからです。  早くいえば マッチポンプの物語は 非思考=つまり信仰の神を 狭く狭く人間の理性という枠組みの中に押し込めようとしているのではないか。これです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、「われわれは、原罪を犯せしや?」という犯す前の我々が主体的に存在していたととは言えないということですね。  だから、原罪とわれわれは不可分であって、「われわれ」の消失とイエスを通して詫びることが同じにならないと原罪は消えないでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば《うそをつく》とき われわれは心に多少とも やましさを感じます。これが原罪だと考えます。うそに伴なうやましさを味わう前のわたしは 《主体的に存在していた》か?  ★ 「われわれ」の消失  ☆ という意味がよくわからなかったのですが それは  ○ 原罪を犯したわたし(つまりその意志行為)が 元のわたしに戻る  ☆ ということでしょうか? それには  ★ イエスを通して詫びること  ☆ が必要だということでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪を犯す主体が楽園に真に存在しえたのかという疑問ですね。アダムとエワは楽園にいたのでしょうか?そんなことがありえるのでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 幼いときわれわれにものごころが着くのは おそらく 《うそに伴なうやましさ》を感じる前にも出来るでしょうから そのぶん 主体的に生きるというのは 子どもとしての限りで出来ていると言うべきでしょうか?

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  • mmky
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回答No.4

☆ という大胆かつ傲岸な見方なのです。 ● ちょっと大胆すぎますね。 ○ 原罪は むろん人間が犯したのですが そうさせたのは神だという物言い  ☆ なのです。 ● それは困りましたね。アダムとエバの逸話の焼き直しは後のエリアとバール信仰の逸話でしょう。アダムとエバはエデンの東に追放ですが、バール信仰の坊主たちはカルメル山で焼き殺されてますね。アダムとエバをそそのかしたのはサタン(サーペント)、追放したのはお怒りの神、一方バール信仰をそそのかしたのはサタンの手下のベルゼベフ、打ち滅ぼしたのはお怒りの神ですね。これらの例から見れば、そうさせたのは悪魔連中となりますね。人間をそんなにやわに作ったのが神だとしても実行犯は悪魔連中でしょう。 ○ 原罪を犯させてごめんなさいという詫びを 神は イエスをとおして人間に伝えた。   ● 生け贄の子羊という意味で原罪と関連づけてるのでしょうか、常識的には神の一人子の死は親の感情からして悲しいものですし、旧約聖書のなかでも長男を生贄にと望んだ神もいましたが結果は羊にしてますよね。つまり子供を生贄にしたことは一度もないですよね。神だって子供を生贄にはしないはずですね。じゃだれがということですが、ご本人が予言の成就を望んだのか、悪魔がやらせたとしか思えないですね。 と思いますがどうでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 mmky さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ● ちょっと大胆すぎますね。  ☆ 驚かれましたか?  ● ・・・人間をそんなにやわに作ったのが神だとしても実行犯は悪魔連中でしょう。  ● ・・・じゃだれがということですが、ご本人(* =神)が予言の成就を望んだのか、悪魔がやらせたとしか思えないですね。  ☆ その《悪魔連中》の為すことをゆるしているのは 神でしょう? やはり神がいちばんいぢわるです。  わたしは思うのですが どうもこの  ○ 悪魔・サタン・へび・ベルゼブブ・バアル等々  ☆ を人間と悪行とのあいだに介在させること これをやめよと神は言っているのではないか。こう思われてなりません。しかもさらに もうわたし(つまり神じしん)のことは 言葉にも出すなと言っているとしか思えないのです。  エリヤのように いちいち神のちからを証明するような振る舞いは もう要らないと 人びとよ 知りなさい。肝に銘じなさい。口にも出して言いなさい。こう言っているのではないでしょうか?  まぼろし? 幻聴? でしょうか。七千人には聞こえているのではないでしょうか?

