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誰がそのボタンを押すべきか

死刑執行のボタンは誰が押すべきでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

出来りる事なら、死ぬ本人がいいね。 色んな意味で。 自分がその立場だったら、他に選択しがないもなら、少なくともそうしたい。 自分の命は自分の責任だと思うしね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 あぁ考えもしませんでしたがそれも確かにアリですね。 それなら当事者の納得度も上がるかもしれませんし、第三者もいやな思いをしなくてすみますね。

その他の回答 (20)

回答No.21

 回答番号:No.20  ☆人生の総決算としての死  ★こういう死であっても、意図してこさせることも、そして迎えることもできないのではないしょうか。  ☆問題なのは死に方ではなく生き方のほうではないですか?  ★生きることは死ぬことではないでしょうか?生とは死を含んでいませんか?『人生の総決算としての死』と同様に、どこまで人は生も死も意図できていますでしょうか?いえできましょうか?  ☆刑務所で生きるのと生きたい思う場所で生きることの違いと思います。刑務所で死ぬのは理由があるからでその理由はどう生きてきたのかによるのだと思います。  ★仰せのことは一面、そして局面として了解します。  ☆極論を言えば死は生体としての肉体の属性ですから『私』にとってはどこで死ぬかは関係ないのではないでしょうか。肉体の死と『私』の死を別に考える癖があるのでこんな回答になりました。  ★このこともよく理解します。唯、死刑執行における、非人間性と、苦痛に比較対照すると、末期の方の苦痛と非人間的あらせられ方は忍び難い思いです。  そのことに思いが致される、ということを述べた次第です。  何か話がかみ合っているのかどうか、不明ですがお教えを感謝します。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 はは、確かに話がかみ合っているのか分からないですが、 私はkrya1998さんの言わんとすることが70%位分かりましたよ。 残り30%は、 >苦痛に比較対照すると、末期の方の苦痛と非人間的あらせられ方は忍び難い思いです。 相変わらずここです。

回答No.20

 回答番号:No.18 はぃ。  考え方によっては、次元も性質も、事柄も異なることですね。  唯単に、死のthresholdということの対照として、視界・視角に入れ他だけす。  だから論ずるような事柄ではないという、一つの感覚であれば、仕方がありません。  私は人の死という中で、両方を見つめるように肩を押されているのです。  死に値いするとされる刑事犯罪もありましょうし、それでも死を国家と社会として課す正当性の問題もありましょう。  そしておよそ、生まれてきて死んでいくということはどういうことなのか。刑罰による死と寿命での死とどこが違うのか。  人の死は何なのか。死とは何を原因としているのか。  というようなことなのです。  寿命や神による死と、国家社会の刑による死との違いは何なのか。  そんなことを考えております。  名誉、安心立命(あんじんりつめい)、肉体と精神の苦悩(特に今の終末医療で、医療関係者は苦悩を感じないのか)というようなことです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人生の総決算としての死ならば死に方にこだわるのも分かるのですが、 問題なのは死に方ではなく生き方のほうではないですか? 刑務所で生きるのと生きたい思う場所で生きることの違いと思います。 刑務所で死ぬのは理由があるからでその理由はどう生きてきたのかによるのだと思います。 極論を言えば死は生体としての肉体の属性ですから『私』にとってはどこで死ぬかは関係ないのではないでしょうか。 肉体の死と『私』の死を別に考える癖があるのでこんな回答になりました。

回答No.19

教科書的回答が無いようなので、一応記載しておきますね。 死刑執行は、法に基づくのであって、強いて言えば法人たる国家、主権でしょうね。 実質的には司法→行政機関からの委任で執行機関が実施するわけで、正当にその委任を受けたその職務を遂行する自然人かつ公務員が押すべき人になります。 類似例に、自衛隊の戦闘員、海上保安庁の機銃士がありますね。 本人のやりたい、やりたくない、快、不快、世論の動向に関係なく、 やれと命令されればやるのが執行機関の責務です。根拠は法です。 その系列、つまり、執行機関の上司→上級庁→法務大臣以外は押すべき人にはなりません。 逆にいうと、もし間違い(冤罪)があったなら、国家賠償であって、国家以外が責任を負うことができない(極端を言えば、捜査段階で故意があれば殺人罪で告訴はされる)わけで、国家から正当な委任を受けた者しかこのボタンを押すことはできません。  国家は、誰に委任すべきかというご質問に転ずるならば、行政の組織上その職務を執行する公務員となります。被害者の家族等に希望によって執行させてしまうと、冤罪による間違った執行をやらせる可能性があるということになります。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 んーあくまで法の問題であるわけですね。 んー

