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世の中あまりにもいろいろな人がい過ぎないでしょうか?

hakobuluの回答

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  • hakobulu
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回答No.15

>こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか? :おそらく・・・、というかほぼ確信的に、人はみな怖れているのだろうと思います。 ただ、怖れ方にいくつかのパターンがあるのでしょう。 基本的に、その自分の中の怖れに対して (1)過大評価するタイプ。 (2)無視するタイプ。 (3)評価すべきは評価し、しても仕方のない面は無視する折衷タイプ。 (3)が一応健全タイプ、ということになるでしょうが完全に区分できるわけもなく、誰もが同じような要素を抱えているだけで、要は配分率の問題になります。 では、 (1)の「怖れを過大評価する」とはどのような意味でしょうか。 最初に「人はみな怖れている」と偉そうに述べましたが、 「自分だけが怖れていて、他人は誰も怖れてなどいない」という認識。 これが「過大評価」です。 つまり、自分の中の怖れを過大評価しているという意味で、この表現を使っています。 しかし、あたかも何も怖れていないかのように、時には傍若無人に振舞っているかのように見えるタイプの人々も、怖れていないわけではありません。 単に「(2)無視している」だけではないでしょうか。 自分内部の怖れとまともに向き合うことができないタイプです。 アイデンティティには足がかりが必要だと思うのですが、この足がかりを(2)のタイプは他者に求めざるを得なくなります。 何らかの乗り越えるべき壁を乗り越えることによってアイデンティティは次第に強固なものになっていくはずですが、自分の問題(怖れ)から逃げるタイプの人には、それができません。 他者あってこその自分であって、他者が自己存在のバロメータになるわけでしょう。 他者が幸福であれば自分は不幸で、他者の不幸によってしか自分を幸せだと認識できない人々です。 このような人々を怖れるのはむしろ自然な感覚だろうと思われます。 (1)のタイプの人は、自分の中に兆したその怖れを絶対的なものだと認識するのだと思われます。 しかし、(2)のタイプの人間も同様に(ではなくとも)人生を、他者を怖れているはずです。 つまり、中間を端折りますが(2)のタイプも(1)のタイプを怖れているわけです。 これ(相手も怖れているのだということ)がわかれば通常怖れは和らぐものです。 しかし、そう簡単にいかない場合も確かにあります。 そこから先は、自我を脆弱にしている要因を探る必要が出てくるでしょう。 しかし、一緒に考えさせていただくにはなかなか興味深いご質問でしたね。 >こういう世の中で生きていること、世の中の姿はあまりに殺伐としていて、恐ろしくないでしょうか? :いや、全くおっしゃるとおりでしょう。 なんと言うか、人間の矮小さといったら良いのか、可能性のあまりの貧弱さに絶望的になりますね。 しかし、壁が高いほど乗り越える快感はあるのではないでしょうかね。 また、矮小さの裏には必ずと言っていいほど悲しみが同居していますし、可能性の貧弱さは常に自分自身の問題としても付きまとい続けるものでしょう。 些末な事柄は放っておきましょう。 「世界に対して主体的に関わっていく」という視点の重要性に最近気づかされたのですが、他者に対する怖れというのはもしかすると自分自身に対する怖れであるのかもしれませんね。 主体的に関わっているようでいて、自身に対する怖れへの反動として外部(=他者)に攻撃を仕掛ける、というパターンも散見されますから留意が必要でしょう。  

garcon2001
質問者

お礼

詳しい解説、ありがとうございます。 分析は大体正しいと思います。3のタイプが理性的で、一番つわものですね。 自身のベストを尽くし続けること、これが恐れに対する最善の策だと思われます。

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