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  • mmky
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回答No.3

ユダヤ教のアダムとエバの作った原罪はイエスがチャラにしたということですね。 それはそれでよいと思いますね。 さて、そこでですが、イエスに石を投げ、罵倒し、十字架に掛けた多くの罪人達(実行犯及び教唆)の原罪は誰が償うのでしょうかという疑問が残りますね。 これは、イエス再誕まで持越しでしょうか。それとも父がでて「sin no more」と言わないとなくならないのでしょうか。 もし、イエスあるいはその父が再誕して、また同じように迫害され屠られた場合、ナザレのイエスの時に作った原罪はなくなりますが、新たな原罪が発生しますね。つまり同じことの繰り返しになりません。 歴史は繰り返すのが諺ですからそれでもおかしくは無いと思います。ただそれでも、最初の仮説に一定の疑問が生じますね。 さてそれはいかがしましょうや?

bragelonne
質問者

お礼

 mmky さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ユダヤ教のアダムとエバの作った原罪はイエスがチャラにしたということですね。  それはそれでよいと思いますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ mmky さん じつは ずばり申しますが これがこれでよいとは見ないという仮説を思いつきましたという内容なのです。  ですから そのあとに問うておられる疑問とその課題とは微妙に方向も違ってきています。  どういうことか?   ○ 原罪は むろん人間が犯したのですが そうさせたのは神だという物言い  ☆ なのです。  ○ 原罪を犯させてごめんなさいという詫びを 神は イエスをとおして人間に伝えた。  ☆ という大胆かつ傲岸な見方なのです。  むろん人間は 人間どうしで うそをつき罪を犯します。しかもこれらの  ○ 人間の互いに犯すこれらの間違いと過ちとは 自分たちの自治において 罪の共同自治としておさめるものだ。  ☆ という見方です。  こてんぱんにやっつけてください。批判をお願いします。( 別に M ではありませんので 反論も致します。わたしが納得のいくまで お尋ねしてまいります)。

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noname#100496
noname#100496
回答No.2

補足質問にお答えします。この世界は仮の世界なので、始めと終わりがあります。だから仕切りなおしですから、終わりが来ると、それぞれの元の世界へ帰ります。脳は脳の世界へ、人は神の世界へ帰ります。2012年の予言は今ブームになっています。

bragelonne
質問者

お礼

 eyasi2012 さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。   ★ 2012年の予言は今ブームになっています。  ☆ これには 《知りません》とお答えします。それ以外にお答えのしようがないでしょう。  ★ この世界は仮の世界なので、始めと終わりがあります。  ☆ 《仮りの世界》というよりは 移ろい行きやがて朽ちると知っている世界なのだと考えます。そして前回ふれたように 物語としては 新しい天と新しい地の展開があるかも知れません。  ★ だから仕切りなおしですから、終わりが来ると、それぞれの元の世界へ帰ります。脳は脳の世界へ、人は神の世界へ帰ります。  ☆ たぶんこの有限の世界そして有限の人生を わたしたちは一人ひとり 固有の時空間としてその動態を生きているのでしょうね。  このいまは限りある存在を生きていくことをとおして みづからの固有時を実現していくなら そのとき 永遠の現在を生きている。のであるからには そのまま新しい天と地との世界に入っていくかも知れません。  そういうふうには考えますが なぜわざわざ  ★ 脳は脳の世界へ、人は神の世界へ帰ります。  ☆ というふうに《終わりの到来》やらをつうじて 《元の世界に帰る》やらを想定してくるのでしょう?  もし物語を持ち出すなら   ▲ 夜中に盗人が家に押し入るように その《とき》は来る。  ☆ のではないですか? どうでしょう。  ★ 仕切り直し  ☆ という考えは みづからが固有の時空間を生きていないゆえにこそ現われ出てくるものではないでしょうか?   そういう永遠の現在という・通俗的に言わば充実感が得がたいという思いは   ○ 原罪とその意識  ☆ の問題がかかわっているのではないでしょうか。そのように考えたものですから この質問をお訊きしました。