回答No.18

 回答番号:No.16 のお書き込み:【私の質問にはまだお答えいただいていないように思います。誰がそのボタンを押すべきでしょうか。現状のことではなく回答者の意見が聞きたいのです。第三者が最適ならkrya1998さんはそのボタンを押すことに抵抗はないですか。死刑囚とはいえ人間を殺す罪悪感を誰が負担すべきかということです。】へ:  ○回答番号:No.9にて、第一案(現行とだぶりますが)を、いいと提示申し上げました。  ○それに対して、お書き込みがありましたので、死刑囚自らが押すとするべきだと、提示申し上げました。 でも、・・・  武士の切腹も、なかなかできにくく、自ら自宅などで切腹するに当たっても、更に頚動脈を切断したり、いろいろ遣るのです。  介錯人も剣術も腕力もないと反って、苦しませます。  しかも今の死刑囚に自ら死にいたるボタンを押させることは、仮令苦痛は切腹の1%であっても、たいへんな負担でしょう。  自らに押させる心の負担を出来るだけ除去してあげる、仕組み・制度・遣り方とその機械装置を考えることが必要でしょう。  その一案を提示申し上げたのです。  以上のほか、多くの苦しい、不治の病床にあり、あるいはご臨終を迎えている方を自分にも、近親者にも経験してきていますが、そういう方々と対照しての、死刑囚の国家による殺人をどう思われますか? という、補足のお願いを伺うことが出来ていないのですが。  動物の屠殺や死刑の方が、つらさは少ないように思えますが。  いかがでしょうか?

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり私のようなものにはkrya1998さんの回答は難しいようです。 >多くの苦しい、不治の病床にあり、あるいはご臨終を迎えている方を自分にも、近親者にも経験してきていますが、そういう方々と対照しての、死刑囚の国家による殺人をどう思われますか? 正直、なぜその2つを対照とするのか分かりません。 私には死に方の違いとしてしか認識されません。 私はどのような回答をするべきでしょうか?

回答No.17

shift2007さん。こんばんわ。 犯罪の抑制効果の問題は度外視して、 苦痛を強いられた人がこれ以上の苦痛を引き受けないように、 今後出来る限り安心して社会と関わることができるように、 その苦痛相応の刑罰を受けてもらうために死刑を執行する、 このような状況に限ってのこととして、 「>死刑執行のボタンは誰が押すべきでしょうか。」 についてシンプルに回答してみます。 ちょっと想像してみます。 わたしが誰かに何かとんでもない苦痛を強いられたとして、 わたしがその人をとんでもなく恨んでいるとして、 どれぐらい恨んでいるかというと、 今後、2度とわたしの視界に入って欲しくない、 もちろんそいつの生産した活字や音声が わたしの視覚聴覚に入ってくるのも断固拒否したい、 それぐらい恨んでいるとして、 でもこいつを殺したりなんかして、 こいつのせいでわたしが殺人犯なんかになるのもまっぴらだし、 「こいつ、死刑にしましょうか?」と言われて「うん。」とか言って、 こいつの死刑に関わることも汚らわしくてイヤかな。 罰を与えてくださるのなら、たとえば、 6面透明のガラス張りの広くて頑丈なスケルトンルームに住まわせる、 東京都内の駅の近辺がいいかな。 そのスケルトンルームの表札に 「かくかくしかじかの罪を犯した者」と明記する。 スケルトンルームだから日本国民全員のサラシものになる。 まあ排泄ぐらいは透過性の低いお部屋でもいいかな。 エサは充分に与えられる、冷房も暖房も充分に与えられる。 このようなスケルトンルームで、一生サラシ者になる。 こんな罰を求めたいような気がする、想像で書きましたが。 ふたたび。 「>誰が」ということになると、 やはり「死刑を宣告された本人」でなくてはならない気がします。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >「死刑を宣告された本人」でなくてはならない気がします。 この質問を立てるまでそう考えたことがなかったので目からうろこの思いです。 つくづく聞いてみるものだなーと思いました。

