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聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか

 たたき台をしるしますので お考えを述べてください。  【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24)  (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。  (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。  【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17)  (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。  (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。  (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。  (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。  ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) のちに:  ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。  ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが:  ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする  ☆ とも言っている。  (8) イエスの出たあとでは こう言う。:  ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~  17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。  18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』    と主は言われる」(申命記32:35)  と書いてあります。  20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。    そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  (箴言25:21-22)  21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19)  (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。  (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。  【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.)  (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。  (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。  (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。  【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6)  (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。    (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~  2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。   文字は殺しますが、霊は生かします。  7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、  8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§6】 イエスの後の現代  (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。  (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。

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  • yuniko99
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回答No.9

ある国をどうとか書いたら 消えてしまった 怖しい。 長々と書いたのに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ つまり僕は聖書は素人ですが モーゼの十戒やイエスの教え(神と隣人への愛、敵への愛など) ユダヤ人には大体神のイメージがあったのでしょうけど 聖書全体には様々なケースで神や預言者やイエスや使徒などが 結構その場その場で適当な事を言っているので 後世の人々は 罪の意識を感じた時 聖書を読み 神父さん牧師さんに 懺悔すると 結構適当な聖句を引用して ケースバイケースと言うより 半分占い的要素で 聖書のどこを開いても答えがあると言われる様に 教えていたのではなかろうか しかし神は精神に存在するのだから 精神を通じてしか働かない 神もイエスも 義人はいない 死人はほっとけ 歯噛みして悔しがるだろうと 言いたい放題言って 最後は逆ギレされて屠られたので  イエスも神も死んでその記憶だけが文化の中に息づいている 途中は忘れましたが 兎に角リメンバー9.11でイラク戦争で10万人も殺すものだから 敵を愛するなど真っ赤な嘘とばれてしまった 第一原爆を人体実験のように投下して 300万人を殺した戦争も 聖書に宣誓して政を行う国の諸行。 殺して殺して殺しまくった20世紀キリスト教国。 今更人殺しと言っても クリスチャンでなければ人でない と言われるかも それより仏教の方が比較にならない程殺生を戒める。 怒りの国米 陰湿の国日本 屈辱の国中国 日本はこれを取り持たなければ。 ひとごろしは行けない 人にされたくない事は人にするなと孔子?は言った 自分がしてほしいことを人にもしなさいとイエスは言った。 それでクリスチャンが人を殺したら・・・もう教えは成り立たない。 私は言う 自分が死んでも人を殺すな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ある国をどうとか書いたら 消えてしまった 怖しい。  ☆ ん? 何の話ですか?  ★ 神父さん牧師さんに懺悔すると   ☆ これは 何の意味もありませんよ。  霊の次元ですくわれるのですから。  それに エレミヤ書31:31以降(これは へブル書8章に取り上げられています)によれば イエスの登場によって人びとの罪はすでに神においておぼえられていない。忘れられている。また すでにもうオシエを説くことはない。オシエは要らない。と成るとなっています。すでに成りました。  ★ しかし神は精神に存在するのだから 精神を通じてしか働かない  ☆ いいえ。霊をつうじてです。霊からヒラメキが――直感ないし直観としてまた観想や瞑想として――得られるのですが それは 身をつうじてもそして心をつうじても働くことになります。精神と身体とは およそ一体です。それらを超えたところが 霊の領域(非思考の庭)です。  ★ それでクリスチャンが人を殺したら・・・もう教えは成り立たない。  ☆ ここからです 信仰は。非思考の庭は オシエを超えていると知るところからです 出発は。  

その他の回答 (15)

  • kurinal
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回答No.17

>「そうですかねぇ。  ご回答をありがとうございます。」 「新約>旧約」でしょ?

bragelonne
質問者

お礼

 《視点》として そうでしょうね。イエス・キリストの視点は 必ずしも旧約聖書にはない。  (預言=予言しているくだりは いくつかあるようですが。エレミヤ書31:31以降ですとか)。  ただし 神は まったく同じです。表現は違って来ています。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.16

B様、こんばんは。 対処高所から失礼すれば、 「信教の自由」とその限界です。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですかねぇ。  ご回答をありがとうございます。

noname#207138
noname#207138
回答No.15

こんにちは。 まーもーいーです。 予言者の下りだけは知りたかったので見てみましたがどうでも良いと思いました。 今回のこの件は飽きました。 私も自分と一回りも二回りも知能レベルが低い方面に向かって違う人と接する機会はなんどかあり、その人たちが今私の言っている事は頭をかすりもしないほど理解の外にあるであろう経験はあります。 また、とてつもない世界観や価値観の違いで知能レベルの問題ではないすれ違いが生じる事もあろうかと思います。 そうした経験から、もしかしたら今質問者さまと私は私が低い方向で私が理解できないだけの可能性を拭いきれてはいませんが、質問者さまとの会話の質に対する疑念は募っており、”拭えていない”事をもって判断には至らせていません。 ただ、ほぼ断定で質問者さまの意見は私にとってとるに足らない。 私もですが、お互いにもっと「磨き」をかけましょう。 また気が向いたらその時はお願いします。 では♪

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  ご自分の気分としての評価ややり取りの流れについてのやはり気分的な受け取り方が ちらほら出て来ていました。  まだその気分をめぐって 内容についての議論がともなっていましたが 今回では もはやそのような中身の議論は措いておいて 最後の結論だけが提出されています。  というふうに受け留めましたとおこたえせざるを得ない。こういったところでしょうか。    磨きをかけましょうと言われても わたしのほうが掛け過ぎているとしか いまのところ思えません。  申し訳ないが それを破るご見解の開示をうながしたい。この一点ですね。  まだ始まったばかりだとどこかで言っていましたように お休みのあと また始まりますかどうでしょうか。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.14

そうですか。概要が少しばかり見えてきました。 そこで、神の為した、つまり神の意志が記された部分と、勝手に人間が捏造した神の有様を記した部分とを分別出来なければならないし、しなければちゃんとした見解を取り付けることは難しいと感じました。 この、神について真の記述であるか偽の記述であるかを、どうやれば見分けることができるのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 にわかにむつかしい所に入って来ましたね。  あ_ほなさん あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。  例のパウロがこう言っています。  なかで 《異言》とは チンプンカンプンという意味です。  《預言》とは 分かるように解釈するという意味です。  まとまった文章としてやや長く引きます。:  ▲ (コリント前書 14:1-25) ~~~~~~~~~~  1: 愛を追い求めなさい。   霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。  2: 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。   それはだれにも分かりません。   彼は霊によって神秘を語っているのです。  3: しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。  4: 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会(* =見えざる教会=エクレシア=民会=ムラ(市町村議会とコミュニティー))を造り上げます。  5: あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。   異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。  6: だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。  7: 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。  8: ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。  9: 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。  [・・・中略・・・]  12: あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。  13: だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。  14: わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。  15: では、どうしたらよいのでしょうか。    霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。    霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。  [・・・]  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 霊で祈り 理性でも祈るったって どうすればよいのか?  霊的賜物を求めなさいと言っても 何が何だか分からないのが 霊なんであって。・・・  たぶん 能天気であれ! と言っていると採ってよいかも分かりません。    例の――わたしは 親鸞ビイキですから――《自然法爾》ですかねぇ。  だって 自然本性に生まれつきそなわっているのなら わざわざ何かをすることもないって寸法になるのでは?  ★ この、神について真の記述であるか偽の記述であるかを、どうやれば見分けることができるのでしょうか。  ☆ 真偽というよりも――聖書記者は けっきょくタトエを多用して学術論文ではなく物語を(または 物語として神と人間との関係史を)書いたのですから―― そのタトエを解きほぐしてやればよいのではないか?  その事例としてわたしが思いついたかぎりで エワとアダムとがヘビにそそのかされて木の実を食べた話を取ってこれを《預言=解釈》すると 次のようになりました。披露します。:  ○ (ヘビだの禁断の木の実だのとは言わないで 《異言》を避けて物語る失楽園) ~~~~  エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。  わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。  夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。  もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。  そういう意味でも 表現は自由なのだ。  このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.13

