- 締切済み
「和をもって尊しとなす」 by 聖徳太子(604推古12制定)
一般的に「和をもって尊し」をはじめとして理解されている、彼の17条の憲法。 「儒はこれ五常の宗、五倫の源なり。五常は身を修めて道を理め、五倫は身を立てて、世を建つるものにして人として之を学ばざれば、則ち禽獣の消息に落ち、永く君子の威儀を失わん。其の学ぶ所は、人の和を先にすべし。 」 日本には「和」がなかった? だから、太子は「和」を説いたのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
- otafukutiger
- お礼率50% (577/1142)
- 政治
- 回答数7
- ありがとう数6
- みんなの回答 (7)
- 専門家の回答
みんなの回答
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
蛇足の参考程度に 神道には教えがありません。神道の政治は本来的には徳治政治ですね。 アマテラス、ヒミコ以来の日本の徳治政治は「和」を尊んできたのではないでしょうか。法律がなければ「和」と儒教精神でないと治めることは難しい ですね。ヤマトの国の当て字に「大和」を使っていることからしても妥当なように考えます。 #6のpandapapaさんのご指摘のように、 国として確立するために仏法を教えとする教えによる政治が必要になった。 そこで憲法が必要になり、憲法の第一条は、日本人にとっての「和」の精神が盛り込まれたと考えられますね。つまり「和の精神」は過去から面々とヤマトの国の基本理念であったこいうことですね。 物部、曽我氏の戦いは旧勢力と新しい国づくりの考えの「いわゆる明治維新と同等のもの」相克ではなかったかと考えられます。 憲法は、当時の巨大な隣国の中国との外交を考えると道徳的なものではありませんね。国家としての憲法だと考えられます。明治維新でもそうでしたね。同じような変革があったと考えることが出来ますね。 参考程度に
- pandapapa
- ベストアンサー率0% (0/0)
井沢元彦の『逆説の日本史』小学館(単行本で9巻室町時代くらいまで出ています。文庫本もあります。)をお読みになることをお勧めします。2巻に聖徳太子の項がありますが、十七条憲法や「和」については1巻の86ページから109ページを参照されるといいでしょう。 今までの既存の歴史認識と異なり、くせのある論ですが、一読されると日本の歴史についても認識を新たにされると思います。 他の方が回答されているように、聖徳太子があの時点で「和」を説いた背景には物部氏と蘇我氏の争い、叔父である崇峻天皇の暗殺など、多くの戦乱が背景にあると思われます。ただ、井沢氏が指摘しているように、日本人にとっての「和」の意味が十七条憲法に凝縮されているのでは。なぜなら、聖徳太子は熱心な仏教徒でありながら、この憲法の第1条は、仏教のことではなく、また、天皇でもなく、「和」なのですから。
当時.宗教も政治も科学も芸術も同じようなものです。 極端に言えば.政治の一分野として宗教がありました(東大寺かいだんいん参照)。 宗教を使って.民衆を納めていた地代です。 当時の時代背景は2番の方が記載しているので省略。 この戦乱を押さえ.聖徳太子による独裁政治体制を確保するのが.聖徳太子の仕事でした。
こんにちは。 この時代については推測の域を超える事は難しいのではと思います。 皇位継承の複雑さ・・用明天皇から崇峻天皇、推古天皇となぜか聖徳太子が皇位継承の対象外だったり(用明天皇の息子にも関らず・・・結果的に推古天皇の皇太子にはなったのですが・・)、蘇我氏の台頭などが関係あるのではないでしょうか。 聖徳太子は宗教家としても名高い人物でもあるので、和を説く事は不思議な事でも無い様な気もします。(その割に四天王を刻み物部氏を滅亡させる片棒を担いでいる一面もあったようですが・・・)
- izumokun
- ベストアンサー率30% (1129/3679)
No.1の方の回答への疑問 この世に誰もタバコを吸う人がいなかったとします。そういう状況で、禁煙席や禁煙室などを設定するでしょうか?甚だ疑問です。歴史学的に見れば、逆説的に捉えて正解だと思います。即ち、No.2の方が述べておられる通りでしょう。 なお、もう一つ加えるなら、加羅(任那)の回復も意識されていたと思います。この当時の朝廷は、まだ全国の完全制覇をなしえていないので、鉄鉱石の供給が必要でした。そのためには、何としてでも加羅(任那)の回復は不可欠な条件であったからです。高句麗や新羅との戦いは、国内の秩序が乱れていては不利なので、「和をもって尊し」と説いたと推察されます。
- nyatann
- ベストアンサー率29% (121/406)
「十七条憲法」制定前の状況を見ると蘇我氏と物部氏の対立から勃発した「物部戦争」、「祟峻天皇暗殺」など「和」とは全くかけ離れた対立と混乱の状況を呈していました。 故に太子は憲法に「和をもって尊し」と説いたのではないでしょうか。
- ururai
- ベストアンサー率13% (89/674)
和があったからこそ、和を説いたときいたことがあります
関連するQ&A
- 聖徳太子について
カテゴリはここで良いのか、それすらも分かってないのですが、違っていたら「違います」の回答でも構いません。 聖徳太子、十七条の憲法の第1条『和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為す』の中の『和』とは何と読むのが一番正しいのでしょうか? 昭和10年に出された改訂では、「やはらか」つまり『やわら』と読んでいますよね? もしくは、少し聞いた話では、当時『和』と言う人がいたとか・・・。 それでも質問は同じです。『和』とは何と読むのでしょう? 実は、クイズみたいなもので調べているのです。 人(女性)の名前で『和』と書いた場合、何と読むのか? 上の文章は自分で調べ、そこまでたどり着きました。関係があるのかないのか、それも分からないのですが・・・。 下の文章は問題を出した知り合いからヒントと言う感じで聞きました。しかし「やわら」とは読まないそうです。 もし、『分かる』と言う方、『こうじゃないか?』と言う方、いらっしゃいましたらよろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 文学・古典
- 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ
まづ 憲法とやらを読みます。 ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~ 一に曰(い)わく、 (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。 (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 次のように問います。 (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。 ▼ (五箇条の御誓文) 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています: ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~ 【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ 奔亡するものなほ多し。 禁ずと雖(いへど)も止まず。 とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・ 【上田正昭】 その翌年の正月にも 諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。 溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず。 というのが出ていますね。 【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。 【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。 草枕 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに (万葉集 巻三・426番) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。 ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~ 上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首 家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。 (4) たとえば ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。 口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。 (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。 権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。 (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。 (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。 (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう?