回答No.16

 回答番号:No.13  ご表現に少なからず、残念に思います。  動物の屠殺も人間にどこまで正当性があるかどうかわかりません。  私の単なる思い付きのボタンを自分でおす遣り方にしても、そこにつれていき、押させるようにする担当者は、殺人行為者でしょう。  むろん、違法性の阻却はあるでしょうが。  屠殺場というご連想なのですが、できるだけ心の負担をなくす遣り方に対しての、お書き込みに対してのことなのです。  どちらの遣り方も、国家と社会がそこに存在していて、人の手が加わるのでして、動物には申し訳ないけれども、屠殺場ということよりも厳粛なことになるのでしょう。  関係者が関ることは許されるが如き、社会思想では、現今は絶対にありません。  死刑制度を廃絶することに少なからず保守的ではありますが、判決と執行は慎重でありたいと存じます。  古希を半ばにしてきた、この身にとっては、知り合いも鬼籍に入る方も多くなり、肉親も見送ることが多くなりました。   私自身も病に苦しんで、健常・健康な状況ではないので、生きていることもむしろつらい。  多くの方の間際をみると、30分内外で肉体を、最小限の苦痛で出て行かれることを望みたくなるものです。  このことについて、ご質問者さんの補足をお願い申しあげます。  なお、屠殺場というおことばは謹んで、強く返上申し上げます。  せっかく回答させていただき、交流が、たとえこのサイトを介してであれ、あるもの同士として。申し訳ありません。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >とんとんと歩みを進め、そしてある一定の歩みに入ったら、機械的にその機構が機能を開始するようにすることでしょう。 これは私がネットで見た屠殺場の風景そのものでしたよ。 てっきり私はkrya1998さんが暗にそれを匂わせているのだと思ったのです。 違うのでしたらすみません。 >このことについて、ご質問者さんの補足をお願い申しあげます。 永遠に続く地獄はないし、これが最後と思えば苦痛もまた一興、 言いすぎですかね。 私の質問にはまだお答えいただいていないように思います。 誰がそのボタンを押すべきでしょうか。 現状のことではなく回答者の意見が聞きたいのです。 第三者が最適ならkrya1998さんはそのボタンを押すことに抵抗はないですか。 死刑囚とはいえ人間を殺す罪悪感を誰が負担すべきかということです。

  • hakobulu
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回答No.15

#8です。 >今回は死刑制度ありきでしましたがまあむずかいいことろです。 :そうですね。 関連してもう少し述べてもよろしいでしょうか。 1、 死刑制度が無くなると犯罪が増えるという考えもあるようですが、私はそうは思えません。 死刑が怖くて犯罪を思いとどまる、という例は稀ではないでしょうか。 現に、一人ぐらい殺したからといって(あくまで一般的には)死刑にはなりません。 知ってか知らずか殺人は起こっています。 いずれにせよ、死刑制度があっても殺人は無くならないことの証明でしょう。 また、死刑判決が確定するような犯罪者というのは、死刑制度があろうが無かろうが同じような犯罪を犯すと考えるのが科学的でしょう。 死刑の廃止が殺人増加につながらない根本的な理由たり得ると思われます。 2、 しかし、罰は必要でしょうね。 おそらく当人も無意識的には望んでいることのはずです。 そして、極悪犯罪に対しては社会的に認められている最高の刑が科せられるべきです。 その意味で、現段階における死刑執行は止むを得ません。 ただ、前述したように死刑そのものが、執行官のみならず国民全体に及ぼす無意識的罪悪感を考えればこの制度は廃止すべきだ、ということです。 個人的には(人間性を損なわない程度での)重労働付きで、恩赦なしの終身刑が望ましいと思っています。 存在を消すというおぞましい、しかも無用の経験をせずに済むからです。 遺族の方々にとっては生ぬるい話だという見解もあるかもしれませんが、結果的に、つまり無意識領域での記憶的に有効に作用するのではないかと推測します。 むろん、私が遺族の方の立場になったとしたら、やはり死刑を望むでしょう。 それゆえに制度として廃止しておく必要がある、ということです。 3、 死刑には反対ですが、その他の刑罰については甘すぎると感じています。 今の無期懲役などは出所可能が前提ですから意味がありません。 恩赦無しの終身刑に処すべき事例が多すぎるように思います。 但し、冤罪を防ぐために再審への道は常に開かれるようにします。 4、 #14さんのおっしゃるように、私たち全員に責任がある、というのはひとつの真理でしょう。 理不尽に危害を加えようとする犯罪者の生い立ちなどは、十分に考慮される必要があります。 社会全体の責任という構図は紛れもなく存在しています。 しかし、個人が社会を急激に変えることはできません。 身の回りのほんのわずかの人々に対して、どのように対応していくのがよいのか、各自がよく考えつつ言動する必要があるのだと思います。 人間ひとりの力はしれていますが、もし進化というものがあるとするならば、そういったことの積み重ねによってなのでしょう。 とはいえ、私たちは生身の人間ですから最低限の防御は必要になります。 犯罪がその個人だけの責任ではない、ということと、起こしてしまったことに対する責任を取らなくても良いということとは別問題でしょう。 それを言うならば、私たちの誤りは、常に私たちだけの責任ではありません。 しかし、最終的な選択をするのは常に自分自身です。 この自由に対する責任として、罪を償うという作業は必然でしょう。  

