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イエスはアブラハムの信仰を回復した?

こんにちは、 以前ここで、質問した時に、イエスは、 『モーセの律法の下での信仰から脱皮し 元のアブラハムの信仰を回復し さらに 真理を指し示した』 質問番号4758947より というご回答を頂いたのですが、 このご回答を裏付けする聖句等をご存知の方教えていただけますか? よろしくお願い致します。

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回答No.1

 こんにちは。  ヘブル書を いま問い求められている 裏づけのための聖句にしうるかどうか 議論はあろうかと思いますが そこに引用されたエレミヤ書の聖句を 証拠としてください。    ▲ (ヘブル書8:7-13)~~~~~~~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約(* むろん モーセの)が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  こうして いわば律法本位が あらたにされるとき むろん そこに現われる信仰は アブラハムのものです。たとえば こうです。  ▲ (ローマ書4:9-12) ~~~~~~~~~~~~~~~~  実は すでに述べたように     アブラハムは信仰によって正しい人と見なされた。    (cf.創世記15:6)  のです。では どのようにしてそう見なされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。それとも 割礼を受ける前でしょうか。割礼を受けてからではなく 割礼以前のことなのです。  かれは 割礼を受ける前に信仰によって正しい者とされた証しとして 割礼のしるしを受けたのです。  こうしてかれは 割礼のないままに信じるすべての人の父となって かれらも正しい者と見なされるのです。さらにまた 割礼を受けた者の父 すなわち 単に割礼を受けているだけでなく わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人びとの父ともなったのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 新約聖書のすべてが 直接・間接に 証言していると思われますが どうでしょう?

zatousan
質問者

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こんにちは、HN変えたんですね!ご回答ありがとうございます。 う~ん、パウロさんの言葉だったのですか。イエスじゃないんですね。 変わった考え方だと思うのですが、、、そういえば、パウロは、他にもレビ人の制度に関しても「人間が決めたもの。」として、モーセが神から授かった律法として、捕らえていませんよね。 それでは、現在のキリスト教徒の間ではアブラハムの信仰を実行している事になるのでしょうか? アブラハムといえば、有名なものに、イサクの生贄がありますが、そういえばあんなものに、本当に神様は満足したのでしょうかね? 本当は「息子を生贄にするような神様に従って天国に行くよりも、逆らって地獄に行ったほうがましだ!」って言って欲しかったのかも? 神様が人を試す話は、他の神話にもありますが、インドの神話では、似たような話で、「冗談じゃない!!! そんな事するくらいなら地獄に送ってくれ!」と叫んだ事により、神様から、 「お前は偉い、神の栄誉よりも、自分で考えて正しい道を選んだ。」と言われ天国に行った人の話があります。 閑話休題。 また、アブラハムは自分の妻をファラオに妻として召抱えさした事もありますよね? 自分が生きる為に。 また、多妻もしてますよね? パウロは、『行いによってではなくて、信仰によって義とされる方法』を説いていますが、、、、。 そもそも、アブラハムは善人なのでしょうか? ダビデ同様、単にイエスの先祖という以外になんの特徴もないような??? また、アブラハムの信仰を実行すると、なんとなく、某非正統派キリスト教原理主義者の様に、多妻制、十分の一献金(アブラハムがメルキゼデクに払ったように)、等をする様になるのでしょうか? それとも、『行いは関係ない! 信仰のみ。』ということでしょうか? 改めてご回答ありがとうございました。

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その他の回答 (5)

noname#82568
noname#82568
回答No.6

こんにちは 創世記22章13節 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに 一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行って その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす捧げ物としてささげた。 これがあとで、新約聖書において イエスの処刑と復活になるのでないかと それにしても、なぜあの人々は、 罵倒され死刑執行された罪人が復活した。 などといったのでしょう。 結局、マグダラのマリアだけだった。

zatousan
質問者

お礼

こんにちは! <創世記22章13節> この事件は有名なので、知っています。 <これがあとで、新約聖書において イエスの処刑と復活になるのでないかと> その他、ヨナが魚の中にいた期間が3日(現代の数え方と違うけど)なのも、復活までの期間と関係しているようです。 <結局、マグダラのマリアだけだった。> 聖書内で、復活後のイエスを見たのは、その他にも数人の弟子がいる筈です。 ただ、、、結局の所、一番不思議なのは、、、、ある程度善人である人が聖書に登場するのはわかるのですが、、何故アブラハム、、、ユダ、、、ダビデ、、、ソロモン、、、等等の普通もしくはそれ以下の人達に、、、、長々とページを割かれているんでしょうね。 ご回答ありがとうございます。

