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悪は 存在しない

poipoi_saの回答

  • poipoi_sa
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回答No.10

brageloneさんどうもはじめまして。久しぶりに回答する気になったので少々お邪魔いたします。 哲学は半年ぶり位でなまくら頭のふつつかものですがどうぞ宜しく。 私は特に学校で哲学を学んだことも無く、少々興味がある程度読んだ本も池田昌子さん、永井 均さん、中島義道さんを少々位です。 ただ物理学も同様に少々興味を持ったことがあるのでそちらのアプローチ色が出やすい人間だと判断ください。 初めてなのでbrageloneさんが当問題によって本当に知りたいことは何なのか正直全く掴めません。書いた後の読み直しもせず一発勝負です。 以下はその程度の話だとお考え下さい。 多分善悪と人の存在について興味おありなのだと思いますのでその辺の話をしておきます。 番号を振っておきますので関心を持っていただければもう少し掘り下げてお話させていただきます。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 1.《存在は 自我(意識)を超えている》 《存在は 善悪を超えている》は当然で、善悪は判断ですよね。 中島義道さんの書籍を読んでいて覚えたのは 《存在は 自我を超えている》と言うことでした。自我もまた判断であり、自我無き者も存在している(と言うことができる)訳です。 支離滅裂な例えしか出てきませんが、仮に私の自我が存在していなくとも、brageloneさんという他者は存在しているからでありますし、 生物の発生は自我無き存在から出発したと言われています。よって(少なくとも非生物は置いておいて)生物にとって自我(意識)は手段に過ぎません。 brageloneさんという生物は、brageloneさんの「自分と言う認識」=自我 を抜いても存在していると言うわけです。 しかし、自我無き自分(存在)を果たして「存在している」と言って良いものなのでしょうか? そこにいるのは生存の為に肉体を動かす一固体であろうという定義以外の何者であるかすら想像付きません。意識があるかも定かではないです。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 2.<<絶対的な悪は存在する>> これは池田昌子さんの書籍で見かけたものです。 善悪は判断であり、判断をする人間は無数であり、無数の人間同士は空間(場所)、時(時代)を超えて分かれている以上、絶対的な悪は無い気もします。 例えば戦争の時代では敵を多く殺せるものが英雄であるし、平和な世では狂人であるという程度の話です。 しかし、池田昌子さんが言うには(少なくとも人類が持つ「現在までの人類への知識」の範囲内では)全ての人間は共通して腹が減り、眠り、子孫を残したい。 そして自らの死への恐怖が有る。と言います。即ちごく自然な生物としての共通点です。(私はあほなので言われるまでこんな単純なことも分かりませんでした(苦笑)。) この「絶対な人類の共通点」が有る以上、その依存の上に判断される悪にも「絶対悪」があると言うことです。 確か以前にも「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言った質問にお答えする際にこの話をしました。 今説明したようにそれは「絶対悪」に背くからだと。 この解釈に基づいてbrageloneさんの善悪への疑問(興味?)を眺めると、善悪とは自我を超えた生物としての人間から発祥している、より根源的な欲求に基づいたものであり、 人が自我という解釈によって善悪を判断し、その時空間及び自他という相対的別離を経ても、善悪判断の結論は(一般的な人が考えるよりも)ずっと共通なもの=絶対悪がある。という話になります。 よって《存在は 善悪を超えている》は、 =人を生物としてみれば可→(ぶっちゃけて言えばみんな死にたくないから)。 =自我としてみれば(善悪は自我(意識)という存在を)超えているので否。→(生物が意識を獲得する前から死は有った) となります。 ちょっと話し手たる私の能力不足から分かりにくくなっているでしょうか? もっと簡単にも書けるのですが意味を削らないといけないので、取り合えずこの位で勘弁を。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 3.<<善悪に優劣は無い>> 永井均さんの書籍では「悪い人も自分の子供は良い(善い)人に育てる」という話が印象的でした。 極悪人であっても、自分の周りの人は善い人の方が自分(の存在)にとって都合が良いからです。 即ち「良い悪い善悪とは、自分と他人どちらからみるかによって真逆になりうる」と言うことです。 