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フランス人のルーツ
図書館で読んだ書物にフランス人はヨーロッパ土着のケルト人と残留ローマ人との混血人種である、という記述があったのですがフランス人のルーツ(特に王家)や成り立ちについて興味を持ち始めもっと詳細に知りたくなりました。 また、同じローマ人の末裔であるイタリア人との共通点や相違点なども挙げて頂けると嬉しいです。 ヨーロッパの歴史に詳しい識者の方のご回答をお待ちしております。 宜しくお願いします。
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まず、前提として、整理しておかなければならないことがあります。 民族と人種の違いです。 民族は必ずしも血が濃くなくても継ぐものです。文化とかアイデンティティーのようなものがわかりやすい部分です。 それに対して人種とは、単純に血の濃さや、混血具合に注目する部分です。 例えば、いわゆる「ラテン系」と言うのは、そもそもローマ付近の都市国家の構成員だった民族の影響を受けた文化、及び民族です。主にローマが都市国家の時代に実権を握り、文化的に多数派となり、ローマ帝国になってローマ文化、ローマ語を帝国内に広めました。また、ローマ人の兵も各地に駐屯しました。 ローマ帝国時代、フランスはガリアと言われケルト系の民族の土地でした。そこに征服者として、ローマ人が兵隊や官僚として派遣、駐屯しました。これがフランスのみならずラテン系言語を話すヨーロッパの国々の基本形です。 その後、アジア方面の遊牧民などの圧力や、人口の問題が原因などと言われていますが、いわゆるゲルマン民族大移動が始まります。 フランスにも色々はゲルマン人が移動し、あるものは定住、あるものはさらに違う土地へ出て行きました。最初はローマ帝国が傭兵として呼んだとも云われています。ゲルマン人は人種で言うと移動の途中に色々な人種と混ざったようです。その中でも後のフランス王国に繋がる王家がフランク族出身のメロヴィング朝フランク王国で、パリに首都を定めてローマ帝国から独立しました。フランク族もゲルマンの文化を中心としながら、ケルト人やローマ人、イラン系の遊牧民もいた集合体と言われています。 その後メロヴィング朝下で宰相の家系であったカロリング家が王国を乗っ取りフランス革命まで王家は全てカロリング家の末裔です。 まとめますと、ケルト人を征服したローマ人の土地にゲルマンの酋長が王として統治するようになり、文化的にはローマ化したガリアの文化を土台としたフランス文化が発展した。と云う感じでしょうか。 征服者が被征服民族化していくのは、征服者が混成集団だったり、少数だったり、被征服者の方が文化的に上だったりする場合によくあることで、ブルガリアや中国の清などの場合と同じです。 一口でフランスと言っても均一ではなく、パリを中心とした地域の文化がフランス文化の中心とされ、南部はイタリアなど地中海の影響が強いです。その他、西のブルターニュ半島はイギリスから追い出されたケルト人の文化が残り(古来の大陸ガリア人ではなくブルトン人です。)、東のアルザス地方はドイツ文化が残る地域です。 ちなみに蛇足ですが、フランス文化の花形とも言えるフランス料理はヴァロワ朝時代にフィレンツェのメディチ家から嫁いだ王妃とその専属料理人が持って来た様です。ローマ帝国からフランク王国へ繋がる伝統とは異なりますが、フランス料理もイタリアの文化を基本に作られました。
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- vantice
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ユダヤ人の血もあるかも、しれない
お礼
ご回答ありがとうございます。 ユダヤの血統もマイノリティながら入ってるかもしれませんね。
- nacam
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フランス人のルーツ(特に王家)や成り立ちsという事ですが、かなり複雑です。 ケルト人は、南ドイツを中心とした地域に住んでいた人達で、ヨーロッパでもっとも古くから鉄器を使用した部族です。 そのひとたちが、西ヨーロッパに広がってゆきます。 ケルト人がフランスに拡大する以前にフランスやイギリス、スペインなどに既に巨石文明を持つ先住民がいました。 (カルナック石群やストーンヘッジを造った人達) フランスにいたそれらの人達と、ケルト人が交じり合ったのが、ガリア人になります。 そのガリア人ですが、フランスでは、北部・中部・南部文化圏が分かれていました。 