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人の心の中には、鬼が棲でいますか?

serpent-owlの回答

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回答No.18

>人間の中に潜む本能は、なんかドロドロしてそうですね。 >それに比べ、動物の中に潜む本能は、とても純粋なもの >におもえます。 >人間の本能は、周りの環境によってその姿(性質)を変 >化させられているのでしょうか?  そのとおりです。littlekissさん、それが前回の書き込みで言いたかったことです。ただ、「隠し玉」意識がそうさせたのか、それともただ単に眠かったからなのか、今から見るとその肝心なところで言葉が足りませんでした。  それでは動物の本能と対比して説明してみます。  エサキモンキツノカメムシという昆虫がいます。「母性愛(?)」を感じさせる昆虫の代表格です。この虫は七~八十個の卵を産みますが、その卵のまとまりを抱きかかえるようにして守る行動が知られています。アリが卵を狙おうものなら羽根をふるわせて追い払い、それでも手に負えないときは悪臭物質を噴射して撃退します。卵が直射日光にさらされると羽根を広げて覆い、過熱しそうなときは羽根で扇いで冷やします。幼虫が孵化してからも、その独り立ちまでしっかり面倒をみます。まさに、抱擁する母の愛。  ただ、これにロマンを感じるのは人間の自由ですが、反面、それは人間の勝手とも言えます。動物行動学のイロハのイは「動物の行動解釈に人間的感情を持ち込まないこと」です。このカメムシの行動も、自覚的な「愛」の発露と見るべきではありません。生まれつき与えられた「本能」という行動命令に従っているものと考えなければなりません。  そしてまさに、このような本能は「純粋」です。子どもに老後の面倒を見てもらおうとか、そういうシタゴコロがありません(あたりめーだっつーの)。それに、「愛された記憶がそうさせる」みたいな、経験から学んだ行動でもありません(つまり後天的ではなくて先天的。また「純粋」という語は哲学用語的には「経験を含まない」という意味で用いられることがあります)。  これに比べると、人間の本能の発動には著しい違いがあります。  前回の書き込みで、ロラン・バルトと笑福亭鶴瓶師匠の話を出しました。共通するのは「衣服が性欲を強調する」という点です。衣服で覆い隠された部分がある、それが逆にその部分への欲望を高めるのです。  ここで、やや紋切り型になってしまいますが、「衣服=文化」そして「文化=禁止」と捉えてください。文化の根源は「禁忌(タブー)」にあります。まず第一に「死」に対する、そして第二に「性」に対する。  人間は「死」を自覚的に認識しています。だからそれを日常から切り離します。死者は決められた場所に葬ります。空間的な切り離しです。しかるべき儀式を行います。意識における切り離しです。一定期間、喪に服します。時間的な切り離しです。そして日常の中では「死」について語ることは忌むべきこととされます。「暴力」もこれに準じます。  「性」も同様。素朴で荒々しい動物性に直接根ざした欲求ですから、人はこれから目を逸らそうとします。だから、心理学や哲学の場でならともかく、日常的な公の場ではうっかり話題にできることではありません。性交渉は基本的に人の見ていないところで行われます。裸で外を歩く人間はいません(たまにいるけど…捕まります)。  だから「衣服」が禁止として生まれます(最初の人間は、知恵の木の実を食べると同時に衣服・いちじくの葉を身にまとっていますね)。この禁止が複雑化し拡大したものが文化です。すなわち、「文化=禁止」です。  しかし、いくら禁止されても、それらはなくなりません。必要でもあります。少なくとも「性欲」に関しては。(「死」に関しては割愛しますが、「必要である」という議論は可能です。)ですから、それは「許された・禁止を解かれた時間と空間」の中に場を与えられます。例えば「婚姻」です。自由度・柔軟性にさまざまな違いがありますが、性交渉を社会的に認証する儀礼・制度を持たない文化は、これまたありません。  さて、しかしながら、日常性のより広い領域では「禁止」されていることは間違いありません。その禁止によって高められた欲望が「激発」することはありえます。  この「激発」は、フロイト心理学の「抑圧→暴発」というモデルでも説明可能でしょう。しかし、この説明だと、その力の大きさは説明できても、その現れの多様な形態については説明できないように思います。人間の性欲動が、種の保存に要する範囲・程度をはるかに超えて大きいことを説明できますが、その欲動のとりうる「かたち」を説明できない、ということです。同性愛、幼児愛、フェティシズム、サディズム、マゾヒズム等々。  …と、書いてしまうと、心理学ご専門の方からお叱りを受けてしまうかもしれません。というのも、もちろん心理学からもそれらについての説明は試みられ、なされているからです。しかし、それらが時として「オッカムの剃刀」で切り捨てられそうな部分が多すぎるように感じられる場合がある。もっとシンプルな説明がありそうに思われるのです。  それは、「本能に根を持ちつつ、禁止に対する反動として過剰となった欲動は、文化と溶け合って無限の多様性を持つ」という説明です。  人間の持つ言語には、有限の語彙数しかありません。しかしそれでも、語と語の組み合わせにより、無限の表現・描写に対応します。言葉は、言葉を生み出しうるからです。文字通り新しい言葉が生み出されることもあります。言葉は言葉を生みます。同様に、文化は文化を、生みます。無限の多様性を持ちえます。  「過剰な欲動」は、この文化の無限能産性と連動して無限に多様な「かたち」をとりうると考えられます。ですから、従来知られている多様な性行動以外にも、今後新たな形の性行動が生まれてくることでしょう。心理学からこれにアプローチしようとすると、その無限の多様をいちいち持ち主の幼児期からの経験や生まれつきの心理特性に還元する作業を延々と続けざるをえず、いつまでたっても全体像を得られないままに終わってしまうように感じます。  さて、ここまでが「本能に根を持つものの、過剰な強度を与えられ、ドロドロと形を変えうる人間の欲動」の説明です。ずいぶん遠回りしましたが、「鬼」の話に戻りましょう。  上では主に「性行動の過剰と多様」についてお話しましたが、同様の「過剰と多様」は「暴力」に関しても言えます。「死に結びつく暴力」です。  人間の知性は、人を愛し、人のために役立ち、何かを建設し、何かを生産する方向にも発揮されてきました。が、深い悲哀を感じつつも目を背けてはならないのは、それに勝るとも劣らないだけの知性が、殺戮と拷問と破壊とに費やされていることです。その一つ一つはまさにunspeakable(口にするのもおぞましい)ことですので、ここに書き込むことはしません。が、「許された時間と空間」の中では、禁止によって高められた情念に突き動かされつつも、極めて冷静に、極めて理性的に、そして極めて楽しげに、人は人を切り刻み、苦しめ、殺すのです。  人は鬼に、なるのです。  人の心には鬼が棲んでいます。それは人が「文化」というものを持ってしまったが故の宿業です。ですから、誰の心の中にも、鬼は棲んでいます。