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noname#100496
noname#100496
回答No.1

正しいと思います。神が意図的にした事と思います。なぜかというと、神の子である人は、不調和を調和に変換する使命で、天国、神の世界から地上、仮の世界の地球に来ました。そして不調和世界の脳の自我と、合体しました。しかし今では人は、自分は脳の自我だと思っています。本当は神の子なのに、しかしいよいよ2012年、仮の世界も終わり、神の子は使命を完了して、脳の自我を分離して、神の調和世界へ帰ります。

bragelonne
質問者

お礼

 eyasi2012 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 正しいと思います。神が意図的にした事と思います。  ☆ そんなに簡単に OK を出していただいても とまづ思いました。  ★ なぜかというと、神の子である人は、不調和を調和に変換する使命で、天国、神の世界から地上、仮の世界の地球に来ました。  ☆ まづこれは おおむね一般的な理解でもありますね。  ★ そして不調和世界の脳の自我と、合体しました。  ☆ 肉(精神および身体)に宿ると言いますね。《絶対なる調和》と《相対的な調和》とが 同時に一人のひとに存在するというところでしょうか。  ★ しかし今では人は、自分は脳の自我だと思っています。本当は神の子なのに、  ☆ 《神の独り子》ではないけれども 《かれを長子とする〈光の子〉であり それとして神の子ら》であると物語られています。  ★ 脳の自我  ☆ というのは 要するに 《相対的・時間的ゆえに移ろいいく朽ちるべき調和》というところでしょうか。物語にさらに《復活》がありましたが いまは措いておきましょう。  ★ しかしいよいよ2012年、仮の世界も終わり、神の子は使命を完了して、脳の自我を分離して、神の調和世界へ帰ります。  ☆ ご質問になります。  (1) 神の独り子は もうすでにこの地を去って行って しかも復活したとうわさされ そのあと聖霊を 父とともに送ってくれたのではないのですか?  (2) 《新しい天と新しい地》と言われるのは この地上が 《調和世界》になることなのではないでしょうか?  (3) だとすれば 相対的な調和としての《脳の自我》をも包み込んで 新しい人間として登場するという筋書きではないのですか?  (4) その《とき》は 人間には分からないのではないですか?  いかがでしょう?