おのおののガリア人とラテン系の人達(ローマ人)と交じり合い、フランス人の先祖となる、オック人、オックオイル人、オイル人が形成されてゆきます。 ゲルマン民族の移動により、オック人の地域には、主に西ゴート族が、オックオイル地域にはブルグンド族が、オイル地域には、フランク族が進出してきます。 そしてそれらの地域が、最終的にフランク族が統一し、その後フランク王国が3分割(フランス、ドイツ、イタリア)となり、現在のフランスへとつながります。 フランス王家の元は、西フランク王国にあり、西フランク王国の有力家臣であるパリ伯のウードが、カロリング家のシヤルル1世に代わって王位につき、ウードの弟ロベールをフランス公とし、そのロベール1世の孫のユーグ・カペーが、フランス国王になり、その後のフランス王家の元になります。 (ウードの後再びフランク王位はカロリング家のものとなり、カロリング家が断絶後ユーグ・カペーが王位につきフランス王国となります) フランス人とイタリア人のちがいですが、イタリア人には、ケルト人の影響がごくわずかで、ギリシャ人との結びつきが強いのが特徴です。 またゲルマン人との関係も薄くなっています。 そのため言語的にフランス語が、ケルト語やゲルマン系の影響を受けたロマンス語なのに対して、イタリア語は、純粋なロマンス語系言語になります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ケルト人よりも古い先住民がいたんですね。 そしてケルトの人々と交じりガリア人になったんですね。 とても勉強になりました。 オック人、オイル人というのは初めて聞きました! イタリアの人々はケルトの影響がごく僅かなんですね。 これまた勉強になりました。
- tanuki4u
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フランス人という人種はいない http://ja.wikipedia.org/wiki/地中海人種 http://ja.wikipedia.org/wiki/アルプス人種 まぁ数万年前から混交しているのだから、どれがどれ?なんてことは、学術的には不可能でしょう。 フランク族とかそういったゲルマンの中の「強い親分のもとに集まった仮想的な氏族集団」程度なので、DNAで明確にということはできない。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かにフランスの人々は碧眼、色白ながら南欧系のとても濃い顔立ちで地中海人種とアルプス人種の両方の特徴が見受けられますね。
- tra55
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ひねりも何もない感じなのですがフランク族というのが フランス人の先祖、ケルト人という、民族くくり、は 地理上・広範囲に渡るところに住んでいて、ローマが拡大 していった地域の以外のところの西洋人は全部ケルト人と いってもいいくらい大雑把な感じでケルト人は今の英国本島に いたしフランスにもいたしドイツのへんにもいたし フランク族もケルト人と移ってきた民族との衝突や混血で できていった感じらしい、このフランク族が一杯いた地域の 東部にライン河があってライン河流域東岸以東はゲルマン諸族が いました、もっともフランク族とゲルマン諸族も衝突や融合を 繰り返していて重複するところが多かった部族でしたが ローマの将軍シーザーがガリアを征服して ただし、すんなりとした征服戦争ではなくてガリア人の ヴェルキンゲトリックスが反乱を起こしてシーザーも苦戦したが 何とか征服を成した、このガリア反乱の首謀者は記録上もっとも 古いフランス人の歴史人物かもしれません ガリアの主な住民のガリア人フランク族を統治した時点で ガリア人はローマの領域 ゲルマン人はローマ以外の地域の人間と区別が明確になった。 シーザーの数代後のローマ初代皇帝オクタビアヌスはゲルマンも ローマ影響圏に組み込もうとして遠征をしたがガリア総督ヴァルスが ガリア人とローマ人の混成軍団を進軍中にゲルマン諸族の 首領アルミニウスの伏兵集団の奇襲にあって全滅して以降 ローマはライン河より東へは攻められない敗戦講和を締結して 以降この状態は続いたそうです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ケルト人はローマ領以外のところに広く分布していたんですね。 ヴェルキンゲトリックスなる人物がフランス有史上の最古の人間の可能性があるんですね。 勉強になりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ローマ帝国から独立できなかったら今のフランスはなかったんですね! 後半実に分かり易くまとめて頂き有難うありがとうございました。