と言うことは、洪水は神が起こしたのではないし、ソドムとゴモラも神が滅ぼしたのではないし、多民族を殺すのも、神の命ではないというのが事実であり、聖書の記述は単に古の物語、神話で根拠無く、人や自然の為すところを神の所為にしたに過ぎないという理解でよろしいでしょうか。 叩き台に入る前の基礎理解と思っていただければと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ええっとですね。細かいことを言って煙に巻こうとしているかに われながら 見えますが たとえば 旧約の時代の神は なるほど確かに唯一神ですが ほかの神をおまえたちイスラエルは神としてはならないと言うのであって ほかに他の民族に別の神があって 世界にはいくつもの神が持たれているということは前提となっています。  創世記のとっぱじめに《神は天と地を創った》とありますが だからこの神は自然界でも人間の世界でもすべてのことを統括しているし その出来事を第一原因となって起こしていると捉えられていますが・そしてその見方は ひとつの神学としてあり得ますが だからと言って何もかもが神の為すことであり人間も自然も神の言いなりであるということにはなりません。  それは アダムとエワのときに 神の言いつけに背くという人間の自由意志の物語が伝えられそれがでえーんと構えているからです。人間とその社会のことは 自由意志〔のおよぶかぎりでは自由意志〕による人間の為した行為の結果であることになります。  かんたんに言って 自業自得としての因果関係になります。  ちなみに神は そのように人間たちがおこなうであろうということを初めから予知していたというかたちです。予定ではないと思います。  採って食べるなと言っておいた木の実を食べたというウソ・イツハリなる意志行為も そうなることを予知していたというかたちです。  あと 鍵になる重要なこととしては よその民族を皆殺しにするといった戦争の問題をめぐってですが これもいわゆる約束の地を得てそこに住むために 戦闘意欲を掻き立てるために神からのお告げとして 神を引っ張り出して来た。つまり 神を利用した。というような政治(国際関係)的に高等な手段を使ったとも考えられます。  要は 人間は神のあやつり人形ではない――意志自由の存在である――ということだと思います。  (自由には おそれが埋め込まれているというところが 神の問題になっています)。  このような意味合いにおいて 要約してもらっている内容にて 理解していただいてよろしいかと存じます。  このわたしが 聖書学者やキリスト者を代表するなどということは到底無理ですが この見方はあり得ると思いますし ほかの見解よりもおおむね妥当であるかと自負しています。(アウグスティヌス理解から わたしが勝手に発展させたものです)。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ★ 洪水は神が起こしたのではないし  ☆ 自然現象についてはですね モノはコトである( e = m c^2 )ということであって けっきょくモノの自己運動があるということだと考えます。  その運動が妨げられたり 別のかたちに変えられたりもするわけですが この自己運動を起こすモノについては 神も手に負えられないのではないでしょうか。  人間が 加工し変更することはできる。というふうに神は人間にまかせている。

