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慈悲は 経験現実か

 わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。  《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。  【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【S語】か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【S語】か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。  Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。  Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。

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回答No.20

仰るように、仏の慈悲は我々俗人には無理な話ですと思います。 慈恩悲恩の言葉が出てくる「父母恩重経」などは、“愛”の形と捉えられると思います。割り切って仏ではないのに慈悲を云々すると言うのは無理と、NO!としました。だからと言って仏の御手の中で生かされて、慈悲の心に全く無関係と言っているわけではありません。 実践は不可能でしょうが、仏の慈悲の中にいると感じた時には、そのほんの少しの切れ端をつかむようになるのかなとは思いますが・・・ それはbrageloneさんが仰るように、キリスト教の“愛”に近いとと言うか、同じだと思います。 余談ですが「神は愛なり」と言う事と「全知全能の神」が同一存在であると言う事は、人間の浅智慧では理解不能ですね。 ですから、答えは人間には慈悲も愛も絶対的概念では無理でしょう。真似事は出来ますが・・・ ▲衆生が 義に渇くというふうに見るわけには行かないのですか? 本当にそう思いたいと思います。又そうあって欲しいと思います。 でも、そうでないことはbrageloneさんが一番良く分かっていらっしゃるのだと思いますが・・・ 蛇足:荒了寛の《絵法話》は別の本です。 

noname#80116
質問者

お礼

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。  1000827313さん 1000827313さんのご文章は 独特ですね。どこからでも まだまだ 言葉はわるいですが 隠し玉が出てくるように さらなる議論にも 準備万端というところですね。  どうも 素養が浅いと 途端に おいてけぼりになってしまう。議論も簡潔ですね。おやっと言っているあいだに 次の主題に移ってしまわれているようです。  今回は めづらしく と見るべきかどうか ていねいに補ってくださった恰好ですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  実践は不可能でしょうが、仏の慈悲の中にいると感じた時には、そのほんの少しの切れ端をつかむようになるのかなとは思いますが・・・  それはbrageloneさんが仰るように、キリスト教の“愛”に近いとと言うか、同じだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おおよそ このように 結論の方向を捉えたいと思います。  ★ 荒了寛の著書  ☆ は 次の図書館通い(20日)の日に先送りします。  ★☆ 衆生が義に渇く  ☆ の問題。もし 信仰が 向こうからやって来て 与えられるのであるならば  ★ 全知全能  ☆ の問題になります。まぁ 一度張り切って 護教論――なつかしい言葉ですね――をやらかそうと思えば 義に渇かない人びとの状態に 渇く人が どれだけ耐えることが出来るか これを神は見ているのかも知れません。(うまいこと 言うでしょう)。  ★ 「神は愛なり」  ☆ 《無根拠》が 《神の愛》ですから そうは問屋が卸しはしないと思いますよ。ただし 一人ひとりの主観内面においては たとえ実現しないとしても その事由について理解しうるかたちが 現われてくるとも思いますが どうでしょう。  ★ 「父母恩重経」  ☆ こんなの あまり聞きません。わたしは えらい博学の研究家に出遭ったものです。  * 慈悲は あまり 議論になじみませんでしょうかねぇ。