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     次のように表現しては 間違いでしょうか?  神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。    こう表現しては 間違いでしょうか? という問いです。    *  以下に 原罪についての考え方をも述べます。  1. 光は 曲がります。光も 曲がります。われわれ人間の心も かなしいかな 曲がります。  2. しかも じつは じつに わたしが曲げるのです。  3. うそをつかなかった人間は いません。本心を曲げて いつわりの証言をしたりします。  4. 本心とは何か この問いも 必ずしも容易には 分かるものではないところがあるようですが うそをつくときには やましさを感じるものです。気持ちよいものではありません。  5. 要するに このへそ曲がり・始原的にして普遍的なへその曲げ これを 原罪と言ったのだと考えます。  6. 言いかえると へそを曲げる自由も 曲げない自由も どちらも備えた意志の自由を われわれ人間は 与えられている。これが 生まれつきの自然本性だと言う。  7. へそを曲げるとき たしかに わたしたちは いわゆる良心の責めを感じます。ですが この世は 似たりよったりの人間が おもしろおかしく生きていくだけだ 寿命が尽きればあの世行き という考えを持つようになる人びとも出て来ます。  8. こうなるとまた 一生のうちの《へそ曲がり》の積み重ねについて 死ぬときには すべてを清算して逝くのだというおとぎ話も紡がれ得ます。あまりにも無責任ではいけないという見方が現われるのでしょう。  9. 良心は良心ですし 自由意志は自由意志として 大事なものです。これはおそらく存在の基本ないし生きることの基礎というものであって とうといものだと思われます。そうでないと 社会における人びとの振る舞いは 判断の決まらないのっぺらぼうの交通(まじわり)関係となって収拾がつかないことになります。  10. したがって へそ曲がりの清算をめぐって何らかの交通整理が必要になるという一面も 社会に現われます。最後の審判といった大いなる物語にまで 発展しうるというわけのようです。    11. へそ曲がりの清算とは言うものの 原罪をあがなったというイエスの物語は いくらか 毛色を異にしています。  12. イエスというひとは ナザレ出身のふつうの人間でした。それでも人間にも 互いに 交通整理をする意志があれば その能力もある。そしてこの人間の能力をも超えるチカラのハタラキが問われました。  13. 光は たとえ曲がっても 光である。腐っても鯛と言ったかどうか知りませんが さらに 光を超えた光もあると――もともと いわゆる旧約聖書の伝えるような人びとをつうじて 言われて来ましたし そのことを―― 明らかにする仕儀に かれは 到りました。  14. へそ曲がりを 曲がったへそのまま 何ものかが包み(あるいは 覆い) 心も体も 何ものかによってわたしたちは それぞれ 掬われると言いました。人をすなどるとも言いましたからね。魚のごとく たも(網)で掬うというわけです。  15. 原罪というとげが われわれの良心には刺さったままになっていたのを この棘は引き抜かれたと言い この言葉のままを 生きました。生き切りました。そのように伝えられました。  16. 棘の刺さっていた患部は まだわれわれの存在に 残されているかも分かりません。すでに癒えていても あざや ほくろや 蒙古斑のごとく 残っているかも分かりません。原罪というのは つまり原初のへそ曲がりというのは 現在つまりイエスのあとの歴史においては そういう状態にあると考えられます。