noname#207138
noname#207138
回答No.12

こんにちは。 神の心はどんどん忖度するべきだと思います。 ですから、想像したり考えたり議論したりする事はむしろ大切な事だと思っています。 でも、決して、決して傲慢に陥るなということです。 ちょっと。。。失礼かもしれませんが、私の応答に対して誠実に応答しているというよりは、言い勝とう、もしくは自己弁護しようという要素がわりとあったりしますか? もし弟子の思考を元に論を展開しようとしたのであれば、その説明は不可欠だと思うのですが、通常のコミュニケーションスキルの問題です。 何年も前ならいざ知らず、理解力がない自覚すらない人が軽率な言動を繰り返す世の中ですよ? 次。 私は別に教祖でもなければ教師でもありません。 一意見者です。 キリストだって仏陀だってその言葉を曲解してあらぬ方向に行く輩は出たでしょう。 そんな事を気にしていたら「一生黙っていなさい」となりませんか? もちろん、考慮に考慮を重ねてその加減に限りはない事は言うまでもなく、それを促す意味での発言というなら解りますが、質問者さまのはあまりそうは見えませんでしたよ? 次。 え~~~。 これ解らないってなに~? 私はそんなに表現力が拙いかなー。。。 正直質問者さまの理解力、もしくは前回答の見返し義務不足と捉えてしまうけどなー。。。 いい加減長いからめんどくさいんですよーこっちだって。。。 最初にNo.2のお礼コメントで質問者さまは「神の力の字、キリストの字ももう出さず、人間のみの話し合いによって自治するに尽きる」と仰っている。 それは人間のレベルがそこに至っていたとするならそれは理想かもしれないが、そこに質問者が至っているのか?No.6で聞いたわけです。 そうしたら、「先ず質問者さまのこころに訪れてノックした謎の存在があって、それを受け入れた。同じように究極ではないかもだが、直感と同じように真実として得ている事はあり得る」と答えましたよね? つまり「預言の様なもの」もしくは「ビジョンのようなもの」すなわちこの類いのものを得ている可能性を示唆していると捉える事ができる文面で、これをもって質問者が至っている事を暗に示唆している様に受け取れる訳です。 それに対しての私のNo.10なのです。 たとえ預言やビジョンを得ていたとしても、それは部分に過ぎず、完全な全体像の前では廃れるべきものに過ぎないのですよ? 預言などに比べればそんな小さな気付きみたいな程度のものでそんなにでかい口を聞いてて良いのですか?という意味です。 ご自身が仰っているように「えらそうな口ぶり」なのでこういう思想をお持ちと受け取られるのは想定されてしかるべきかと思いますが、いかがでしょう。 受け取り方は受取手の責任ですが、「理解できない」というのは想定外だったという事でしょうか。 だから自分で言った事も覚えていないだけでない、見返し義務違反だと思ったのですが、いかがでしょう。 次。 そろそろめんどくさくなってきました。 質問者さまは神を信じているのですか? 本当に信じているとしたら、非思考の領域の存在位踏まえて頂かないとお話しにならないのでもうどうでも良いかなーという気になってきます。 宇宙人は存在するのでしょうか? もし存在するとしたら?しないとしたら? こんな事でさえ我々は非思考に陥らずにいられますか? せいぜい「解らない」では? 解らない領域にでも信念や思考などで探求していくのが人間の本性の一面ではありませんか? 質問者さまは10年前に自分が生きている事を「知っていましたか?」でも今質問者さまは「生きている」でしょう。 知らなくても解らなくても答えは存在します。 そこに向かって行くのが信仰です。科学だってそうです。宇宙の由来を決定的に突き止めましたか? でも教科書には書いてあるでしょう。 それによってテストで合格もすれば落第もする。 それによって人生に多少の影響もある訳です。 質問者さまはそれら全てにもの申すのでしょうか? もしもの申すのだとしたらどのようにツッコミを入れ、そのツッコミに対する反論はどのようになるのでしょう。 質問者さまの論理の前提にも恐らくいくつもこの類いが潜んでいる筈です。 言語表現して認識合わせをし、同意が取れるものでなければ却下的な思考形態は質問者さまにとって至高なのでしょうか? 質問者さまは現在誰かとの共同生活をなさっていると思いますが、それらの人たちとの信頼関係の根拠を示せますか? 次に続きますが「あたかも人格が一体となった形とみなす根拠」は? 「引き受けた」とはどういう意味ですか? 次。 逆にではなぜ「信じているのであって知っている訳ではない事」に突っ込んだんですか? 質問者さまの文面しかりですが、質問者さまは自身の発言がどのように受け取られやすいか予想しながら発言するのは苦手なのでしょうか? で次。 もうめんどくさいです。 自分で読み返してください。 次。 思考に非ずだと却下したいということですか? そして同じく読み返しておいてください。 次も同じ非思考は却下という思想の持ち主という理解で良いですか? そうだとすればもう何も言う事はないです。 次。 セーフの解釈例ってなんですか? もっと具体的に表現してみてくだっさい。 ついでに検証できないものは却下という思想の持ち主かどうかも聞いておきます。 私の知人に「そんなつもりじゃなかった」という人がいます。 そんなつもりかつもりじゃないかは関係ないんです。 事実そういう効果が生じてしまった事が問題なんですよ。 同じようにAさんがそういうつもりで発した訳ではない言葉が結局のところBさんが表現した意味と同質という事はよくあります。 念のために?これを踏まえてセーフの解釈例を再考してみてから答えて頂けますか? 次。 もう降参に近いな(笑) リアルには根拠となる事実も経過も結果もあるんです。 それを元に考察する事は可能です。 でも仮想空間にはそれがないんです。 ないから根拠無しの発言をすると根拠がないだの検証不可能だの。 良いでしょうか。 今我々は神について語っているんです。 非常に拙い極まりない人間の言語と恐らく拙い知能を介して。 具体例を挙げればすぐその具体例の論点では全くない点にツッコミを入れ注目すべき点を無視し、具体例など挙げようもない事柄に触れると非思考。。。 もうどうでも良くなって来た。。。 次。。。 もう笑いしか出てこない(笑) ある意味ありがとう。 具体例を挙げれば論点では全くない~という上記をもう一度踏まえた上で見直してからまた来てください。 っていうか見直してます? 次。 自分は非思考の領域を語るのに他人のは却下っていうことです? 次。 oh my… これを実行動だと捉えているとはすごい。 もう良い。 次は無視で良いですね。 次。 マジっすか。。。 あれだけ預言を語る者が予言者とは呼ばないのが普通なんだ。。。 知らなかった。。。 誰情報ですか? 次の二つは語る必要はありませんね。 真面目にやらないなら私はもう良いです。 ちゃんと過去分読み返してますか? 自分が何を発言したのか忘れたまま発言したり、色々な個人的意図を含めるのに精一杯で内容がおかしくなってるのに気付かなかったりなど色々してるでしょう? っていうか、読み返し義務違反の可能性も高そうだけど、知能レベルというかコミュニケーション能力の疑いも高くなってます。 知能レベルだとしたら、努力で上げる事はできますから「読み返し」を行いましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  えっとですね。  《非思考〔の庭〕》というのは わたしの造語ですから うっかりしていましたが まだその概念を互いに共有しえていなかったようです。そしてその行き違いからおよそあちこちで議論に食い違いが出て来ているようです。  ここOKヱ―ヴで何度も取り上げて問うて来ました。次のように理解してください。  (あ) この世界にあって人が何かを知るというとき それは次のように分類されると考えます。   ○ ひとは何をどう知るか    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知ったものごと)    非経験の場 (経験世界を超えたところを想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  (い) 次に じつは 当然のごとく《非経験の場》が 《因果関係からまったく自由なナゾ》としても定義し得て 《神》のことだとなりますから その《非知》なるナゾとして人は神を受け容れることを意味します。  (う) 非知なる神を――神という名をでもよいわけです――心で受け容れたなら 人には わが心なる《非思考の庭》が成る。こう捉えます。   ○ 《非思考の庭》が 信仰という動態である。     信じる(霊):非思考の庭(ヒラメキにて思考・感性とつうじる)     --------------------------     考える(心):思考の緑野(コギト)     感じる(身):感性の原野(センスス・コムニス;直感・直観)  (え) 《非思考の庭》は 《信じる》が或る種の構造を成すが それは 《神とわれとの関係》である。  その場合の《われ》は すでに身と心ないし精神と身体を超えている庭としてのわれ・すなわち言ってみれば《霊我:アートマン》である。  したがって 神と一体であるという成り立ちは 《梵我一如》として――その中立的な意味合いにおいて――類型的に捉えられる。   ○ 類型としての《梵我一如》が 《信の構造》である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ ここまでが 《非思考の庭》の説明です。  (お) そうしますと たとえば:  ★ 神の心はどんどん忖度するべきだと思います。  ☆ というのは おそらく人それぞれがその主観の内において自由におこない得るわけですが だからどうなるのかにかんしては 何とも定まらない。つまり その主観を共同化することは 神の心についての推測内容が検証し得ないからには 無理である。  つまり 自由な談話として互いに自分の主観を話し合って何かの情報とする。にとどまります。  (か) ★ 私は[・・・]一意見者です。  ☆ という場合は ふつうは 《考える》の次元での問題だと考えられます。  これは オシエでもあります。律法であっても その思想内容は 考えるものです。  そういう意見交換は つねに自由におこなわれます。  つまり それは 神の心を忖度した内容であり得るでしょうが その意見交換としての議論はすでに《思考の緑野》における問題に移って行っていることを確認したいと思います。  つまり ほんとうには神の問題ではないということです。《非思考の庭》なる内面から外に出て来てしまっているという意味です。  どうしても神の問題だと言う人たちにあっては 特別に(変則的に)この思考の場での議論を《神学》としておこなうかたちを採ります。  (き) 前項の内容において 次のわたしの考えを捉えてください。  ★ 最初にNo.2のお礼コメントで質問者さまは「神の力の字、キリストの字ももう出さず、人間のみの話し合いによって自治するに尽きる」と仰っている。  (く) ぎゃくにわたしとてもその《神学》まがいのことを――説明のために――語ることがあります。それについて:  ★ たとえ預言やビジョンを得ていたとしても、それは部分に過ぎず、完全な全体像の前では廃れるべきものに過ぎないのですよ?  ☆ という批評をあたえるとすれば その《完全な全体像》を示してからであると考えます。神学の特殊な議論になるはずです。  (け) ★ 宇宙人は存在するのでしょうか?  ☆ これは 《経験事象》です。信仰と何の関係もありません。  (こ) ★ 言語表現して認識合わせをし、同意が取れるものでなければ却下的な思考形態は質問者さまにとって至高なのでしょうか?  ☆ つねに(あ)から(え)までの作業仮説にもとづいて相手の見解を判断しています。  《非思考》の問題だと言って応えるのは 《無思考》ではないですよ。  思考が有る無いの思考・無思考は 《考える》の分野です。それを超えたところに《非思考》の問題があります。  ★ 思考に非ずだと却下したいということですか?  ☆ 思考に非ずというのは そういう領域の問題であるから 議論はしても答えは出ないという意味のことを言っています。  (さ) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  質問者さまは現在誰かとの共同生活をなさっていると思いますが、それらの人たちとの信頼関係の根拠を示せますか?  次に続きますが「あたかも人格が一体となった形とみなす根拠」は?  「引き受けた」とはどういう意味ですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 相手のことを《引き受ける》というのは 邪魔にならないかたちで相手を存在や人格の全体として自分と同じように受け留めているという意味です。  その中で 配偶者とは互いに《あたかも人格が一体となる》と見ます。  《信頼関係》の根拠は 《非思考の庭》が互いに共通のチカラの場であると信じるところにあり――と言ってもそれは霊の次元ですから 人間にとっては 根拠は無いと言っても同じことになります―― あとは 思考の緑野にあって互いにおのれの主観真実にてカカハリを持ちマジハリをすすめるところにあります。ただし 前者(の根拠=無根拠)は 想定として無限ですが 後者(思考としての根拠)は人間のこととして有限・相対的です。  (し) ★ セーフの解釈例ってなんですか?  ☆ すでに説明していますが それで納得行かないとすれば もうそれ以上の説明はほとんどありません。  (す) ★ 良いでしょうか。 / 今我々は神について語っているんです。  ☆ このたぐいの議論をわたしがどのように扱っているか。すでに説明しました。  (せ) ★ あれだけ預言を語る者が予言者とは呼ばないのが普通なんだ。。。  ☆ 《荒れ野に叫ぶ者。主の道をまっすぐにせよ》の使命をになって現われた預言者として 洗礼者ヨハネがいます。キリスト・イエスが出たあとは エレミヤ書のあたらしい契約が成就したと見るからには もう旧約時代からの預言者は要らなくなった。そういう意味において パウロらを――非思考の庭から得られるその主観としての《神の言葉》を解かり易いように解釈しているとしても―― 同じかたちで預言者とは言わないというふうに捉えて来ました。質が違うというところに力点があります。  (そ) ほかにも述べられていますが だいたい同じ内容かまたは同じような答えになる内容だと見ます。  