別に取り立てて言うほどもない自然な話ですが(笑)、分かりやすく言うと 牛や豚、鳥などの家畜からしたら、「自らの死」という絶対悪ですが、我々人間たる捕食側からしたら良い食事です。 この話から、「悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。」というbrageloneさんの話を(私なり)眺めると、 悪は善の欠如ではなく、元々善悪は一つの価値基準(生存本能)によって判断されており、この世に生命が誕生した瞬間に共に生まれたと言うことになります。 つまり、自分に嫌な影響を与えるものは悪。良い影響を与えるものは善。両者に優劣はありません。 これは仮に生物の形態が時空間を超えて、何千、何万年先の宇宙の端っこで生まれた鉱物でできた生命体であったとしても共通だと言う話です。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 4. 3の補足にも当たります。まずbrageloneさんの言葉を引用します >>『《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。』 3の結論を、こういう疑問で捉えるとどうなるでしょうか?。 「生命が生存すると言う事が既に善であるならば、存在=善なしに悪は成り立たないのだから、やはり善が優。先なのではないか??」 brageloneさんの言葉は多分こういった意味だと思います(違ってたらすいません) 生命と言う存在が「ある時点で誕生」したとして、(一般的に将来の)「ある時点で消滅」するとすれば、 誕生=善。消滅=悪。のように見えますが、その誕生の更に前、つまり生まれる前の時点では、生命は存在しなかったわけですから、消滅=悪、が先に有ったことになってしまいます。 生命は悪=闇から生まれ、善=光を経てまた闇に帰る存在なのでしょうか? これは一番私にも説明が難しい箇所に当たります。 自分を生物として見た時、死が悪であることは間違いありません。 しかし、死とは実は「無」なのではないでしょうか? (一般的には)誰も前世の事を覚えていませんし、死後生き返った人も居ません。そこには何も無い、まさに『「無」すらない「無」』があるだけです。(無宗教基準でのお話です) 我々は無から生まれ、無に帰るのだとして、無と悪はやはり違う気がします。その証拠に、人類史上、どの言語でも無と悪は違う単語で区別されているはずです(多分)。 では何故無を悪と呼ぶかと言えば、自らが有であるからです。 実はこれは勘違いに過ぎなくて、自分が有であるから無を悪と思い込んでいるだけだと思います。 つまり、 自分は善である前に既に自分である=《存在は 善悪を超えている》のだから (かなり強引ですが)有とは善悪で無い以上、無もまた悪ではないと言うことです。 何か分かっている人が読めば分かる文の域を出ないダメ説明な気もしますが私のあほ脳では出来たほうです(笑)。 ちなみにこの辺の話は論客コミニュティという所で皆さんとお話して知りました。http://www.yamcha.jp/fnd/dsc/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 長文最後までお読みいただきありがとうございました。 最初にも書いたように興味があれば引き続きどうぞ。 自分の復習の為に書いただけなので興味をひか無ければ返信無しで構いません(笑)。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 3.<<善悪に優劣は無い>>  ☆ これは 何を言おうとしているのか よく分かりません。  存在が善であり その善の中身の減少が 悪であると規定しておけば  ★ 「良い悪い善悪とは、自分と他人どちらからみるかによって真逆になりうる」と言うことです。  ☆ などということは 起こり得ません。定義は 持続しますから。(ただし 人間から見てという前提は あります。人間存在を 不遜にも 善だと 人間じしんが 規定しているからです)。しかも 《善悪どちらかに見ている》というのなら 《優劣》はあるはづです。人それぞれであっても あるはづです。  ★ 元々善悪は一つの価値基準(生存本能)によって判断されており、  ☆ 生存本能を超えて 人間の知性によって 生命存在を善とする初めの想定から出発して 判断するということでしょうね。機械的という意味での本能的ではないでしょう。生命存在が善だという想定には いわば先験的なその想定の持つ判断も 含まれているようですが だからと言って この判断を ひとは 鵜呑みにして 条件反射として反応するようには 無思考ではないでしょう。  ★ 永井均  ☆ というひとは いったい 何をおそわって どのように育ち 何を考え 生きて来たのでしょう?   これで おおむね お応えできたかと思います。すでに 断定して述べているところもありますが 率直に 思っているところを訴えました。あしからず どうぞ。