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回答No.5

 No.4&1です。  イエスの語ったことばを重要視されているようですね。  《わたしは アブラハムより前から いた》と言うのですから たしかに わたしの用いた表現は 適切さに欠けるところがあるかも知れませんね。また モーセないしその律法が 問題になっているでしょうか?  今回は 一点のみ 触れてみます。どうでしょう。ちょっと 謎解きのような見方です。  キリストなる神としてのイエスは モーセに 次のように語っています。  ▲ (出エジプト記33:20-23) ~~~~~~~~~~~~    ――・・・      あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。      なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからで     ある。  また主は言われる。    ――見よ 私の傍らにひとつの場所がある。      私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや       あなたは岩の上に立つであろう。      私はあなたを岩の頂上に置こう。      私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。      私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうして 時は 飛んで 弟子たちに こう言いました。  ▲ (マタイ16:18) お前はペテロ つまり《岩》である。この岩の上にわたしの教会を建てる。  ☆ こじつけ――つまり 故事つけ――です。イエスは ふつうの人間ですから 神の子であり神であるというキリストが 《神の背面》であることになるようです。  これはけっきょく 聖霊の時代であることを示唆しているでしょう。去れば――去って 背面として 確定したときには―― この聖霊を送ると言っているのですから。どうでしょう。

zatousan
質問者

お礼

こんにちは、再再度のご回答ありがとうございます。 <イエスの語ったことばを重要視されているようですね。> はい、イエスが「アブラハムの信仰を回復する」と言った表現を聞いた事が無かったので、、、もしかしたら一般信者の間で常識なのかも知れませんが、、、、、、何処でそんな事言ったのかな? と思ったのです。 <これはけっきょく 聖霊の時代であることを示唆しているでしょう。> 聖書には、色々な比喩があり、、、人それぞれ色々な解釈をしているので、なんとも言い切れませんが、、、、また、 『聖霊という用語自体は、聖書において曖昧な表現と説明しかなされいないため、』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%9C%8A 回答者様がどのような理解をしているのか存じませんが、 「アブラハムの信仰を回復する」の件に関しては、パウロの言葉からの推察だという事は了解しました。 改めて、ご回答ありがとうございます。

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回答No.4

 No.1です。bragelonne と申すようになりました。  細かいことがらは イエス以後の信仰にとって 要らないというのが 基本だと受け取っています。  じつは 《細かいことがら》と言うよりは もうすでに キリストのキの字も言わないで済む信仰(=非経験思考としてのこころの明け もしくは 伸び)が 成り立っている。こういう立ち場です。いっさい 何にも 要らないという意味です。  エレミヤ書 あるいは パウロの《文字は殺し 霊は生かす》あるいは 聖霊の時代といったところが わづかに 根拠でしょうか。  ただし けっきょくは 霊というのは 無根拠ということですから 聖霊の時代というのは まさに 何も要らないということになると受け取っています。  イエスよりもおおきな仕事をおこなうようになる。それも じっさいには キリスト・イエスが 土台になってはいますが もう 触れなくてもよいということになっているという捉え方です。  〔聖書なり研究書が なくなるわけではなく じっさいには 参照されるということも 実際です〕。  ○ イエスはアブラハムの信仰を回復した。  ☆ というのは 律法本位ではなくなるという意味もあるでしょうし 実際に アブラハムが 信仰の歴史的に実質のはじめのひとだったという意味もあるはづです。  《行けと言われたから 行った》 このような――ただし あくまで 一人の人間の主観内面での意志行為ですよ――信仰の形式は 《血筋によらず 肉の意志によらず 人間の意志にもよらず 神つまり無根拠によって生まれる》という形式につながるという意味です。  集団として信仰を共有するという想定もしくは幻想 つまり 宗教は いっさい 関係ありません。旧約の時代に 民族を社会の単位体として 行動し生活していたときには この宗教が 伴なわれていたと言わなければなりませんが イエスからは いっさい 消えたという受け取りです。ですから 主観内面におさまったという意味も あります。  アブラハムの表に現われた物語は それとしての人生であり 問題提起を含むような物語です。  要は 霊による(つまり 無根拠による 各自の内面における)バプテスマ という形式が なお 有効であるという意味で アブラハムの信仰が復活したと採ります。その他の生活上の事件などなどは いっさい この特定の人間の特定の生活なり人生なりの問題です。わたしたちに いまの主題においては いっさい かかわりません。  ★ それとも、『行いは関係ない! 信仰のみ。』ということでしょうか?  ☆ ですね。  あとは 教会に関しましては 規則や行事などなどについて 一般のひとと同じ程度にしか知らないと言ったほうがよいと思います。水による洗礼は 受けていません。