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.11

その神の所業は、聖書ではどのように赦されたことになっているのでしょうか。そこら辺に、聖書がひとごろしをどのように見ているかのヒントがあるように思いました。

bragelonne
質問者

お礼

 それは一般に 赦される・赦されないの問題ではないということだと思います。  特にヨソの民族との関係では しばしば死ぬか生きるかの問題であるという事情のことです。  あとは  ★★ 洪水を起こしたり、  ☆ は自然現象についても 神の意志だという見方を当てはめた。そういうふるい契約のさらに以前の段階での神と人間の関係の物語としてです。  ノアら助かって生き延びた人たちについて 義しい人たちだという見方を当てはめたというかたちです。  ★★ ソドムとゴモラを滅ぼしたり、  ☆ これは 神の意志を当てはめたのだとしたら 人間たちの自業自得の話です。それだけ神の意志に背いた・または 人間性から離れてしまったというその結果だと見なされています。  つまり ゆるされなかったわけです この場合は。  ★★ バベルの塔を破壊したりしたんでした  ☆ これは 事情も中身もわたしには よく分かりません。どう解釈したらよいのか 分かりません。  バベルの塔の建設については 別によいわるいはないかも知れません。  そして ただ人類の言語が 民族ごとに違うということ そのことを民間説話としてのように説明しようとしただけであるように思えます。  ソドムとゴモラの場合も 自然現象であり天変地異の問題であるかも分かりません。さほど ひとごろしに大きくかかわるとも思えないのですが。考えてみれば。  最初に触れました《民族浄化》とも言える虐殺の問題。これが 大きいように思います。  そしてこれは 生死が民族ないし部族を単位体として決まるといった世界事情のもとに 他民族との戦争をやはり神の命令として 神を持ち出した話である。と思われます。  いづれにしましても このような民族ごとの神というものが やがて――すでに旧約のエレミヤ書で明らかにされ そのあとその預言にのっとって―― イエスのあたらしい契約の段階に到る。すなわち 狭い範囲の神であることを揚棄した。  それとともに 神は どの名の神であってもみな 同じひとつであるというところまで 推し進められた。  こう見ます。  【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8961079.html    ご回答をありがとうございます。