  • 聖書の原罪と贖罪とハルマゲドンのサタン性

    キリスト教の原罪と 贖罪について質問です。 まず2つの 聖句をあげると、 (創世記 1:28 ) 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 (創世紀9:1) それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ とあります。 神様は人を増やそうと命令していて、誰かを殺そうとは命令しておられないと思います。 人を減らすようなことはしない。 むしろ 生まれることを望んでおられる。 これを確認したいと思います。 一方で アダムとエバが蛇にそそのかされて、食べると死ぬことをになる 知恵の実を食べてしまった。 2人は神のようになるという言葉を受けて、食べてはいけないと言われた 知恵の実を食べて 神様に背き、罪をおかし、永遠に生きる見込みを失って死ぬことになった。 これが 原罪ということだったと思います。 そこへ、こ の原罪を贖うために 代償として イエスキリストの命を 十字架にかけた。 イエスキリストがその死を持って 原罪を償った贖ったということだと聞いています。 そうすると、現在によってアダムとイブが死ぬことになった この2つの命、まず2人がいなくなるわけです、そしてこの子孫 もう 原罪を引き継ぐので、これらはの命も失われたわけです。 これで 無数の命が失われることになります。 人が死んでいなくなるわけです。 言葉が直接 すぎたらごめんなさい。 それなのに贖罪によって、イエスキリストの命も失われます。 十字架にかけられて死んでしまうからです。 と考えると、人がひたすら失われていませんか? それはこの文章の冒頭であげた、創世記の2つの聖句「生めよ 増えよ 地に満ちよ」という神様の命令や意志に矛盾してるし 反してると思います。 神様は人を増やしたいわけです。 命を増やしたいわけです。 ところが この 原罪と 贖罪の考え方では、ひたすら 人が減っていきます。 一説によれば神様は 十字架にイエスをかけられることを計画にされ、イエスの前の時代に生まれてきた 預言者たちはイエスが十字架にかけられることをあらかじめ 述べていた。 イエスも十字架にかけられる前日に、ペテロによって 十字架にかけられるようなことがあってはなりませんと言われたけれども、イエスはペテロをあなたは人のことを思って 神のことを思っていないと退けて、十字架にかけられます。 もちろん イエスは様々な 奇跡を起こす力を与えられていたので、十字架を避けることもできたでしょう けれども、十字架にかけられる方を選んだ。 でもそれって本当に神様が望んだことなのかなと思います。 先ほども言った通り 神様は誰の死も望んではいなくて、むしろ人が増えていくようにと思っているわけであって、アダムや エヴァ それの子孫の死もイエスの死も望んでいないと思います。 では 何なんだろうと考えた時、サタンの思惑ということが浮かんできます。 永遠の命を見込まれていたアダムとエバをそそのかし 知恵の実を食べさせて、死に追いやり、原罪を贖う 目的でイエスキリストを十字架にかけ、死に追いやり、大勢の人を死に至らしめた。 例えば アダムとエバが原罪を負った贖いとして、イエスの死によらなくても あるいは、新たな命を誕生させることによって贖わせることもできたと思うんですよね。 アダムとエバの原罪を贖う方法として、もしあなたたちが新しい命を誕生させれば、赤ちゃんを生み出せば、あなたたちの原罪を取り払いましょうと全知全能の神様ならできたと思うんです。 ということは原罪による死、その子孫の死、 それを贖うための死、これらはとても サタン的だなと思います。 死ぬことでしか 何かを表現できないからです。 神様ならば 誕生させることで全てを表現してくれるんじゃないかと僕は思います。 イエスの贖罪後も 人は死んでいます。 本当に神様が望んだ贖罪であれば、それが神様的なものであれば、直ちに 永遠の命が与えられると思うんです。 それから 2000年経ったと言われる今も人は死んでいきます。それは 原罪と 食材がサタン的なものであり、神様の意志にそぐっていないからじゃないですかね。 例えば 子供がお腹を空かせて親に食べ物を求める時。親はできるだけ早く食べ物を与えたいと思うと思います。 ところが 永遠の命が与えられるのは ハルマゲドンの後。死を恐れ 苦しむ人もいるのに、ずっと先です。神様ならば 直ちに 永遠の命を与えてくれるんじゃないですか? 原罪、贖罪、 ハルマゲドン、 復活はサタンによる計画 じゃありませんか? ご読了に感謝します

  • アブラハムとイサクの父子関係は 神とイエスとの父子関係について何かを言うか

     アブラハムは 神の告げるがままに 神のためにその子イサクをいけにえにささげようとしました。  神はその独り子をイエスにつくり 人びとの〔罪のあがないの〕ためにいけにえとしたと言われます。  ちなみにイサクは アブラハムがそのいけにえを神によって止められ生きて世にありつづけました。  イエスは 知られるように はりつけにされて去って行き そのように神に見捨てられたことにおいて生きた・つまりよみがえったと言われます。  質問です。わたしは 原罪とその贖いという物語をもはや不必要と見なし そのように常識としたいと考えており(*)    * 【Q:われわれは原罪を犯せしや?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html  したがって 神とイエスの父子関係と アブラハムとイサクの父子関係とのあいだに 特別の意味のあるかかわりがないほうに見方を寄せようとしています。  この見方をめぐって いろんな立ち場や角度からご見解がありますでしょうか? ありましたらおしえてください。  このひとつの視点は ふと思いついたものですので どこから手をつけていけばよいのか分かりません。生煮えのままご教示を乞います。