zatousan
質問者

お礼

こんにちは、再度ご回答ありがとうございます。 洗礼は受けていなかったんですか! <細かいことがらは イエス以後の信仰にとって 要らないというのが 基本だと受け取っています。> 私もあんまり詳しくはないのですが、 聖書によっては、イエスの言葉だけ赤字にしたものもあり、(弟子パウロ等の言葉にイエスの言葉程価値がないとする見方) アドバンテスト教会などに至っては、日曜日を安息日にしたのは弟子が勝手にしたことであって、イエスの支持によるのではない!と言って、ユダヤ教の伝統のままに、土曜日を安息日にしています。 モーセの律法も、部分的に廃止されたのか、それとも全て廃止されたのか分からないという見解を取っています。 事実アドバンテスト教会の知り合いは、豚肉も甲殻類等も食べない人もいます。 なので、私はアブラハムの信仰の回復という言葉は初耳だったのですが、、、、私自身、、、素人なので、、、、「え?そうだったの?」と思ったのですが、、、一般的にキリスト教的にどうアブラハムの信仰について受け止められているのかは、一般信者の方に聞かないと、、私たち信者じゃない人間には、やっぱり分からないですね。 結局イエス自身は一言も、「モーセの律法を廃す。」とは言っていない訳ですから。 改めて、ご回答ありがとうございました。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

kigurumiです。 >タイプミス発見!!! ワーイ、ワーイ、、、。(←子供か?) ん? 「に」を「の」と打ったり、誤字、脱字多いあたしですが、今回指摘の箇所見ても、どこがタイプミスなのかわからない。 もしかして<イエス>って単語? だとしたら、、、 日本語の聖書は紛らわしいんですよ。 日本語の聖書では旧約聖書の中で、大虐殺をした人の名前をヨシュアって表記している。 ヌンの子ホサナは、モーセによってヨシュアって名前になった。 ちなみに太陽の子ラーはヌン(いわゆる海ですね)から自らの意志で生まれたってなってる。 イエスは、イエシュアが元の発音に違いらしい。 だからヨシュアもイエシュアって発音ってことですね。 ホーーサーーーーナーー  ってイエスがエルサレムに入城するとき、人々が歌ったでしょ? そしてヨシュア記のヨシュアのように、ローマ兵と戦って皆殺しにして欲しい(もしくは追い出して欲しい)って期待したでしょ? だって、ヨシュアの神に救われる前の名前はホサナだから。 だから ヨシュアと同じことをやってくれるという期待が人々にあったから、イエスがエルサレムに入る時、ホサナって歌ったわけでしょ? ホサナ、神よ救い給え。 ヨシュア=イエス 神は救いたもう。 >、、、、って、今回は話がずれておりませぬか? ん?そうですか? 神の命令に従うって言った人の名前、列挙したのですが、ズレています? 神が殺せと命令したら、必ず殺す ってくらい神への忠実な信仰心について、サイトの文章を引用して示したのですが、、、 これがアブラハムの信仰でしょ? >少なくとも、イエスは自由奔放に、そして沢山掟破りをして自分の信じる正義感に従って生きた感じがします。 律法破った? 私の記憶では一つも破って無いと思うのですが。 「こんなもん くそっくらえだ」とほとんどの律法を否定し、信者に律法を否定させたのは、キリスト教の創設者パウロ。 イエスじゃない。 律法を作ったものが、自ら「間違いでした 訂正しまーす」じゃ 信用度ガタ堕ちじゃないですか。 作者はそんな神を愚弄するようなことしてないですよ。