noname#207138
noname#207138
回答No.10

こんにちは。 ご説明ありがとうございます。 質問者さまは律儀というかマメなところが長所ですね。 一つ目の☆の説明(マルコ10章)。 やはり私と質問者さまとでは視点論点焦点力点が異なるのでお互いに説明は不可欠の様ですね。 そして、この場合はさらに。 私の文をもう一度読んでみてください。 拙いとはいえ、質問者さまの仰る「☆という心が分かるようになったはず」の点には全く論点を置いていないのが分かる/論点を置いてない可能性が残っているのが分かると思います。 私がここで言いたかったのは「罪人でない人の事も罪人として裁いたり、苦労させるだけさせておいてその苦労をする報酬として望んだ報酬を与えない可能性がある位神ご自身が法律の様なものに支配を受けておられず自由な意志をお持ち」のようだと言うことです。 ここでは弟子の思考は問題にしていません。 二つ目の☆の説明(定まった読み方からの解放) 「決まった価値観や視点に固定して物事を見ているとは限らない」が律法を廃止していると考えていると受け止められたという事でしょうか? 律法を重んじる視点、律法を廃止されたと考える視点、命は例外なく殺めては行けないとする価値観、場合によっては人であっても殺める事もあるとする価値観、etc様々な視点が聖書には含まれている可能性を示唆してるだけなのですが、どうしてこれを「固定」とお考えなのかもう少し詳しく説明して頂けますか? 三つ目の☆の説明(このレベルに至っているのか) 預言でも廃れるのですよ? 「部分に過ぎないから」です。 仏教にこういうたとえがあると聞いた事があります。 盲目の3人が象に触った。 足に触ったものは象とは丸太のようなものだと言った。 耳に触ったものは象とはふろしきのようなものだと言った。 しっぽに触ったものは象とはへびのようなものだと言った。 それぞれよく特徴を捉えていますが、いずれも象とは遠く離れてしまっている。 はっきり言ってしまえば誤情報のレベルです。 ですが、蟻からしてみれば象が丸太の様な存在だと言う事さえ分かれば完全ではないにしろ対処方法の多くが分かりますから、丸太と表現した盲目の者の伝達は蟻にとっては意味がある訳です。 ですが、目が見えている人が見れば微笑ましい馬鹿者同士の助け合いに過ぎません。 また、知っているのではなくそう信じている、確信しているのです。 我々は結婚し、お互いに相手の言動に責任を帯びますが、何を根拠に他者の言動に責任を負うのでしょう?信じている、確信しているからでしょう? これは知っているのではなく信じている(だけで十分だからな)のですが、質問者さまはあくまで「知っている」に拘るのですか? この辺りをもう一度踏まえた上で再度これについての説明を加えて頂けますか? 四つ目(神がよく知りもしないで人を殺す~) 神の心が分かったその瞬間に「実は神はこの件については良く知らなかったんだけどなんか気分でころしちゃったんだってw」という事になるのでしょうか?(笑) イヤー、知っている訳ではないから断言はしないけど確信はあるからほぼ断定で笑っちゃうなー(笑) 五つ目の☆(霊に関することは~) 霊性と信心によって読まなければならないのは間違いありません。 人間が書いた書物を人間が読む時だって、著者に恨みがあって何とか蹴落としてやろうと狙っている人と著者に感謝していて何とか恩に報いたいと思っている人とでは内容に対する理解が全く異なる事は十分にあるでしょう。 裁判官が(実情はさておき)そうあるべき方式で私情を挟まず偏見に捕われずに調査に次ぐ調査の上で提出された書類を読むように正義と慎重と思慮と誠意とを持って読まなければ世は冤罪の山です。 それをしていない(であろう)人にそう読むものなんだよ~と「思い出させてあげる」のはとても大切な事です。 なぜなら読み方を間違えているくせに内容にツッコミを入れている、つまり「失礼を先に行っている」のですから。 ストップが不毛なツッコミのストップならそれは有益です。 深呼吸程度では方向転換できない位の方向性の違う話題になる事が多いのが宗教ですからね。 六つ目。(自分を殺す敵のことをも~) セーフ=赦しでしょう。神の赦しは100%赦し。つまり完全な解放というのがクリスチャンの主流理解かと思っています。 だって、神が「いや~、こいつ人殺しやがったけどまーそーだなー、納得いかねーけどとりあえず赦すか(^^;)」見たいな赦し方をなさるんでしょうか?(笑) 過去現在未来を含めて全てを理解し、完全な決断をする事ができる(と私は確信している)存在が? つまりセーフということは私の意見と何ら変わらない性質のものかと理解します。 補足最後のパラグラフ。 「リアルの事件」なら当然そうしますよ? ここは当事者のない仮想空間でしょう? お礼欄一つ目(振り込め詐欺) ほんの数回ですが、質問者さまの知能レベル、あるいは注意力、もしかしたら今回のコメント時の集中力に疑いが生じ始めています。 質問者さまのこの件に関する書き込みをもう一度よく読み直してから改めて私の当コメントを読んでみて頂けますか?論点がそんなところには無い事は明白だと思うのですが。。。 知力はあるが集中力がないというなら仰ってください。 中身の無い不毛な礼儀や習慣としての回答は不要です。 次。 ここは質問者さまを指して「信仰者でない人に対して~人知の及ばない~バカバカしい」と言っているのですよ? 質問者さまはキリストでなくとも(キリスト者には奇跡(例えば復活)の信心は必須ですから)何かしらの信仰者なのかもしれませんが、少なくとも文面上では「自分は解っているスタンス」でしたよね? 少なくともこの段階までは。 次。 小学生ならね。 普通備えていてしかるべきレベルの誠意を持ち合わせている人ならそもそも自分の知恵が及ばないエリアがある事は踏まえて会話に望んでいるのでこれを説明しなくてはならない状況になりにくいですし、説明しなければならない様な自覚の無い人あいてだと、自分が何も解ってない事が解ってない大人にはこの点を納得させるのはめんどくさいですよ? 色々と。 やはり実行動無しですか? 実行動は会話時の前提知識の収集方法としてもとても大切な要素ですよ? 次(わたしたちが始まりと終わり) 象の子は象に似ています。 人の子は人に似ています。 神と人とも同じように似ていると私は教えられていますし、教えが無くてもそう信じるに至っていた事でしょう。 ですから、私たちの事とも言えますが、この場合主に指しているのは神です。 私は最低限悟りと言って良いと思うベースラインは「生まれて来た事が無い久遠の昔から成仏している」ではないかと考えている面もあります。 質問者さまには「生まれて来た事が無い」と言えば何の事か解ると信じています(笑)。 故に説明は長くなるので省かせてください。 最後(説明せず) エホバでも統一教会でもそれがどうとかなんだとか語る気はありませんが、素朴に思った事として。 予言者がヨハネで終わっているならパウロは何によって語ったのでしょう? ペテロは?他の弟子たちもです。 また、私の信仰の持ち方は、知識が無くとも救われる可能性は十二分にある。です。 知能障害を持っている人はそれが理由で救われないのでしょうか?今我々が接している大多数の人間は信仰について何も知らないから救われないのでしょうか? そうだとすれば信仰者の布教に関する怠慢の罪は計り知れない。 私は無宗教でも知識がなくても救われる可能性は十二分にあると考えている(愛は信仰よりも偉大)ので、エホバや統一教会が信仰について何か知っていようが居まいがそれを持ってその人を判断する事はしません。 質問者さまが実践の一形態として説明力の必要性を挙げていらっしゃるのかと思ったので、質問者さまに説明のしばりを付けるつもりでした(笑)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私がここで言いたかったのは「罪人でない人の事も罪人として裁いたり、苦労させるだけさせておいてその苦労をする報酬として望んだ報酬を与えない可能性がある位神ご自身が法律の様なものに支配を受けておられず自由な意志をお持ち」のようだと言うことです。  ここでは弟子の思考は問題にしていません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神のこころを忖度することは してはいけないということではないでしょうが なぜするのか? 何のためにするのか? が伴なわれているものと考えます。そうでなければ ただの想像です。想像だけを一たんしておくという行為です。  