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1900年代の長屋での暮らしについてです
長屋が二階建てになるのは大体大正時代かららしいですが、 それまで、約六畳の狭い部屋に、何人家族が、どのように寝ていたのでしょうか? 性別就寝とかも考えられますか? そして食事はまだ箱膳か、お膳ですよね? どなたか教えて下さい。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 1900年代、と言うと、もう明治に入っていますね。 >>長屋が二階建てになるのは大体大正時代かららしいですが、 東京では、確かに、二階建ての長屋は明治の終わり~大正時代になってからです。 しかし、大阪や名古屋あたりでは、すでに江戸時代中期から造られています。 ご存知のように、江戸は100万人都市で町地は密集しており、火災が起きるとすぐに広範囲に焼けてしまい、二階建てのような「立派な?」建物が造れなかったし、造っても、いつ焼けるかもしれないため、簡素な平屋建が多かったのです。 >>それまで、約六畳の狭い部屋に、何人家族が、どのように寝ていたのでしょうか? まず、長屋の造りですが、間口9尺(1間半)で奥行きが3間、つまり、入り口から土間の台所、そして、座れる空間(座敷)を入れても9畳(4.5坪)が、まあまあ標準的でした。家賃は300文(約5000円)が相場でした。 土間兼台所は、3尺くらいになっており、非常に合理的に食事道具などを収め、その後ろの半畳位の場所に衣類などを入れた長持や家財道具を置き、居間としては、あなたのおっしゃる通り、6畳位しかありませんでした。 (台所の写真を添付してみます。ただし、うまくアップロードできれば良いのですが・・・) 所帯持ちですと、江戸時代後期あたりでも、子どもは4~5人。と、いうことは、夫婦を入れて6~7人が一般的な家庭でした。 従って、わずか6畳に押し合い、ひしめき合いをしながら暮らしていました。 就寝時は、明治になってからは、そろそろ、敷き蒲団や掛け蒲団等も東京でも発展してきましたが、まだまだ、庶民の多くは、冬でも「夜着(よぎ)」といって、やや厚手の袖も丈も着物よりも一回り大きくし、綿をいれた着物を掛け蒲団がわりにして、直接、畳の上に寝ていました。(蒲団は、上方・かみがたでは、元禄年間には一般化されたようです)。 夏は、「かい巻き」という薄手の着物、そして、「寝茣蓙(ねござ)」を敷いて寝ました。 6畳間に6~7人が寝ますので、まさに、「雑魚寝状態」でした。 ただし、夫婦と子どもたちとの境として、屏風などを立てて仕切りとしました。夫婦の「いとなみ」は、子どもが寝静まってから密かに行いました。また、家族(子どもたち)だけではなく、隣との境の壁も、壁とは名ばかりで杉板一枚を打ち付けてだけでしたので、当然、隣の物音や声は聞こえましたので、女性が頂点に達しても声を上げることはできませんでした。また、声を上げたりするのは「はしたない」とされました。 >>そして食事はまだ箱膳か、お膳ですよね? 江戸時代中期になると、神田上水も引かれ、各長屋には井戸が設置され便利にはなりましたが、やはり、水は貴重でしたので、食事のたびに食器を洗う習慣はなく、あなたのおっしゃる通り、「箱膳」が主流でした。これは、家族全員の膳を積み上げて置くことができ、いわば、広さの空間ではなく、高さの空間をうまく利用したものでした。 (よもやま話) (1)また、もっと貧しい、あるいは、独身者のためには、間口6尺(1間)で奥行き2間。土間や家財道具や仕事のための物を置く場所を除くと2畳の座敷のものもありました。 (2)井戸やトイレも一箇所で共同使用でした。 (3)大家とは、長屋の管理人で、長屋の持ち主ではなかった。また、「家守(やもり)」「家主(いえぬし)」などとも呼ばれた。 (4)共同トイレは、大家の権限で、近在の農家などと契約をして、汲み取りをさせ、農家としては、江戸の贅沢な食事で排泄されたものは、良質な下肥(しもごえ=肥料)となり、年に10樽の「たくあん漬」などを納め、大家は店子に配ったりした。 (5)長屋では、防犯上のこともあり、表通りに面した場所には、必ず、木戸を設置することが義務付けられていた。朝は七ツ(午前5時頃)開けて、夜は五ツ(午後9時頃)閉めた。 (6)その木戸の上部には、その長屋に住む「大工」や「たが屋」などの表札が掛けられ、宣伝すると同時に「ここに住んでいる」という証とした。 (7)長屋の1軒を借りるにも、身元調査があり、職人であれば親方、女独り身の場合は、「囲い者」であれば、その旦那などの「保証人」がなければ借りられなかった。 (8)独り身の男が嫁をもらい、一緒に暮らすにも大家の許可が必要だった。 (9)旅に出る場合は、関所手形を発行してもらうには、必ず、大家の保証が必要だった。 (10)夫婦喧嘩、子どもの喧嘩の仲裁も大家の大事な仕事の一つでした。
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- hukuponlog
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ちょっと質問が雑駁すぎますね。1900年代って、ほんの10年前は1900年代ですよ。せめて、明治・大正・昭和戦前・戦後、程度に時期を限定しなくては、回答のしようがありません。 >長屋が二階建てになるのは大体大正時代から いいえ。長屋というのは、大雑把に「表長屋」と「裏長屋(落語などに出てくるいわゆる棟割長屋)」があって、江戸時代後期から「表長屋」は総二階が普通でした。 >何人家族が、どのように寝ていた これも質問としては・・・? それは家族構成・経済状況によりけりですから一般論は有り得ません。 >食事はまだ箱膳か、お膳 折りたたみ式の丸テーブル(ちゃぶ台)が一般的になるのは、明治時代の中期以降です。したがって、その頃から銘々膳は消えていったと考えて良いかと思います。
お礼
1900年~1910年の、10年間位の東京の長屋の庶民の生活についての質問でした。きちんと質問できていなくてすみません。今後は、言葉の使い方にきを付けます。 ありがとうございました。
お礼
とても参考になりました。 画像の添付もありがとうございました。