zatousan
質問者

お礼

こんにちは、いつもご回答ありがとうございます。 >もしかして<イエス>って単語? すいません、ヘブライ語式に表記したとは思いませんでした。 それにしても、ホセア、ヨシュア、イエスがヘブライ語では同じとは、、不思議ですね! <神が殺せと命令したら、必ず殺す ってくらい神への忠実な信仰心について、サイトの文章を引用して示したのですが、、、 これがアブラハムの信仰でしょ?> それは仰る通りなのですが、イエスはそんなもの回復しようとしたのかな? それを裏付ける聖句をご存知でしたら、教えてくださいという質問だったので、、、。 <律法破った? 私の記憶では一つも破って無いと思うのですが。> 安息日に働いたり、手を洗わなかったり、弟子たちに断食させなかったり、、、、。 まあ、確かにパウロに比べたらですが、、、、。 <律法を作ったものが、自ら「間違いでした 訂正しまーす」じゃ 信用度ガタ堕ちじゃないですか。> そんな事言われたって、本当に神様と人間が通信して決めたわけじゃないんだから、、、。 <作者はそんな神を愚弄するようなことしてないですよ。> おそらく、作者(?)は、律法の解釈においてその当時の律法学者達とは、相当違った解釈をしていたと思います。 また、手洗いの儀式については、相当無意味と思っていた様に感じられます。 、、、また律法自体、、、たまに変わっていませんか? アダムとイヴはエデンの園でベジタリアンでしたし、、、。 初めに肉食が許されたのは、ノアの時代だったと思います。 永遠不変の律法なんて、、、人間が創造した神様が作る事は不可能のようです。 、、、ところで、前回は失礼な表現があったようで失礼しました。 またよろしくお願い致します。

zatousan
質問者

補足

こんにちは、 そんな誤解はしていないと思うのですが、 『kigurumiさんともあろう方が、タイプミスしたのかな~?』と思ったので、大げさに、騒いだんですよ、、、。 他意はないです。 失礼しました。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.2

うーーん。 イエス:主よ、わたしの霊を御手にゆだねます ダビデ:主よ、わたしの霊を御手にゆだねます http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/baiburu/aburaham.htm 『「アブラハムの信仰」は、神を絶対的に信仰し、神にすべて身をまかせますという信仰なのです。 「主よ!煮るなり、食うなり、お好きにして下さい!」なんです。それからどんな命令でも従いますっていう誓約です。 どんな恐ろしいことでも神の命令ならやっちゃうわけです。 イスラム教の「イスラーム」はこの絶対帰依いう意味なんです。 絶対帰依しますと、人を殺せと言われれば、当然殺すのです。 麻原の弟子もテレビのインタビューで堂々と言ってましたね。尊師の命令ならやりますって。』 ってことでイエスも神の命令に忠実になり、エリコの住民 (女子供も含む)を残らず殺し、土地を奪ったって聖書に書いてあります。 パレスチナってペリシテ人の土地って意味。 あの土地をめぐって未だに争っていますね・・・。 エリコに住んでいたのはペリシテ人??? それともペリシテ人の前? 後? ちなみにペリシテ人とユダヤ人は祖は同じ。