つまりは なぜ・何のために神のこころを捉えてみるのかを考えるなら たとえば《弟子の思考》にもかかわって来ます。弟子本人は 知らないところに置かれていたとしても それを弟子の思考にかかわらせて捉えるかたちになります。むろん 弟子に限りません。誰かひとりの人間にかかわっているはずです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  律法を重んじる視点、律法を廃止されたと考える視点、命は例外なく殺めては行けないとする価値観、場合によっては人であっても殺める事もあるとする価値観、etc様々な視点が聖書には含まれている可能性を示唆してるだけなのですが、どうしてこれを「固定」とお考えなのかもう少し詳しく説明して頂けますか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 多様性をもった解釈も 一つひとつの解釈例が それとして固定します。ひとつのオシエとなります。そのオシエに従うのが 信仰であるといったあやまった捉え方につながります。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  三つ目の☆の説明(このレベルに至っているのか)  預言でも廃れるのですよ?  「部分に過ぎないから」です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに始められたくだりは よくつかめません。  わたしの言おうとしていることは 《レベルに到っているかどうか》は 問題ではないということです。よ。  群盲象を撫でるのくだりについても どういう批判になるのかが分かりません。    ★ また、知っているのではなくそう信じている、確信しているのです。  ☆ 《信じている》というのは その中身が何であるかは 分からない(非思考)はずです。また けっきょく《無根拠》ですよ。霊ということが そうだと見ます。  《確信している》というのは おそらく言うならば《希望》の問題なのでしょう。けれども もしげんみつに言えば かたちの無いものが希望です。非思考なのです。《鏡に映しておぼろげに見ている》といった表現での説明もあるにはありますが。  ★ 我々は結婚し、お互いに相手の言動に責任を帯びますが、何を根拠に他者の言動に責任を負うのでしょう?信じている、確信しているからでしょう?  ☆ これは あたかも人格が一体となったかたちであると見なすからです。それに 連帯責任であるのは 互いに相手のことを・そのすべてを生涯にわたって引き受けたからです。  そのような意味合いで言っていることが  ★ これは知っているのではなく信じている(だけで十分だからな)のですが、質問者さまはあくまで「知っている」に拘るのですか?  ☆ というふうに聞こえたのでしょう。知識を問題にしていることはありません。信仰にかんするかぎり。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  四つ目(神がよく知りもしないで人を殺す~)  神の心が分かったその瞬間に  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《神の心が分かった》という仮定が そもそも自明ではないということです。いろんな場合があるのだし その場合に応じて《分かった》としてもそれは あくまで《わたし》一人の内面における出来事だということです。検証し得ないのですから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  五つ目の☆(霊に関することは~)    (あ) 霊性と信心によって読まなければならないのは間違いありません。  (い-1) 正義と慎重と思慮と誠意とを持って読まなければ世は冤罪の山です。    (い-2) それをしていない(であろう)人にそう読むものなんだよ~と「思い出させてあげる」のはとても大切な事です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ)の例と(い)の二例とは はっきりと別だということをこちらは言っています。  (あ)は 思考に非ずです。だから 神のこころが分かるか分からないかが 人間には分からないのです。  (い)の場合は いづれも 人間の思考にもとづいてその考えと判断とを相手に表現しているかたちです。  両者は まるっきり別のコトなのです。  次のパラグラフの問題は それと関連します。:  ★ だって、神が「いや~、こいつ人殺しやがったけどまーそーだなー、納得いかねーけどとりあえず赦すか(^^;)」見たいな赦し方をなさるんでしょうか?(笑)  ☆ もし仮りの笑い話でないとすれば そういった神のこころの忖度は してはいけないとは言いませんが しても その成否や当否は 人間には分からないのです。《非思考》という大前提がそこにはあります。  ☆☆(No.6捕捉欄) ひとつの解釈例としてセーフであるかも知れない。  ☆ これは わたしにあっては 《赦し》とは別です。解釈例がありうるかも知れないと言ったまでです。言いかえると 検証は出来ないということ。つまり 解釈した当人にとってはその主観内面において 真実であることがあり得ると言ったものです。  《赦し》とは 別です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  補足最後のパラグラフ。  「リアルの事件」なら当然そうしますよ?  ここは当事者のない仮想空間でしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえ そういう意味ではなく 《仮想空間》にあっても 具体的な事件を想定して解釈をおこなったほうがよいのではないかというわたしからの物言いです。  ★★(回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~  実の息子も言う可能性のある言葉だから騙されるんでしょう。  違いを区別する洞察力や吟味力を身につけなければならないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ それもそうですが 〔騙されないためには〕確かめればよいのでは? 誕生日はいつか? とか。田舎の様子は変わったよ あそこのことを覚えている? とか。  ☆ このやり取りでかみ合っていますよ。この質問をして相手が息子であることを確かめることは 《洞察力や吟味力》だと言えばそうなりますが。  ★ 「自分は解っているスタンス」でしたよね?  ☆ ですから 信仰にかんするかぎり 思考ないしその合理性を超えて何も知らなくても究極の姿を表現して話を――信仰論という特殊な場合なのですが――すすめることがあると言っています。  その《解かっている》の中身が 信仰にかんしては 思考における論理的な整合性だけによっては判定出来ないということでしょう。  そうして その経験合理性が当てはまる問題にかんしては 人間の判断で《判定し裁く》こともありでしょうが 信仰にかんしては その裁きは無理です。自分の趣味やお遊びで言ってみたということに留まります。  ★ やはり実行動無しですか? / 実行動は会話時の前提知識の収集方法としてもとても大切な要素ですよ?  ☆ このようにやり取りをすることが 《実行動》です。  ★ 質問者さまには「生まれて来た事が無い」と言えば何の事か解ると信じています(笑)。  ☆ 神秘思想は ご自由にどうぞ。  ★ 予言者がヨハネで終わっているならパウロは何によって語ったのでしょう?  ☆ 預言者は 想定として神から遣わされたというかたちです。その人物を言います。  パウロらが語るのは 預言としてです。信仰によって得られる直観や観想を解釈するということです。《異言》とは別だという意味合いでの《預言》です。パウロらをもう預言者とは呼ばないのが ふつうでしょう。  ★ また、私の信仰の持ち方は、知識が無くとも救われる可能性は十二分にある。です。  ☆ それと異なる内容を言ったおぼえはありません。もっと言えば エレミヤ書31:31以降のあたらしい契約がイエスによって成就したあとは 信仰がなくてもすくわれていると見ます。その信仰の確認・自覚が成るとさらによいという意味です。  ★ エホバや統一教会が信仰について何か知っていようが居まいがそれを持ってその人を判断する事はしません。  ☆ ここは確かに見解を異にします。