littlekiss
質問者

お礼

たくさん言葉を使ってわかりやすくお話していただいたおかげで本能という、なにやらドロドロしたものの正体めいたものがおぼろげながらですが私にも理解できつつあるように思います。仰られるように、欲動のでどころを心理学の面から今回アプロ―チを試みてかんじたことは、「本能」という曖昧な言葉で結局のところ落ち着いてしまう。本能が一様でない多様なものであるにもかかわらず、私の中では社会倫理というのか、その観念が意識の中に刷り込まれていたせいか枠からはみだしたタブ-的な背景をどこかしら見ずに、いや、範疇におかずに語ろうとする観があったようにおもえました。そのことで、「本能」の本質が美しいものであるように考えていたのかもしれません。いろんな意見をうががっていくうちにその本質を探るには、口にするのもおぞましい事実があることにも目を瞑らずに正面から見据えて考えていかなければ、いつまでたっても「本能」には近づけないと思いました。人の心の中に人間は素晴らしいものという意識があるせいでしょうか?その人間が非道とも思える行動をとることを悪と考えてしまう、人間が素晴らしいものと考える上で矛盾が生じる、それゆえ、そういった部分に蓋をかぶせるが如くタブ-とする。心理学の面からでは、確かに真の本能とはなにかということを探そうとすることは無理なのかもしれません。いろんなお話を多くの方々から聞かせていただいて、だれでも鬼になりうるということは、わかりました。そのことをもっと理解するためには、見たくない、信じたくない、と思える部分も目をあけて見ていかなければ理解できないこともよくわかりました。ありがとうございました。

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