  • 原罪について

    こんにちは.当方,哲学・宗教についてはまったくの素人です. どうかお教え下さい. アダムとエバが犯したとされる原罪についてですが,これを取り除ける(祝福できる)のはメシアのみとされています. イエス以降,現代に至るまで,メシアを称する宗教者があちらこちらで現れているようです. 各人が本物のメシアかどうかについての議論はともかく,果たして信仰心なき者は,メシアからの祝福を受けることはできないのでしょうか. そもそも原罪がない状態とは,宗教学的にいかなる状態を指すのでしょうか.理想的には神が創造した人間本来の状態を指すのでしょうが,正直想像できません. 迷いの無い,実に晴々しい状態なのでしょうか. サタン的思考で大変申し訳無いのですが, 原罪が無い状態というのは,実際のところ,メシアを称する宗教者による洗脳が完成された状態(宗教学的祝福=心理学的洗脳の完成)を指すのではないでしょうか. たとえば,Wikiによると,統一教会のトップである文氏はメシアを名乗っている様ですが,巷では祝福どころか詐欺者扱いです. 単に本物のメシアが未だ再臨していないだけのことなのでしょうか. また,メシアによって原罪を取り払われたとする男女の間に生まれた子は,理論上,先天的に原罪が無い状態にありますが,後天的に原罪が復活することもあるのでしょうか. 当方,原罪があるが故に分からなくなっている状態にあると思われます. 原罪の無い方,あるいは何かご存じの方,この迷える子羊(?)にどうか教えを説いて下さい. 万一,ご気分を悪くされた方がいらっしゃったならば,お許し下さい.悪気や批判の念は一切ございません.

  • キリストの原罪論について

    キリストの原罪論とは、生まれながらに皆が罪を背負ってしまったのは禁断の果実をアダムとイブが食べてしまったことに始まるんでしょうか? 例えば何も知らない無垢な子供でも、アダムとイブの遺伝子が入ってるのならば神様の教えを破り、その子供も同じく罪を償えと言うことなんでしょうか? 例えばその罪とは一体なんでしょうか?仏教の教えにも、煩悩や貪り、欲望、等を罪とする考えがありますが、キリスト教とも同じ考えと言うことでしょうか?

  • イエスは 特異点か

     これは ソーカル事件を構成することすらないでしょうが 先日わたしは  ○ はりつけになった十字架上のイエスは 特異点だ。  ☆ と口走ってしまいました。  →【Q:われわれは原罪を犯せしや?】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html  No.16補足欄です。  因果律あるいは経験合理性といった認識ないし判断の基準から自由な一点だという意味合いでした。  修正補足あるいは批判否定などなど 自由なご見解をおしえてください。未練からです。

  • キリスト教の原罪論でわかんないことがひとつ

    キリスト教にある「原罪論」ってあれですか? アダムかイブかのどっちかが禁断の果実を食べちゃって神様を怒らせて楽園を追放させるってやつですけど、いまだに分かんないのがあの果実を食べてしまったどっちかが同じように罪を被ってずっと「罪」を背負って生きていくってやつですよね。 だからキリスト教の中では「人間は生まれもって罪を背負ってる云々」って、あの禁断の果実の事を言ってるんでしょうか?例え善行を働いたとしても「だって、でもあん時あんだけ食うなっていってた果実を食べたんだからな!」って言われ続けるみたいなもんなんでしょうか? アダムとイブが神様が作った最初の人間で、その孫やひ孫玄孫辺りまでずっと先祖の罪を背負ってるってことでしょうか?