noname#206898
noname#206898
回答No.7

じゃあ 元に戻して・・ そもそも 書いてある人物の蕩減条件は それぞれ違うのです・・ なので 一人一人 解き明かさないと難しくなる・・ そして 此処では アダムの家庭 アブラハムの家庭 モーセ イエスと数人に登る蕩減条件の違いを示さないと 全ては解からない・・ 蕩減条件は その時に依っても変わるので 時代の蕩減条件の減少も含まれています・・ なので 簡単に説明は不可能・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ▲ (ヰキぺ:蕩減(とうげん) ~~~~~~~~~~~~  http://www.weblio.jp/content/%E8%95%A9%E6%B8%9B    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/12/11 23:23 UTC 版)  罪を清算すること。そのために立てる条件を「蕩減条件」と言う(、p249)。  ※この「蕩減(とうげん)」の解説は、「世界基督教統一神霊協会の関連用語」の解説の一部です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これは 聖書の話ではありません。人間が決める問題ではないからです。

noname#207138
noname#207138
回答No.6

こんにちは。No.2です。 マルコ10章の違った読み方をするというのがあまりにさらりと流れすぎていてどう違うのか伝わってきませんので、もう少し説明を加えて頂けますか? >というひとつの定まった読み方をかかげることから自由になること。 これももう少し説明を加えて頂けますか? その次の☆コメントも、その次の☆コメントも。 >それが信仰の究極のすがたです。 質問者さまがこのレベルに既に至っていると? 至っていない前提で話しているのですが、あくまでも質問者さまは至っていると? その次の☆コメントも至っている前提ですよね? その次の☆コメントに関しても。 神がよく知りもしないで人を殺す事があると言いたいのでしょうか? その次の☆の説明も必要です。 どうアウトなんですか? ●ここでやっと言っている意味がわかる☆コメントがでました。 これに対する回答はこうです。 そうですね。やや言いすぎたかもしれません。でも他に「隣人を愛せよ、敵を愛せよ」の解釈がある?あったら教えて頂きたい。 となります。 次の☆も。。。 「お母さん!お金が必要なんだ!僕の口座に振り込んでおくれ!」と言うのは必ず振り込め詐欺の犯人だけでしょうか? そうだとしたら振り込むお母さんはどんだけバカなんですか。。。 実の息子も言う可能性のある言葉だから騙されるんでしょう。 違いを区別する洞察力や吟味力を身につけなければならないのではないでしょうか。 信仰者ではない人に対して神や仏を持ち出したら話し合いとして成立しないのは理解してますよ? その意味でアウトの意味も解ります。 でも、実際に人知の及ばない事があるのに全てを解ったつもりになって話しているのならそれほどバカバカしい会話も無いです。 もし私の前で小学生に大学でならう公式を踏まえた上でないと理解できない事柄の説明をしている人がいたら私もその人を「アウト」だと思うと思います。 でも、これは小学生のレベルがその人に至っていないからアウトなのであって、その人が説明している事自体は正ですよ? その次の☆は●と同じです。 次の☆については学ぶべきもありそうですね。 優等生、つまりそれが優良であると判断を下しておきながら、優等生回答では仕方が無いという現状もバカバカしくて相手をするのがめんどくさいのですが、まあこの点は進歩の余地はいくらでもあるところといえばあるところです。 努力しましょう。 最後の☆。。。 始まりと終わりである方についての話題に出発点も終着点もなくないですか? 意味がよくわからない☆が多く、質問者さまの言いたい事があまり伝わってきませんが、雑感として頭で考えてるだけで実行動は何もしておらず、実行動をとっていない事に対して何も疑問視してはいなさそうだな。。。 それならこういう考えになるだろうな。。。 と感じています。 質問者さまはご自身の考えがこちらに(ある程度でも)伝わっている前提で話されている言葉が多く、こちらがどう受け取っていいのか解らないのですよ。。。 質問者様の頭の中では恐らく筋が通った一本通りの☆コメントなのかもしれませんが、私には何を言っているのか正直解らない。。。 少なくとも私に対しては省略し過ぎです。 レベルが低過ぎる人間が一回り大きな枠で生きている人間の言う事が理解できずに愚かな事を言っている様に、もしくは支離滅裂な事を言っている様に聞こえる事があります。 逆に、レベルが一回り高い人がレベルの低い人が何が解らないのか解らず、どこでどう誤解しているのか解らない事もあります。 どちらの場合でもこの段階ではコミュニケーションの失敗です。 この場合、お互いに、もしくはどちらかが歩み寄って相手とのコミュニケーションが取れる様に工夫する事が必要です。 因にNo.5さんへのコメント内の☆についても説明して頂いても良いですか? この回答に対するお礼なり補足なりでNo.2のコメントに対する説明が無ければもう良いです。 No.2の冒頭で言った様に「再チャレンジ」ではなく素朴な発言なので。

bragelonne
質問者

お礼

 (つづき)  振り込め詐欺をめぐって:  ★ 違いを区別する洞察力や吟味力を身につけなければならないのではないでしょうか。  ☆ それもそうですが 確かめればよいのでは? 誕生日はいつか? とか。田舎の様子は変わったよ あそこのことを覚えている? とか。  ★ でも、実際に人知の及ばない事があるのに全てを解ったつもりになって話しているのならそれほどバカバカしい会話も無いです。  ☆ ここからは おとぎ話なのですがとか 神はあくまで想定だということを前提としての話ですがとか言って話をすすめればよいのでは?  ★ でも、これは小学生のレベルがその人に至っていないからアウトなのであって、その人が説明している事自体は正ですよ?  ☆ ということを その小学生にちゃんと分かるように言ってやりその点では納得が行くようにだけはすればよいのでは?  ★ 次の☆(= 優等生とその答案の件)については学ぶべきもありそうですね。  ☆ ありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  最後の☆。。。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ そして”答え(とするもの)”に至ったときは、それは他人と議論する必要のあまりない暗黙のうちの了解になっていると想像します。   ☆ じつは ここが出発点なのです。よ。その出発点に立つまでの作業は 《密室》で信仰の動態としておこなわれます。それを ひけらかすことはありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  始まりと終わりである方についての話題に出発点も終着点もなくないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ わたしたちがそれぞれ《始まりと終わりである方》その人ですか?  信仰は 時間過程に沿ってはぐくまれる動態でもあると思います。ただし 初めの信仰の出発点ですでに たしかにおっしゃるように 終着点にも立ったことだとはわたしも考えます。ブディズムふうに言えば 即身成仏であり即得往生です。  なおかつ 日から日へわたしたちは 変えられて行くというのも 実際だと見ます。いまはまだ世界を鏡に映すようにおぼろげに見ているが その時には 顔と顔を合わせて見るように見ることができる。・・・  聖書談義 につきましては まだあなたとの間で始まったばかりですから。一つひとつ解きほぐして行けばよいのではないでしょうか。こちらは えらそぶって語っていますが。  ☆☆(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~   方向性として解かっていると言いました。   ■ 実践だって解かってる筈なのです・・   ☆ という意味では分かりません。むしろ 反対です。つまり 説明せず・また説明しえずに実践はないという意味での反対です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この方は おそらくエホバの証人でしょう。《証人》として救われる人間が決まっているとか いついつ何時にあれそれのことが起きるとか そういった《方向性として解かっている》と言ったのです。  ☆☆ 説明せず・また説明しえずに実践はないという意味での反対です。  ☆ 《説明》はなくはないのですが これまで幾度か修正がくわえられて来ています。  それに 預言者は バプテスマのヨハネで終わっていますから その点についても説明が必要です。  あとは エホバの証人は 《信仰》については何あーんも知りません。ヨハネ福音の冒頭で キリスト者は 血筋によらず肉の意志によらず人間の意志にもよらず 神の意志によって生まれたと書かれています。この《神によって生まれた》という信仰のことがまったくと言ってよいほど分かっていません。  すべては 《ただしい知識》によって生き動き存在すると思っているし そう言っています。  以上のようなことについては解かっています。その余のことは知りません。