zatousan
質問者

お礼

こんにちは、いつもお世話になります。 確かに、アブラハムは、宗教依存症という状態にあったように感じます。 しかし、イエスの行動を見る限りでは、アブラハムとは全く違いますよね。 少なくとも、イエスは自由奔放に、そして沢山掟破りをして自分の信じる正義感に従って生きた感じがします。(それらが全て正しかったかどうかは別問題として。) <ってことでイエスも神の命令に忠実になり、エリコの住民 (女子供も含む)を残らず殺し、土地を奪ったって聖書に書いてあります。> タイプミス発見!!! ワーイ、ワーイ、、、。(←子供か?) 皆殺しをしたのは、、、、、、、、(いわずもがななので省略します。) <あの土地をめぐって未だに争っていますね・・・。> 困ったものですね。 <ちなみにペリシテ人とユダヤ人は祖は同じ。> 聖書の伝承が正しいとなると、そうなりますね。 、、、、って、今回は話がずれておりませぬか? 神話フェチの自分には、あんまりアブラハムの信仰の回復なんて、、、、「え? そうだったの? 」というくらい驚きなんですが、本当にイエスはしたんでしょうかね? 改めてご回答ありがとうございます。 またよろしくお願いします。

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     クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?  新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たたき台として 次です:  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。  板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

  • ペテロとパウロ、どっちが正しいのでしょうか?

    パウロの『ガラテヤ人への手紙』について質問いたします。 ───────── 2:11ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 2:12というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 2:13そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 2:14彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。 口語訳 『ガラテア人の手紙』 ───────── ケパとは、十二使徒の筆頭とされるペテロのことです。 割礼の者とは、ユダヤ人のキリスト教のヒト。 異邦人とは、無割礼の者、割礼をしていない者のことで、非ユダヤ人のキリスト教のヒト。 ペテロは、以前、ユダヤ人と非ユダヤ人が一緒にご飯を食べることを認めたし、ペテロも非ユダヤ人とご飯を一緒に食べた(《共卓》をした)。 なのに、エルサレムに戻ってからは、「これは律法違反だ、けしからん」と言い出した。 ペテロはおかしい、間違っている、イエスの教えを理解していない!! とパウロは批判しているようです。 なぜならば、 ───────── 2:15わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、 2:16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 ───────── であるから。 そこで、お尋ねします。  I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?  II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?  III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか? イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい ということなのでしょうか? また、 もし、パウロが正しいとすると、ペテロを始祖とするローマ・カトリックの正統性の根拠が失われてしまうように思うのですが、 ここのところは、どうなるのでしょうか? 教えてください。 よろしくお願いします(ペコリ)。 伝統的な教義に基づかない、 「わたしは、カクカクしかじか、だと思います」 というご自由な回答も大歓迎いたします。 よろしくお願いします。