noname#80116
質問者

補足

 poipoi_saさん こちらこそ 初めまして。ご投稿いただき ありがとうございます。今後とも よろしくお願いたします。  そうですね。今回のご回答の内容によっては 正直に申せば 説得されることは ありませんでした。せっかくの長文をいただいたのですが 結論は そうなりました。率直に わたしの受け取ったその内容を わたしの見方に立って 説明してみます。そういう出で立ちですが その文章について 再反論を よろしかったら お寄せください。  ★ 絶対悪  ☆ この用語は 妥当ではありません。そもそも 哲学の用語として 不適切でしょう。  ○ 絶対: これは この相対世界を超えたところに 人間が 想定する領域です。それは 経験世界の一切を超えており 経験思考の及ばないところです。不可思議であり 非思考です。  ☆ そのとき この《絶対》について 悪あるいは善といった判断ないし思考をおよぼすことは 想像の範囲内でという条件において あり得ますが きちんとした定義としては あり得ません。ですから   ○ 提出なさった《絶対悪》は 想像ないし思考の産物として 経験的で具体的な行為や現象に わたしたち人間が 仮りに あてはめようとした用語です。  これを 別の思考経路から 別様の見方において 説明してみます。  さて 《うそ》の話から始めます。そもそも 《うそ》と言うからには そのウソとは別の何らかの内容が 心にはあると言わねばなりません。この《まこと》と《うそ》との差異に 心のゆがみが出ていると ここでは 言っているのですが そうして この嘘や真事を表象する主体である存在が もし善であるとすれば ウソは 善の減少だと考えられます。ウソ一個分 善が減る このことを 悪とも呼ぶというわけです。  ところが この悪について 人間の能力と努力とでは 最終的には どうにも することが出来ません。謝る・償いをするなどの行為によって 他者とにせよ自己とにせよ 和解することは出来ますが 最終的に ウソから自由な存在であろうとしても 人間の力では 無理であるでしょう。  そのとき 《絶対》が 人間の心にも 現われるのです。自己の力によっても 人間どうしの和解によっても 最終的なウソからの自由は 得られないというとき それは つまりその悪は 《絶対》への背向きであるという思想が 現われます。つまり いわゆる《罪》という概念です。  こうなると 先に出た《絶対悪》というのは 次のような内容を持っていると解釈することが出来ます。すなわち ウソならウソという人間の悪について その判断を 最終的に=つまりは 人間にとって普遍的に 決めるのは 《絶対》という想定概念であるということです。また この《絶対》に対する背向きのことを あたかも――用語は 適切ではありませんが―― 《絶対悪》と言っているのではないかというものです。  すなわち ここでも 《悪》あるいは《絶対悪》というモノが 初めに 存在するというようなことは ないわけなのです。同じく ここでも 《うそ》は マイナスの善であり それとして 悪と呼ぶというに過ぎないわけです。  どうしても 《善》という概念で 《存在》のことを 捉えるという必然性もないかも知れませんが 存在の良さ・好ましさ・望ましさがあって それが 減ったとすれば その減った分は マイナスです。マイナスゆえに 人間の言語習慣では この現象を 《悪》と呼ぶとすれば はじめの存在は 善であるという想定になります。おかしくありません。  このいきさつから言えば 悪が起こって それが マイナスであるゆえ はじめのプラスを 善と呼ぶというふうに順序が 逆であるように見えますが 考え方の上から行けば やはり 善があって その減少として 悪が 起きるのです。  ★ 生命は悪=闇から生まれ、善=光を経てまた闇に帰る存在なのでしょうか?  ☆ ここまでは 手を伸ばしません。この世界において 善悪という言葉が どういう意味で使われているかの解明だけでじゅうぶんです。仮りに おつきあいすれば 生命存在のさらに以前というのは 《有》でも《無》でもありません。有・無というのは この経験世界において ものごとを捉える言葉ですから その経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いることには 妥当性がないと言わねばなりません。  仮りに 《絶対無》と想定するとするなら それは 《絶対有》と同じような概念になります。つまり 有無には ほとんど 関係なく 《絶対》のことなのです。(有神論では この絶対ないし絶対者を むろん――その自分たちの物語として――《善・至高の善》と呼びます。無神論では 《無記(善とも悪とも規定しない)》というところでしょう)。

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