bragelonne
質問者

補足

 あぽっするさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ マルコ10章の違った読み方をするというのがあまりにさらりと流れすぎていてどう違うのか伝わってきませんので、もう少し説明を加えて頂けますか?  ☆ ええっと:  ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ マルコ10:35-45を読むと、必ずしも期待した報酬がえられるか解らない状態でも試練を苦しみを受ける可能性が示唆されています。   ☆ ううーん。方向性として違った読み方をします。   ▲ (マルコによる福音書 10章 43-45) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   43: (* イエスの話がつづいているくだり) しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、   44: いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。   45: 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ つまり《報酬》や《試練》の問題ではないと考えます。勝手にやりたいことをやるという問題でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり もし《試練としての苦しみ》があったとしても それは先にすでに引き受けたものであるということを たとえやせ我慢としてでも・さらには負け惜しみとしてでも 言うでしょうね その人は。そして それはウソではないでしょう。  あるいはつまり その試練を経てさいわい無事であってさらには《報酬》を得たとします。けれどもそれは じつは確かに報酬を得るためにやったのですとは 口が裂けても言わないでしょう その人は。そしてそれは イツハリではないからです。  試練は くるしい。報酬は ありがたい。という思いと 上の真実は 両立するはずです。  《偉くなりたい》というようなことは 弟子たちの気持ちに合わせて言った言葉だと思います。  あるいはもし仮りにほんとうに《偉くなりたい》という気持ちから 弟子としての活動をおこなったとしても いづれは イエスと同じように  ▲ 45: 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。  ☆ という心が分かるようになったはずです。そういう問題ではないのでしょうか。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ★ 平たく言えば「聖書はある決まった価値観や視点に固定して物事を見ているとは限らない」という事です。   ☆ というひとつの定まった読み方をかかげることから自由になること。でしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もし定まった読み方をすでに定まったオシエのごとく押し頂くならば けっきょく律法による自己抑制と同じような行動様式になると考えられるからです。  ただし そうは言っても律法は アブラハムの信仰から得られた観想としての内容ではあります。信仰がどこから来ているかを考えるなら 律法も 聖であり霊であります。ただし それを守るのは 人間の知恵と能力と努力だけによっては出来ない。それだけでは 守り切れない。ということは すでにモーセの時代から分かり切っていたことです。  信仰によってですし 聖霊のめぐみによって 一点一画をも残さず守ることができる。  つまり・ですから 律法やオシエを固定した規範とする守り方から自由になるのが理想であると同時に その律法の内容じたいについては 捨てたわけではなくその自由なる理想形の中に保たれている。と見られるからです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >それが信仰の究極のすがたです。  質問者さまがこのレベルに既に至っていると?  至っていない前提で話しているのですが、あくまでも質問者さまは至っていると?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神について・信仰について何にも分かっていないときに わたしにおとづれ心の窓をノックしてくれたナゾのチカラがあったわけです。何にも知らないのに それを受け容れたわけです。雲をつかむような話であるのに。むしろヤミクモに信じたかも分かりません。  それと同じように いまキリストに倣った究極の信仰の姿に到っていなくても・さらには何ら知らなくても それでもアブラハムのヒラメキ(直観ないし観想)と同じようにイメージのうちに真実として得ているということはあり得ると思います。    ですけれども ぎゃくにあなたが次のようなことを説くなら あなたこそがすでに究極の信仰の姿に到っていると見られますよ。  ★★ 完全な神ですからまるで気分を害しただけで殺した様なタイミングで人を殺す事もありますが、当然頭の回転は天上天下一品ですから決断を下す段階ではあらゆる事が精査されていると考えるのが自然。  ☆ そこまで知っているとは すでにあなたは神のレベルですね。と言われるでしょう。  ★ 神がよく知りもしないで人を殺す事があると言いたいのでしょうか?  ☆ 分からないと言いたいのです。ただし 分かる場合が 時として人によってその当事者に応じて神のこころが分かったということがあるかも知れません。(検証はむつかしいでしょう)。  ☆☆ ということは(=霊にかんすることは) 心の奥にしまっておいて すべては《話し合い》において具体的な自己表現として示すのが キリスト者です。オシエを持ち出したら そのとたん アウトです。そのくらいのきびしさで臨むべきでしょう。  ☆ 霊の話は ほかの人が検証し得ないのですから 安易に持ち出すのは 相手の人に失礼です。反論をしようにもできない次元のものだからです。ですから それを軽々しく持ち出したなら 伝わるかも知れないものも霊の問題としては伝わらなくなる。ただのオシエつまり思想になってしまう。しかも検証し得ない。ということは そこで民主的な・人間性の次元での話し合いは ストップしてしまう。アウトですよね。  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~   ★ 自分を殺す敵の事をも愛する様要求する人が人殺しを良い事だと考えているとは考えにくいが、仕方の無い場面もあるという事。   ☆ 人間であるあんたが 決めることでも言うことでもないのでは? とツッコミを入れられたらどうします?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ そうですね。やや言いすぎたかもしれません。でも他に「隣人を愛せよ、敵を愛せよ」の解釈がある? あったら教えて頂きたい。  ☆ ひとつの解釈例としてセーフであるかも知れない。  問題は そういう解釈は 具体的に特定の事例をめぐっておこなうとよいと思います。一般論は 独り歩きしてしまうと やっかいですから。あるいは むしろオシエの解釈のほうによりは 当事者それぞれの人間を理解することのほうに力を注いだほうがよいかと考えます。それが 愛することだと一般論ぶって言えるでしょうか どうでしょうか。  (つづく)

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  • あなたは 自由を持て余しているか

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    宗教学に詳しい方おしえてくだい。 モーセの十戒に、唯一神であること、偶像崇拝禁止などが含まれています。モーセはイスラエルの民を引き連れ、エジプトを脱出し、新たに十戒を設けたと思うのですが、多神教の教義の問題点(多数の神々、偶像崇拝)を考慮した結果に思われます。 (1) 多神教においての多数の神々を崇拝する事においての問題点はなんですか? (2) 偶像崇拝を禁止した理由はなんですか? (3) その様な記述はありませんか?また、宗教学者の見解はありませんか? また、創世記には、アブラハム・イサク・ヤコブの3代の族長の物語が記されていますが、 (4) アブラハムの時代の教義(古代イスラエルの民)には既に偶像崇拝禁止、一神教の概念があったのでしょうか? (5) それとも創世記の内容自体、モーセ以降の時代の人間が、先代から聞いてきた内容を踏まえ、旧約聖書に織り込んだのでしょうか ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信じるいわゆる聖典の民は、いずれも唯一神がアブラハムを人類救済のために選んだ預言者として尊敬し、祝福する傾向が強いとウィキペディアにありますが、 要約しますと (6) モーセが、何故、唯一神、偶像崇拝を禁止にしたのか・・・その理由 (7) アブラハムの教義には、既に、唯一神、偶像崇拝禁止の概念があったのか (8) アブラハムの生まれた時代には、その周辺の教義は主に何だったのか 以上、宜しくお願い致します。

  • 聖書とは 何か?

     関連するすべての質問についてこの初めの問いをしておけば 問い求めが分かりやすくなるのではないか。  初めということは しばしば終着駅における結論になるとも考えられますが ともかく出発してみます。  むろん哲学としての問いです。  たたき台としては:  (1) 信仰とは何ぞやという問いについて 答えている。  (1-1) たとえば 《信仰が与えられるのは 血筋によってではなく 友情や義理人情など生活上のかかわりによってではなく あるいは人間の意志や努力や学識によってでもなく 無根拠においてである》と。  (1-2) たとえば 《理性や知識あるいは知恵によってではなく ひとは 信仰によってあゆむ》と。 哲学としては 《無根拠によって》という意味になるかと考えます。  (2) その信仰の対象である神は 非経験であり非対象である。ゆえに 無い神をいだくのも――つまり無神論も―― 信仰である。    (2-1) 《無い神》と《神は存在するというときの有る神》とが 《人間と非経験とのかかわり》としてその人の非思考なる姿であるという類型において互いに同じ信仰形態である。    (2-2) つけ添えるなら 《有る神》のその名も それが何であっても まったく問わないということ。名前の違いには 意味がない。  (2-3) 言いかえると 聖書は 新約聖書に到って そのアブラハム以来の神を経験世界の背景にしりぞかせた。  (2-4) 神は 良心と信教の自由なる公理にうちにみづからの身を隠した。言いかえると おのおの主観内面におさめられた。  (2-5) (ただし その主観の自己表現として 神の話をするなということではなく してもよいし それは 説明責任をともなった表現の自由にもとづきおこなわれる)。  (2-6) 無い神の話と有る神の話とが 同列にあつかわれる。  (2-7) いわゆるもろもろの民族宗教も 以上のような扱い方のうちに揚棄されて行く。  ☆ いろんな角度から捉えられていくかと考えます。ご回答の内容について 納得できるように質問者はたずね返してまいるかと思います。その点 つけ添えます。

  • カインを殺す者

    カテゴリー違いかもしれませんが。 旧約聖書創世記第四章で、アベルを殺害した後のカインが 「私に出会う者は誰であれ、私を殺すでしょう」 と言っていますが、この時点でヒトは、アダムとイブのカインの三人だけなのではないのですか? さらに、ノドの地で妻も得ています。 この頃のヒトの寿命を考えれば、カインの一生の間に、相当数のヒトが産まれていてもおかしくないでしょうが、それはこの時点で心配することでも無いように思います。 どういう事でしょうか?