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源 義経と頼朝の間には!?
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- Antithese
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朝廷と距離を置き、賞罰の権限をもって武士を治めるつもりでいた頼朝にとっては、義経の行動を認めるわけにはいかなかったのではないでしょうか。 義経の例外を認めてしまえば、今後次々と朝廷におもねる武士が現れることは想像に難くありません。 身内であればこそ、余計に許せなかったのでしょう。 ついでに言えば、利用価値のなくなった義経を厳しく断罪することで、逆に幕府の権勢を磐石にすることが出来ると考えたということもあるのでしょう。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.4、No.6 何回もしつっこいけれども、食事中に思いついたことです: 1. 多分軍事専門者の目で、自分の居を構える地域を見られたくない。という配慮があったのかもしれませんね。 2. そして勢いにのっていて、強大で殺伐たる軍隊が平和な居城地域に入ってきて、空気を変改することも、回避する意思もあったかもしれませんね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
「三種の神器」を喪失したり、「ジュネーブ協定」に違背するのは、将たる資質に悖るのでしょうね。 略奪と殺戮で戦場を駆け巡る、常軌に身を持せない兵卒か、その頭目の器なのかもしれませんね。 いろいろ伝説と手柄は伝わっていますが、兄弟として遇することになる前に、距離をおく必要があったのかも知れませんね。 何かと、後々に過災い(わざわい)があるとの判断がなされているかもしれませんね。 示唆に富むご回答のご指摘の他に、このような事情もあったのではないかと、愚考します。
- debukuro
- ベストアンサー率19% (3635/18948)
義経の戦法が禍して「三種の神器」を喪失してしまい頼朝は天皇を正統化するのに苦慮した こういうこともあったかと思います 義経の戦法は現代でいえば「ジュネーブ協定」を蹂躙するものであったようで源氏の評価を下げることになりそうです
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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門外漢ですが: 対応が可能であった、頼朝と義経の立場。 そういう対応のための、大義名分。 そういう対応が必要であった、頼朝側の状況と立場。 などから考えることなのでしょうが、私は義経像には多分に後世の粉飾があるものと存じます。 一例としては戦略において、従来の観念からは許容されざる方式もあえて採用してきたという言動上のことも、義経側にはあったと存じます。 そういうことは必ずしも、公論の評価するところにはならないで、むしろ、義経を迎える事は頼朝の看板に思わしくない事柄であったのではないでしょうか。 そういうこともあったかな、と存じます。 意外に、現代では隠れた事実があるのではないかと存じます。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
骨肉の争いは源氏の習い。 平家が骨肉の争いをあまりしていないのに対して、源氏は何代にもわたって骨肉の争いをしています。伊勢平氏が清盛の祖父正盛の代になってからようやく立場をたてたのに対して、源氏は頼朝の六代前、頼信の段階で、藤原道長の四天王といわれるくらい武家の頭領として認識されていた。それだけ争って頭領になる価値があったということになります。 義家と弟義綱の確執 http://ja.wikipedia.org/wiki/源義綱 義忠は叔父に暗殺され http://ja.wikipedia.org/wiki/源義忠 為義は保元の乱で http://ja.wikipedia.org/wiki/源為義 義賢(木曾義仲の父)は頼朝の兄に倒されています http://ja.wikipedia.org/wiki/源義賢 頼朝が実績を作った弟義経を排除しようとしたのは、源氏のいつものことです。
- isa-98
- ベストアンサー率23% (205/859)
京都から自分で飛び出したのですが、 京都周辺では住めないとか、 許された身であるのに、隠れ住むですとか、 何とも素性の知れぬ疑いを持ったと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%B0%E8%B6%8A%E7%8A%B6 天皇、藤原氏に都合の良い振る舞いが散見され、 あなたの一門は決定的であったのではないでしょうか?
- tatsuya815
- ベストアンサー率19% (7/36)
一般的には義経の求心力を恐れていたとか、頼朝の許しもなく勝手に官位を受けたからとか云われてますが、狡兔良狗(こうとりょうく)の喩え通り利用価値が無くなったのでしょうね。 元々頼朝と義経は父親(源義朝)は一緒でも母親が違うし(頼朝 由良御前 義経 常盤御前)、源氏の正統は自分にあると頼朝は思っていたので巷で思われてるほど肉親の情というものがあったようには思えません。
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