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 罰を与えると言うのは報復と言うよりは、罪を犯した人の自浄作用を期待してのものかもしれませんね。

  • kigurumi
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回答No.14

No.11です。 >ただそうなると殺人と死刑だけでなく、あらゆる罪と罰のセットも考え直さないといけなくなりますね。 罰を与えるでは駄目なんです。 中国では日本では考えられないようなことで死刑になるそうです。 罰を重くすれば人々は善良になるか、犯罪が起こらない国になるか。 なりませんよね。 原因を追究して、改善しなければ後を絶たない。 例えば殺人をした人が、「殺された奴は屑だ、屑をゴミ箱に捨てたまでだ。 死刑だ? 死刑になりたくって殺したんだ。俺は神だから殺せたんだ。 お前らも殺してやる。」と裁判でふてくされ大暴れしたとします。 常に反抗的で、反省のかけらもなく、この人を刑務所に入れて税金で衣食住をまかなうなんてとんでもない というほどの人だったとします。 反省の色が全く無く、自己中心的で、人間らしさがかけらも無い人に罰を与えたところで、懲りて改心などしないですよね。 何故ここまで自己中心的でいられて、他人の命を自分勝手に奪えたのか原因を突き止めないと、また 同じような通り魔が起ってたくさんの人が死ぬじゃないですか。 殺人をした人を死刑にして 「はい 問題解決」じゃないですよね。 自分たちの他人に対する無関心や、慈悲が無かったことも原因で、この人がそういう人になってしまったからかもしれないじゃないですか。 それでも人は他人を殺さない? 方程式ではそうかもしれませんが、実際は殺しているじゃないですか。 つまり 罪と罰をそれだけセット変更したところで、犯罪を犯す人はなくなりはしない。 飲酒運転が重罰になりましたよね。 モラルをいくら持てと言ったところで、誘惑に弱い人も現実いる。 罰を重くしたら、誘惑に弱かった人が強くなるかというと なりません。 人は他人を殺す能力があるが、殺さない。 酒を買う能力があるが、運転中は買わない。 でも、殺人能力があるため殺せてしまう、酒を買う能力があるから酒を買えてしまう。 アクセルを踏み込みすぎて、本人がいくらブレーキをかけたところで、ブレーキが利かない脳を持つ人もいる。 瞬間沸騰器の脳を持っており、脳の命令で殴り続け、殺してしまう人もいる。 「相手が悪いから殴ったまでだ」としか本人には思えない。 まさか脳がアクセルを一気に踏み込み、スイッチが切り替わらず、「これ以上やったら死ぬからやめろ」という命令が出るのが非常に遅い脳を持っていたとわからなければ、自分がやったことに対して説明がつかないので、ここまで殴ってしまったのには、それ相当に理由があり、相手が非常に悪かったからだ としか自分でも思うしかないから、聞かれたらそう説明し、自分のせいじゃないのに何故刑務所に入らなければならないのだ って主張になるじゃないですか。 じゃあ、そういう脳を持つ人かどうか子供の頃から検査し、犯罪を起こす確立が高い人を、殺しておきますか? どっかの町に住まわせて、そこから出無いようにしますか? 刑務所みたいなところに閉じ込めておきますか? 20世紀にあった人種隔離政策。 精神障害者、知的障害者、劣ると社会される人々を殺していった政策です。 一歩間違えばこうなってしまう。 人を3人殺し反省の色が無い人は、死刑にして、その人の子孫を増やさないようにすれば、犯罪を起こしやすい人が生まれず、犯罪がなくなりますか? 刑務所でもいいでしょう、 何十年と閉じ込め、子孫を増やせないようにする。 あなたがそう処置されたらどうですか? 閉じ込める、命を奪うは、確かに犯罪を犯さない人を犯罪を犯しやすい人から守るという意味で、必要なのかもしれません。 でも、本当にやるべきは、何故多くの人はやれる犯罪をやらないのに、この人達はやってしまったのかを突き止めることじゃないでしょうか。 本人だけ更正させようとするのではなく、我々の意識を更正させることも大切ではないですか? その方が結果 犯罪の発生を抑制することにならないでしょうか。 死刑ボタンを誰が押すべきかを考えるより、もっと有効なことを編み出せる能力が我々にはあり、その能力を行使できると、私は思うんですね。 子供を殺された人の中には、殺した相手を極刑にしろと求めず、同じ悲劇を繰り返し、自分のように悲痛な思いをする人を出さないためにも、社会を変えてくれと望む人もいます。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 うーん私にはかなり難しい事のように思うのです。 理由が分かってもたぶん犯罪はなくならないんじゃないでしょうか。 歴史家が戦争の原因を調べてもいまだに戦争はなくなってないし。