noname#80116
質問者

補足

 18日夕に記します。  図書館に行く機会が 早く 訪れました。  ★ 荒了寛:慈しみと悲しみ  1988  ☆ 読みました。正直に申します。  九十九匹の中に入れず 一匹となったわたしにとっては 毒の文章です。  人間 S 語を基礎として 随所に 普遍概念 A 語のことばを さりげなく 散りばめて おだやかな語り口で 日常生活を解き明かしていく手法は もう年季の入ったものです。親子や家族の愛情が 主題であって これが 慈悲に充ちた雰囲気を醸し出している。あたかも ブッダの慈しみと悲しみであるかのようだ。・・・  まづ ここに示された人間語を生きた実際の主人公の人たちについて 何の問題もないでしょうし 批判をする気も理由もないわけです。多少の抽象化による普遍概念語を 散りばめるとき それは きわめて――こういう語り言葉の中に著わされると――演出効果も 大きいと思えます。  じじつ わたしは 何を隠そう こういう仏教思想のもとに 二十代後半まで 生きていました。周りの雰囲気も そうでした。ただ 一点を除いてです。それは わたしに対しては この慈悲に似たに過ぎないものだとしても その思いやりという行為が 基本的に いっさい 無かったということです。そういう人生を 三十年弱 生きました。  その後も 外側のかたちは 同じ状態・同じ情況がつづいています。わづかに 三十歳前後には キリストの心によって わたしは すくわれましたので 意に介さなくなっているという違いが出て来ています。  じじつ わたしは 嫌われたり のけ者にされたりしても 常不軽菩薩よろしく 軽蔑もせず そういうものかと受け止め あとは 生来の能天気でした。  以上こういった事由により こういう雰囲気の文章は わたしにとって 面白くも楽しくもありません。  おそらく 無限・無根拠の光が 差していないから というのが 理論的な問題なのではないでしょうか。光は 雰囲気として いわゆる継起無限として つねに どこまでも 限りなく 慈悲に近づくという姿勢を促すようにして 差している。このゆえではないでしょうか。熱くもなく冷たくもなく 中途半端に映ります。  慈しみと悲しみを じゅうぶん 知った人間が   ▲ 人が悪い事をしたのを見てからと言って それを訴えたり 人にわざわざ教えたりして 罪人をつくるようなことはするな。人から他人の悪口を聞いても それを他の人に伝えるような事はするな。(p.106)  ☆ に従うならば――ひとつの危惧として―― 社会保険庁の死んだような仕事ぶりがつづくことが うなづけますし あるいは 社長の命令ゆえ 商品の偽装工作は 甘んじて 受け従うことになるのではないでしょうか。  もちろん 経験世界のことがらは なにごとも 程度問題です。すっかりきれいにせよとか 完全に解決せよと言うためではありませんが 限りなく貴い光にだんだん近づく理性と感性とによっては 好し悪しでしょうし どうも 《なまぬるい》。そしてその限りで 《人は死んでいる》とすら 感じられて来ます。  というのが 1000827313さんの比ではないへそ曲がりのわたしによる感想です。率直という言葉を となりの惑星にたどりつくまで言い続けても なお足りないほどの率直に申しました。ひとつの視点ではないかとは思っておりますが いかがでしょうか。

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その他の回答 (23)

  • cyototu
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回答No.13

 ★ 汝、妻に挑みて須陀★に成れりや否や。  ☆ 妻はおらぬが すでに 涅槃に入れる者にて候う。 再び言う、恁麼にして来たるも棒を吃し、不恁麼にして来たるもまた棒を吃す、じゃ。 仁者すでに涅槃に入れる者と言う。金粟王如来、仁者を呼んで、舎利弗に比べきか。舎利弗の影あれば鴿驚瑞せりとか。されば舎利弗が、気が向いて唄歌躍舞するうちに、おのれに気が向かぬときは人にはりこみを加うる癖あるなん。これまことに釈尊が和融寛大にして、鴿もまたその影に安居せるに及ばざるなり。かように仁者、数学の初学者のごとく、一体人事、哲理の解、一意ならざるを解せず、人とよれば棒を与えたくなると見ゆ。熊楠の書に曰く、ショウぺンハウエルの譬喩に、ヤマアラシ四、五、圏中にありて寒を感じ温を欲して相密着するときは、双方の刺たちまち相痛ましむ。これをもって賢人は温を貪りて相刺さず、温を少なくして刺撃を受けざるを事とす、といえり。さればこそ愚生は孤独にて人に求むることなし。仁者、愚生に向かい温をもとめられる。それこそ刺を畏れざるなり。愚生刺に痛むことなく温を得んことを望む。これヤマアラシには叶わざるべし。物を創るの営み、弁論のときに成らず。一夜寝、一月寝、一とせ寝かし置くべきものなり。ある人の発見せりとする主張を、言葉にて全て説明されているが故に、その主張重要な結果ではあり得ぬ、重要な発見、必ず言葉にて説明せざる神懸かり在るべしと論破したは、量子力学の祖の一人ハイゼンベルグなり。 舎利弗にも比すべき仁者と言えども判らぬと見えたが、慈悲の生身に起こること、南方の言に既に尽くせり。この上は、前科を繰り返し、愚生ヤマアラシにあらずイタチの最後ッ屁をこき、尻尾を丸めてとんずらを決め込むことに決せり。汝、愚生を嘲り、弁論を楽しむべし、愚生、創造を楽しまん。気に触ることあらば、またいつか気まぐれに愚見を披露せむ。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 棒を吃す  ☆ の意味が取れないが なら 要らぬ世話ですな。  ★ ヤマアラシ  ☆ ではあり得ない。なぜなら こちらは 受け身である。せめて 金平糖とたとうべし。  ★ 気に触ることあらば、  ☆ まだ 不満が残りますかな?   涅槃が 《気に障る》わけがない。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.12