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ
まづ 憲法とやらを読みます。 ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~~~~ 一に曰(い)わく、 (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。 (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 次のように問います。 (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 表現の自由 これを 基礎とすると言っています。まづこれを確認します。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。 ▼ (五箇条の御誓文) 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています: ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~ 【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に このころ聞く 諸国の役民 造都に労(つか)れ 奔亡するものなほ多し。 禁ずと雖(いへど)も止まず。 とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・ 【上田正昭】 その翌年の正月にも 諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。 溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず。 というのが出ていますね。 【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。 【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。 草枕 旅の宿りに 誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに (万葉集 巻三・426番) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) 先の(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。 ■ (万葉集 三・415) ~~~~~~~ 上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死〔み(身)まか(罷)〕れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首 家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ すなわち 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけています。聖徳ぼんくら太子の歌では ああ かわいそうに・気の毒にとだけ言っています。 (4) たとえば ▲ (あ) 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。 口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ おれたちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。 (5) 聖徳うすのろ太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになり(そう言われています)そこで前者に味方し 後者の守屋ら物部氏を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらっちゃってもねぇ。 権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。 (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。 (7) しかも・しかも 聖徳へなちょこ太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われた・みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。 (8) スサノヲ人麻呂の心意気なら 和の精神をめぐって何が大ごとだと見ますか? どこでエラーが出て来ているのでしょう?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 倫理規範と法規範の違いは?
17条憲法は、聖徳太子「憲法」といわれてますが、その16条規定を除いて、全ての条文は、天皇、君子に対する官僚への倫理規定、規範と読めるのですが・・・・・・又、明治憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第3条)なども宗教性の倫理規範に読めます。法律規範と倫理規範との明確な違いはなんですか?例文を挙げてご教示いただければ大変ありがたいのですが。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・
・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。:(α) この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。 参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。 ・論文:聖徳太子は ただのくそったれ ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~ 一に曰(い)わく、和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。 しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 最後の一文は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。 ▲ (五箇条の御誓文) 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ (2) 次に 同じ最後の一文の中からですが ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて ☆ については 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが: ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~ 【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に 《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。禁ずと 雖も止まず》。 とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・ 【上田正昭】 その翌年の正月にも 《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。 溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。 というのが出ていますね。 【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。 