  • 聖書のヨハネ11:49~53で質問があります。

    ヨハネ 11 「49 しかし,彼らのうちの一人で,その年に大祭司であったカヤファが言った,「あなた方は何も分かっていない。 50 そして,一人の人が民のために死んで国民全体の滅ぼされないほうがあなた方の益になる,ということをよく考えていないのだ」。 51 だが,彼はこれを独自の考えから言ったのではない。その年に大祭司であったので,イエスが国民のために死ぬように定められていること, 52 しかもそれがただ国民のためだけではなく,各地に散る神の子たちを彼が一つに集めるためでもあることを預言したのである。 53 こうして,彼らはその日以来,[イエス]を殺そうとして相談した。」 この部分で、大祭司カヤファはなぜイエスが国民のために死ぬように定められいて、各地に散る神の子たちを集める為にイエスを殺さなければいけないと思ったのかなんですが、 ヨハネ 12 「38 預言者イザヤの言ったこの言葉が成就した。「エホバよ,わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたでしょうか。そして,エホバのみ腕は,だれに表わし示されたでしょうか」。」 で、預言者イザヤの言ったこの言葉が成就と書いてあるので、この言葉をイザヤ書から探すと、 イザヤ 53 「1 わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか。」 と書かれていて、つまりこのイザヤの聖句の近くはイエスの事を言っているのは解ってきたんですが、問題はこの後で、もう少し読み進めると、 イザヤ53 「10 しかし,エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,[その]日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。」 と、神はイエスを打ち砕く事を喜び、彼の魂を罪科の捧げ物とすることを喜ぶと書いてあり、旧約聖書の律法と預言者達の言葉にあるイエスの到来を信じていた人達は、同時にイエスは死ななければいけないと思っていて、他の箇所の預言通り蘇る返ることも信じていたはずなんですが、 ここからが質問の本題で、大祭司カヤファと、一緒にいた祭司長とパリサイ人達とは、「あなた方は何も分かっていない。」と書かれている事から考えると、同じイエスを殺すにしても一方は律法と預言の言葉を忠実に守る為に殺したいと思い、もう一方は律法と預言者の言葉を知らずにイエスを邪魔に感じ殺したいと思っていると感じました。また、これとは別に、 ルカ  22 「36 すると[イエス]はこう言われた。「しかし今,財布のある者はそれを持ち,食物袋も同じようにしなさい。そして,剣を持っていない者は,自分の外衣を売ってそれを買いなさい。 37 あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならないからです。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。 38 すると彼らは言った,「主よ,ご覧ください,ここに剣が二振りあります」。[イエス]は彼らに言われた,「それで十分です」。」 で、イエスが言った不法な者たちとは、律法と預言者の言葉にあるイエスの死を邪魔しようとして、イエスを殺そうとして連行しに来た人に剣で斬りかかった使徒達のことでいいんでしょうか? そうすると、ニコデモの福音書に、 ~略~ ピラト「太陽にかけて、余はこの男にいかなるとがも見いださぬ」 ~略~ ピラト「お前達は、お前達の神は殺すことをしない、という。それで、余には殺すことが許されているというのか」 ~略~ ピラト「余はお前をどう取り扱ったらよかろう」 イエス「貴下に与えられた役割を演ずるがよい」 ピラト 「それはどういうことか」 イエス「モーセと預言者達は余の死と復活とについて予告している」 と書かれている部分ですが、これを読んでニコデモの福音書のこの部分は正確な可能性があると思ってしまったんですが、偽物なんでしょうか? 聖書をくれた人に聞いたんですが、読めば聖書じゃないことはわかると言って、サタンに惑わされそうだからと言い、質問も最後まで聞かないので、何が質問なのかも解ってもらえず困っています。 たとえば、「終わりまで堪え忍んだものが救われる」の聖句は、自分がサタンだと言っている人達の聖書にも同じように書いてあり、聖句を部分的に自分の都合のいいように利用している事を自ら証明してしまうようなやり方ではなく、聖句だけを使って、さらにその聖句の解釈を証明する聖句をもってニコデモの福音書が偽物である証拠と、不法な者たちが誰であるのかを教えてください。 お願いします。 回答が全く付かなかったの再度質問させてください。 上記の補足で、イエスを罪科の捧げものとすることをエホバは喜ぶとイザヤ書に書かれていますが、罪科の捧げものをレビ記から調べると、傷のない雄羊、子羊を罪科の捧げものとして置くならば彼らの犯した罪は許されるのである((例)レビ5:4~10)とあります。旧約聖書を読んで、もし当時自分がその場にいたら、イエスに、本当に殺したほうがいいのでしょうか、と聞いたと思います。そしてもし殺せと言われたら神の命令は絶対なわけですから殺していたと思います。 しかし、ペテロが聖書中、同じ事をイエスに質問してくれている部分が参考になったのですが、 マタイ16 「21 その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士たちから多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目によみがえらされねばならないことを弟子たちに示し始められた。 22 すると,ペテロは彼をわきに連れて行き,「主よ,ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような[運命]にはならないでしょう」と言って叱り始めた。 23 しかし,[イエス]はペテロに背を向けて言われた,「わたしの後ろに下がれ,サタンよ!あなたはわたしをつまずかせるものです。あなたは,神の考えではなく,人間の考えを抱いているからです」。」 で、言っていることは逆ですが、イエスに死なないで欲しいと言うのは神の御意志ではないとわかりました。 が、問題は、ニコデモの福音書が偽物で、不法な者が使徒の事ではない理由がどうしてもわかりません。 11人は他の兄弟の1人について騙していた場合、まずこの一人が最初に助かり、12人全員が助かるという創世記を考えると、この一人が最初に助かるまで嘘を教えていなければ成就しないことになります。 もしそうなると、11人は足を洗ってもらう必要がある他は全身清い者であるとイエスが言っているわけですから、兄弟ということになり、旧約聖書の律法以外では、唯一の新しい掟である、兄弟が愛し合うことが守れなくなってしまいます。なぜこの疑問を解決したいのかと言うと、嘘を教えていてもヤコブの家の兄弟だった場合、正確でなくても、イエスを見ると神に見え、神を見るとイエスに見え、神とイエスが同じ者に見えてしまう者と敵対しても本当に大丈夫なのかという問題が出てきます。また、イザヤ48で真実によらず義によらず語り告げ、神も憎むが助けることに決めた再び島々から集められる、神の名以外はすべて間違っている者と敵対しているとイエスの命令を守れなくなってしまう可能性が出てくるので、どうしてもこの宗派は絶対で、他は滅びるという納得がいく証拠が欲しいんです。ニコデモの福音書がなぜ偽物とされたのか、イエスが仲介に入って助ける不法な者達が誰であるのかの納得がいく証拠をください。 やっと聖書を一回読み終わったのですが、覚えていない所もあり、もう一度読む必要を感じているのですが、とりあえず、この部分に関してまず納得したいのでここを読めばわかるという証拠とその証拠を証明する聖句を教えてください。お願いします。

  • キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか

    キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか  このところわたしは《これを人間と呼べるか》といううたがいに悩まされました。答えは出ない・出せないというこたえを いまのところ得ました。得たのですが そのことと 次のローマ書の文章が絡まっているように――たぶん 個人的なくせからのようなのですが――思われます。  まづそのパウロの言うところをだれか解釈してくれませんか。  ▲ (ローマ書 10章) ~~~~~~~~~~~  5 モーセは、律法による義について、    「掟を守る人は掟によって生きる」(レヰ゛記18:5)   と記しています。  6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。    「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」      (参照:申命記30:12)    これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。  7 また、    「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」      (参照:申命記30:13)    これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。  8 では、何と言われているのだろうか。    「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」      (申命記30:14)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ モーセの律法の義にしろ イエスのあとの信仰の義にしろ それほどむつかしいことではなく 誰もが実践できると言っているようなのですが 果たしてそうなのですか?  言いかえると 神がさづけたまうならば ただちに信仰はあたえられて心はやわらがしめられるとは思いますが 果たしてその信仰の動態として 《これでも人間と呼べるか》といううたがいが起きたときにも 実践は取り立ててむつかしいということではないと言っているのでしょうか?  答えは出ない・出せないというこたえをわたしは得たのですが それによると 実践はそこで止まってしまうというのが 実際です。果たしてそのあたりのことを交えて どのように解釈するのがよいでしょうか?  表題のことが 主題になるのではないかと思ったのですが それが定かなことだというのではありません。つまり 十字架からキリストを引き下ろす必要もなければ 死者の中から引き上げることも要らないというのであれば すべて《実践の条件》はととのっていると言われているようなのです。

  • イスラム教もキリスト教も仏教もヒンドゥー教も人間の

    イスラム教もキリスト教も仏教もヒンドゥー教も人間の真理を悟ることが出来なかったのになぜ今も真理を見つけれなかった未完成の宗教を信仰するのですか? 真理を見つけたなら、その真理を教えたら終わりなのになぜグダグダ回答が出ているものをグダグダ信仰するのかがわからない。 なぜブッダもアッラーもイエス・キリストも1つの答えを出さずに死んだ? 真理は1つではない?という答えなら、それは真理を得たとは言わないのでは? 人間の存在の意味の真理は人それぞれである。答えは1つではない。 これって真理とは言わないですよね? じゃあ、ブッダもアッラーもイエス・キリストも真理に到達せずに死んでる。 真理に到達できなかった山半ばで死んだ人を信仰して何になる?