  • 原罪がいまだに その贖罪とともにだが 言われるのは

     ・・・どうしてか?  原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  キリストによるそれの贖いもともに言われるのですが それでも なおまだ原罪がなくなったとは必ずしも聞けない場合があります。なぜでしょう?  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており しかもそれらは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  原罪は 悪魔とともに 方便であり もともと無い。ということではないのですか?  ということで もう少したたき台をつづります。  1. 原罪は 無い。方便として説明したのみ。悪魔としてのヘビが 方便として表現じょう用いられたのと同じだ。  2. 無明(≒煩悩)が 乗り越えられないものとしてあるのではないのと同じように--なぜなら ブッダター(仏性)ないし神の霊がやどる存在である-- 原罪が 不治の病いであるということはあり得ない。  3. スサノヲ市民たる人間の《自治 また 共同自治》が なかなか思うようにならないこと(=《苦》)の説明に 悪魔なるヘビとこの原罪なる観念が引っ張り出されたのみ。  4. 悪魔は 一般に人びとのあいだで想像されていたもので そのような社会通念を ヘビにかこつけて用いたのみ。分かりやすい。  5. 原罪という観念は 悪魔のしつこさに当てはめたのみ。ただ ひとの自由意志は ヘソを曲げることがある――それすらも 自由――と認識したのみ。  6. 世界の初めに じんるいの始祖たちのマ(間)のチガイを方便として引き合いに出したものだから このあやまちとそれを世代を経つつシガラミとして引きずるさまを 白紙に戻す意味で イエスが十字架にかかって《原罪の贖い》という物語として説明した。のみ。  7. 人間の知恵や努力だけでは すべてを乗り越えることはむつかしいであろうが 人びとはすでにそれぞれ心の内にそのシガラミのシツコサから自由なチカラの湧き出るのをおぼえているのではないだろうか。    8. あとは 外なるシガラミのチカラ つまり社会力学上のクウキのようなチカラ これを屁の河童と見るという課題が残るのみ。それらは 人間の意志を踏みにじるという無効の意志に発した行為であり 初めからなかったことにひとしい。原状復帰させるべきことであるのみ。(盗んだものは 所有者に戻される)。  9. 外なるクウキのチカラに巻き込まれて行くことと 内から出る理性のワル知恵に誘われることとは 別である。  10. 悪魔は方便であり 無明も原罪もともに屁の河童であるなら 靄は晴れて行くはず。――これが 内なる心の問題だ。  すでに問うたことがありますが なお問う必要を感じます。よろしくご教授ください。

  • その後のカイン

     エデンの園を追われたアダムとエバは、二人で働きながら暮らし始め、やがてカインとアベルという二人の息子が産まれました。  カインとアベルは仲たがいし、カインはアベルを殺し、放浪者となります。そして、カインはエデンの東、ノドの地に移り住むわけですが……ノドの地にはすでに人が住んでおり、カインはこの地で結婚して子供をもうけます。  ちょっちょっちょっと待って下さいよ。アダムとエバは神が造った「最初の人間」であり、全人類の祖先なんじゃないんですか?  だったら、アダムとエバの息子カインがよその土地に行って、そこに人が住んでるわけはないでしょう?  実は人間なんかすでに大勢いて、アダムとエバはその中でも特別に優良な種として神が育てようとしたのでしょうか。(品種改良みたいなもんか?)  それとも、エデンの園みたいな場所は他にも世界中にいっぱいあって、それぞれに「アダムとエバ」がいたのでしょうか? もしそうなら、禁断の木の実を食べたのはたまたまアダムとエバが愚かだっただけであり、その他の大多数の人間には無関係な話(つまり原罪でも何でもない)だということになります。  それとも、他の「エデンの園」の「アダムとエバ」も、全員禁断の木の実を食べてしまったのでしょうか? そうだとしたらそれは人間の本質ということであり、造った神の方に設計上の問題があったのではないでしょうか。  どういうことなのでしょうか。

  • 統一教会の原罪の解釈の仕方とキリスト教の原罪の解釈の仕方

    統一教会の原罪の解釈の仕方(ネット上にある原理講論から引用しました) 罪を犯す前、アダムとエバは裸でいても恥ずかしく思はなかった。しかし、彼らが堕落した後には、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉を持って下部を覆ったのである(創3:7)もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかと言えば人間は恥ずかしい所を隠すのが本性だからである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったためで、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。 統一教会では裸を恥ずかしがるというより、下部をあらわにすることを恥ずかしがっており、キリスト教では裸であることを恥ずかしがっているように見えます。ここで質問です。統一教会では葉で下部を隠したということを上記のように詳しく説明していますが、キリスト教ではあの創世記にある「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」という部分で、なぜ恥ずかしがって先に腰の部分を隠したのですか?キリスト教の場合ではここはどう解釈しているのですか?