【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。 《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに》 (万葉集 三・426) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。 ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~ 上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首 家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとに帰って行きなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。 (4) ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 ☆ と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。まねをして和をとうとぶと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。 (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋を亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。 権力は握った もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。 (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。 (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には みまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだとか。ちゃんちゃらおかしいわい。 (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みませんか?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・
もし和を以って貴しと為せと言われなかったなら・・・ ・・・わたしは 和を乱すことを知らなかった。 :(α) この(α)の命題についてお考えになるところをおしえてください。 参考になるかどうか 聖徳太子についての批判をつづります。 つるぎを投じることになるひとつの視点です。 * ・ 論文: 聖徳太子は ただのくそったれ ▲ (十七条憲法) ~~~~~~~~ 一に曰(い)わく、 (あ) 和(やわらぎ)を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 (い) 人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。 (う) しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) 最後の一文(う)は いわば民主主義に通じる自由な言論 これを 基礎とすると言っています。明治維新でも 同じく《万機公論》と言いました。 ▲ (五箇条の御誓文) 一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ (2) 次に 同じ最後の一文(う)の中からですが ▲ 上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて これについては 眉唾物です。お上つまりお二階さんの論理と目線で ものを言っているといううたがいを拭えません。時代は違いますが われわれは次のような歴史を経て来ています: ◆ (上田正昭:『日本文化の原点』) ~~~~~~ 【直木孝次郎】・・・たとえば七一一(和銅四)年に出された詔(みことのり)に 《このころ聞く 諸国の役民 造都に労れ 奔亡するものなほ多し。 禁ずと雖も止まず》。 とある。これは・・・労役のために都へ出てきている人民――これが都城建設 道路づくりに使役されるわけですが 生活 労働が苦しいために途中で逃げ出す者が多い。禁止しても止まない。・・・ 【上田正昭】 その翌年の正月にも 《諸国の役民は 郷(さと)に還へるの日 食糧絶え乏しく 多く道路に飢ふ。 溝壑(こうがく=みぞ)に転びうづまるもの その類少なからず》。 というのが出ていますね。 【直木】 ・・・『続日本紀』つまり 当時の正史に記録されているわけですね。 【上田】 柿本人麻呂も 有名な歌を残していますね。 《草枕旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに》 (万葉集 巻三・426番) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3) その(2)のうたがいを証拠立てるには 聖徳太子の同じような趣きの歌を見てみれば分かります。 ▲ (万葉集 三・415) ~~~~~~~ 上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首 家にあらば妹(いも=妻)が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人麻呂の歌(426番)では すでに死んだ人に向かって 早く起き上がりなさい ふるさとを思い出し 帰って休みなさいと声をかけていますが 聖徳太子の歌では ああ かわいそうにとだけ言っています。 (4) たとえば ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 と言われても 庶民はもともと けんかをしつつも仲間として和をもって暮らしていた。ところへ お二階さんたちが これをパクって 《和を以って》うんぬんと言いだした。 口先だけ庶民のまねをして和をとうとぶのだと言われても けっきょく 人びとよ自分たちには《さからうな》と言っているとしか聞こえません。都合のよいことだけを言っているとしか聞こえません。 (5) 聖徳太子は 国を挙げて例の仏教を受容するか否かのとき 崇仏派と排仏派の戦いになりそこで前者に味方し 後者の物部守屋らを亡きものにすることにたずさわった。そのように敵を倒したあと《和を以ってとうとしと為せ》と言っちゃってもらってもねぇ。 権力は握った 文句あっか もうおれたちには逆らうなとのたまわっていらっしゃいます。 (6) 無念のうちに波に呑み込まれた人たちも――つまりあるいは お二階からのでっかく酷い津波に呑まれかけたこれまでの歴史上の数多くの人たちとともに―― われは堂々と立派にまともに真面目に地道にふつうによく生きたと いまいちど起き上がって言って欲しい。 (7) しかも・しかも 聖徳太子の場合には そのウタに《旅人》として歌われたみまかれる人は のちに聖人であったと分かったと伝えられることになります。聖と聖こそ互いによくわかり合えるのだという尊き教えであります。――ちゃんちゃらおかしいわい。 (8) 人麻呂スサノヲの心意気なら 先の(α)の命題を飲みますか? * われらがふるさとを取り戻したいがために つるぎを一振り投じる問いです。 なにが おおごとなのでしょう? どこが エラーなのでしょう?
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 聖徳太子は何故「太子」なの?
下らない質問ですが、聖徳太子は何故「太子」と呼ばれるのでしょうか? 皇太子でも、皇子でもなく「太子」と呼称される理由が知りたいです。また、他に「太子」と呼称される方はおられるのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 聖徳太子はいなかった!
日本書紀を指導した藤原不比等と その指導のもとで書き上げた道慈とういう坊さんが、自bンたちの都合のよい内容に書き上げた日本書紀。及び 藤原家の書物・懐風藻から 引用されて作り上げた聖徳太子像であって、実在しなかった人物像と言われ始めている。 誕生の経緯がキリスト園も出、生まれて2年目に 大人の言葉を発したとか、一度に多く人の要求を聞いて、皆答えたとか、あり得ない話ばかり。 これに関しての参考意見や 参考書物を教えてください。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
うむぅ。 できればもう少し詳しくお願いします。 この憲法(?)は、法規というよりもどちらかというと道徳的 なものだとは聞いたことがあります。 回答ありがとうございました。