>文字は 殺し 霊は 生かす。 汝、大日如来から空海に至る密教の系譜を知りたるや。密教と顕教の違いは如何に。密教とはちと違うが、禅坊主どもの不立文字は如何に。

noname#80116
質問者

お礼

 この例は 文字=記号=しるしを用いる際にて 留意すべきことなり。  顕教とても 字面と行間の意との 二つの側面あり。  密教は お遊び。言葉にて説明すべからざれば お遊びにて。  不立文字は 文字を立てる文章=判断=思想のあとに言えることにて。  向こうからやって来ると言うは 《霊》のことなり。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.11

須陀★、涅槃に達する前に、天と人の間に七度生まれ変わらにゃならぬ。第二に斯陀含、一来と訳し、宇治川合戦に軽業を演じた一来法師はこれ資った名だろう。もと一往来の義でこの果を証した人は、一度死んで天上に往き、そこで死んで今一度人間に来たり、さて衆苦を尽くすを得るのだ、じゃ。 汝、妻に挑みて須陀★に成れりや否や。耶蘇教耶蘇復活を真理とするごとく、仏者転成を真理とす。転成、これ生身の者ならずや。 哲学はゲームに在らず、学問じゃ。勝負がつくたぁ、なにごとじゃ。汝、血迷ったか。ソクラテスの無知の知を、いやさ、お忘れじゃ~~~あるめい。慈悲の足の爪の垢でも味わってみい。

noname#80116
質問者

お礼

 cyototuさん ブッッディスム=シントイスム現行体制に 並々ならぬ肩入れをしておられるご様子。ならば こちらも 腰を入れて 臨まねばならぬ。  ★ 耶蘇教耶蘇復活を真理とする  ☆ 復活は 信仰=非思考の問題なり。おのれの主観の内におさまれるものなり。信仰が 外に出かけるは 自殺行為なり。耶蘇が 真理なるゆえに 復活 かなえられしことにて 真理を分有するわれらは おのおの主観の内にて これを(おのれの復活を) 将来すべきものとして臨むべしと聞けり。  しかして 仏家は いかに?  ★ 転成  ☆ とは いかに? いく世代を経しのちに 涅槃に到るものか?   ★ 天上  ☆ のことは ひとには分からぬ。経験現実を問いたまうべし。地上には いく世代を経つつ 実現せむや? ただの気休めなりとの疑い濃きことにて。    此方〔の愛〕は もともと 気休めで構わぬとのかまえなり。  推論を控えるのなら 涅槃に入った実在の人物を挙げたまえ。  論理としてなら ブッダと美女マーガンディヤーとのいがみ合い事件を 省みられよ。  →《質問番号・3454478:〈我れ〉はある?ない? どちらですか(仏教)=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html》――そのNo.42お礼欄にテクスト(抜粋)あり。そのあとNo.43より このマーガンディヤー事件をめぐって bonbonnier さんとのやり取りが いくらか つづく。  ★ 汝、妻に挑みて須陀★に成れりや否や。  ☆ 妻はおらぬが すでに 涅槃に入れる者にて候う。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.10

#9に重要な言葉を落とせり。拙生の愚、許しを請う。 これ極道者の言にあらざるか。 を これ慈悲を解せぬ極道者の言にあらざるか。 と読まれるべし。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 慈悲を解せぬ極道者  ☆ まぁ 《極道者》は どうでもよいとして  ★ 慈悲を解せぬ  ☆ と ようやく 自覚しましたか。わたしという鏡に映りましたか。おのれの姿が。  哲学であることを お忘れなく。

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  • cyototu
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回答No.9

前科と言うか。大目に見ると言うか。金粟王如来、仁者に云う、これ極道者の言にあらざるか。執拗は愚、執着も愚、恁麼にして来たるも棒を吃っし、不恁麼にして来たるもまた棒を吃す、であろうが。如来自在なり。 >この《後に》というところを くわしく ご説明くだされ。 拙生の挙げた南方の初めの引用文を再読されよ。先は遠いぞ。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ ・・・第四が阿羅漢で、不生と訳す。この上、六道のいずれへも転成せず、すぐ涅槃に達し得るのだ。」  ☆ 《すぐ涅槃に達し得るのだ》に拠りて   ○ 慈悲は 経験現実なり。  ☆ と推し測られしや? ならば  ▲ (創世記1:1~) ~~~~~~~~~~~~~~~  初めに、神は天地を創造された。  地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ も 経験現実なりと 仰せあるか?   ▲ (コリント後書3:6) 文字は 殺し 霊は 生かす。  ☆ を 知りたまわざるか?  すでに この問答としてなら 勝負はついており候う。問いに しっかりと 答えてちょうだい。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.8