回答No.13

 回答番号:No.9のお礼欄へ:  やはり完璧性ということ、一番つらいことは、死刑囚自らにそのボタンを押させることではないでしょうか?  刑場をそういう構造と配線にすればできないことではないと存じます。唯、拒否できないような構造にすることですね。  とんとんと歩みを進め、そしてある一定の歩みに入ったら、機械的にその機構が機能を開始するようにすることでしょう。  死刑囚はただ自らそこに進んでいくだけです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 いってみれば屠殺場ですね。 スーパーで肉を買うのは抵抗ないけど自分では殺せない。 人間もそのうちそうなるかもしれません。 そうなればますます当事者は蚊帳の外ですね。

  • tappara
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回答No.12

殺されたご本人が一番いいんでしょうね。 殺されても生き返ることができるなら死刑なんていらないと思います。 でも、どんな事情があっても、後で悔やんでも反省しても失われたら帰ってこないものがあるんです。元に戻れないものがあるんです。 加害者が一概に悪いわけではない・・・では被害者はなぜ殺されなきゃならなかったんでしょうか。なぜ被害者家族は悲しい思いをしなければならないのか?被害者が一概に悪かったからでは決してないです。 死刑は復讐に過ぎない・・・否定しません。 被害者自身が加害者を裁ければいいんです。死刑にするも許すも被害者が決められればいいと思います。 しかし、死者は裁く権利すら与えられないんです。加害者を罵ることもできない・・・完全に死んだままです。あまりに理不尽です。 だから被害者に最も親しい人間でいいのではと思います。 大事な人を理不尽に奪われる苦しみは自分が殺されるのにも近い苦しみです。親しい人を失う喪失感ってあれはきつい。 被害者と同様の苦しみを受けてる親しい人の判断です。他者が許すだ許さないだ言う余地は本来ないでしょう。 死刑なんて文化的じゃない・人道的じゃない。社会全体の問題だ・・・そんなことは危害を加える前の加害者にこそ言うべきセリフでしょう。残された被害者が言われるものではないと思います。 親しい人が失われたら僕は押しますよ。それが人道的でなくっても非難されてもね。失われたものを戻してくれるならボタンなんて押しません。戻せないから押すしかないんです。 個人が悪いわけではない。環境のせいで人を殺したと加害者に理解をされる方、ボタンを押さざるを得ない環境に陥った残された側の理解はどうでしょう。普通の人が人を殺すボタンを押さざるを得ない状況になったから押した君は悪くないといっていただけると押す苦しみも多少は癒えるというものでしょうか・・・

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 まったく人間っていうのは悲しい生き物だと思います。 犯人が純粋な悪であるなら誰もボタンを押すことに躊躇はしないでしょうね。 犯人もまた人間であることがいやと言うほど分かるのが死刑と言うものの一側面ですかね。

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