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 水による洗礼は 何故なくならないのか

     ◆ 1. 《水による洗礼は 要らない》という命題を問うものです。  1-1. すでに二三度質問しています。このところ質問にあげてやり取りの中から答えが得られるという二度の事例に遭い この問いについてもこころみたいと思いました。  ◆ 2. これまでの経過としましては こうです。  2-1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  2-2. 《要る》の根拠は 《水と霊による》などの記述とそして神秘的なもので おそらくは サクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  ◆ 3. ユダヤ民族の 初めには基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとってもの規範としての律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  3-1. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらの信仰の中の神にもどった。  3-2. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  3-3. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  ◆ 4. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  4-1. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 同じである。と成ったのではないだろうか?  4-2. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学が有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  4-3. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるだろうか。  4-4. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  スサノヲ市民の自由のまったき自由にもとづくご見解を思う存分あきらかにして ご教授ください。

  • イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も・・・

     イエスの生前にはかれがキリストであるとは誰も分からなかった。  この見方について問います。そうなのか? です。  1. イエスの生前には かれが自分は神の子でありみづからも神であると語っていたにもかかわらず 弟子たちを初めとして誰も そのことに気づかなかった。言葉では聞いていたとしても 理解できなかった。  2. 弟子たちは やっと・つまりイエスが十字架上に去ったそのあと そのイエスの語った言葉は腑に落ちたのだ。そこで すべてを知りました。  3. つまりそれまでは ただ立派な人間が迫害に遭って一命を落としてしまったくらいに思っていただけです。(いわんや 反対派においてをや)。  4. イエスの言行録がほどなく集められて行った。またすでに並行して パウロの書簡が書かれるようになっている。  5. すなわち そのようにイエスという人間が キリストと呼ばれる神であったということを伝えるために 言行録が編まれて行った。むろん すべてが聖書記者の信じ思うところにしたがって書かれたものだ。  6. ただしつまりは 神のことばは 人間の言葉では表わし得ない。そもそも 神語を人間語にそのまま写すのは無理。翻訳や解釈が とうぜん伴なわれている。  7. しかもそんなことは――つまりどういう編集方針であって その結果実際の語録がどこまで忠実に反映されているかなどなどのことは―― ほとんど問題にならない。全体として――パウロの書簡をも含めて 聖書全体として―― イエスが どうしてキリストであるかを捉えるために読めばよい。  8. 《法律(律法)》がモーセによってもたらされたのに対して キリスト・イエスは 《まこと と めぐみ》をもたらしたと言われます(ヨハネ福音のはじめ)。  9. 人間にとっては 人間語であらわされたイエスの言葉に 大うそがある。人間のことを神だといった。しかもそのような大嘘をとおしてでも 神とは 全体としてひとつであること また名が違っても――アッラーフ(’aLLaaH )と言い エローヒーム( 'eLoHim )と言い 名が同じ(イラーフ=エローハ ’LH )であっても ヤハヱーと言い違っていても――神はおなじひとつであるというマコトを告げた。  10. また 《わたしは 道であり まことであり いのちである》と言って その生命のチカラが 泉の水のごとく内から湧き出るように元気づけた。めぐみである。  11. さらには 《めぐみの上にめぐみ》をも与えた。よみがえり・復活。たぶん 現代人にとっては 平均寿命が 二百歳にでもなれば もう《永遠のいのち》であるはずだ。  12. というように オシエが――ローマ教会等々によって――どのように説かれようが それらにはお構いなく 神が示され 尽きせぬ元気があたえられ続けるなら それでよいわけである。  13. なおこの《生前には誰もキリストのことが分からなかった》については 次の聖句を参照するよう言われることがあります。  ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~    21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 去って行ったあとの《背面は見える》というわけのようである。去って行くまでは みな誰もに覆いがかけられていたのだと。  くわしいかたちで・あるいはヒラメキのようなかたちで 何かありましたらご教授ください。

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  • Windows10を使用しており、無線LANで接続していますが、USBケーブルを使わずに印刷できるでしょうか?
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