#7に誤植あり。 達せし者みに可なり。 => 達せし者のみに可なり。 はなはだ然時入り慚じ入り、 =>  はなはだ慚じ入り、

noname#80116
質問者

お礼

 《前科》を大目に見て お応えしましたが いつ そのゼンカと同じように 黙ってしまわれるか分からないので 書きっ切りとしませうか。(独白のみ)。

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.7

無縁慈悲、涅槃に達せし者みに可なり。 「常人が涅槃に達するまでに四果を証するを要す。まず須陀★;(★=「さんずい」に亘、「おん」と読む)入流と訳す。聖流に入るの初めで、これを証した者は天、人、修羅、地獄、餓鬼、畜生と六道の内、人より下の境界に再生する気遣いなきも、涅槃に達する前に、天と人の間に七度生まれ変わらにゃならぬ。第二に斯陀含、一来と訳し、宇治川合戦に軽業を演じた一来法師はこれ資った名だろう。もと一往来の義でこの果を証した人は、一度死んで天上に往き、そこで死んで今一度人間に来たり、さて衆苦を尽くすを得るのだ。第三に阿那含、こいつは死んで再び人間に生まれず、天上に生まれそれより阿羅漢となって涅槃に達する。この上、人と生まれ還らぬから、不還または不来と訳す。第四が阿羅漢で、不生と訳す。この上、六道のいずれへも転成せず、すぐ涅槃に達し得るのだ。」 「婦人いわく、わが夫は途方もなく多淫で、昼夜一件をつけ回し、食事も休息もさせず、それから疾みだして直る見込みなし、と。道人、婦人に告げたは、今度御亭主が貴女の身に近づき来たら、こちの人は須陀★たるにそんな不作法をして宜しいかと言い給え、と。のち果たしてまた夫が妻に迫り来ると、妻が道人の教えのままに、あなたは須陀★の身でもってそんなことをして宜しいか、と尋ねた。夫これを聞いてはなはだ然時入り慚じ入り、さては自分は須陀★かも知れぬ、須陀★とは何であろうと案じ出し、すなわち意を息めて閑静処にあり、思惟校計して須陀★から斯陀含を経上がり、阿那含となった。」 南方熊楠『自分を観音と信じた人』より。 御主も妻に挑んでみよ。須陀★と成りて、後に無縁慈悲をなさん。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 須陀★と成りて、後に無縁慈悲をなさん。  ☆ この《後に》というところを くわしく ご説明くだされ。果たして この生身の人間として 実現可能かどうかを。

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noname#117439
noname#117439
回答No.6

オコリザルです。 まづ、arayata333さんの噂話ではないです。 「慈」の語源に現れる友達の姿は実際に私には懸案です。 他者の記憶が無くなる訳でないんですよ。 種子を伴った確かな記憶でなく、マナ識の見せる幻影としての「お友達」です。 そのようなお友達には存在の本質は(が)あくまでも「愛している」と応える。 それがけして報われない涙。 これが慈愛の雨です。 A4の補足についた冒頭の問題は冷静な信仰心で解決することでしょう。 それとは別にbrageloneさん独自の案内もあるのでしょう。 それから仏性と言うのは自らの誕生の瞬間を起源とする、いわば童心です。だから子供はビックバンになぞらえて友情を試します。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 精神分析の夢判断  ☆ というのは もしその効用があるとすれば ひとつに ひとと会って その接触ということじたいによって みづからの思考や気持ちが 影響を受ける。もう一つに 探索法と言うべきかたちで 何らかの解答を見出そうとして歩んでいるというそのこと自体に 意義がある。対話であり 井戸端会議となっている。  ・探索法→ヒューリスティクス   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9  したがって 決めつけという手法は ありません。よほど待った無しの状態にある人に対して 一回限りの決めつけをおこなって その場をしのぐという場合があるかも知れないとしてもです。フロイトの精神分析は 全般に対して おおざっぱに言って つまらないという見方をわたしは しています。  ★ A4の補足についた冒頭の問題は冷静な信仰心で解決することでしょう。  ☆ かなり しっかりした人間であるようです。今回は なぜか どこか あわてた様子ですが ほうっておいても だいじょうぶです。  ★ 「慈」の語源に現れる友達の姿は実際に私には懸案です。  ☆ わたしが専門家であるのではないですが 人間語(S語)としては ただ単に 《友だち》とか《仲間》とかを指しているだけだと思いますよ。問題は これを 普遍概念語(A語)の段階に持っていったときに この《友情》のことを 博愛心のごとく 無条件における無差別の友情と規定したので さあ それが 実践可能なのか というところにあります。この問いは 単純だと思いますよ。  それとは別に 何か どこかで 別の問題が派生していますか。  ちなみに もし《S語》として考えれば この《友だちの愛》は いつでも だれでも 一瞬のうちに 変化し消滅してしまうということは すでに織り込み済みであると見なければなりません。人も変われば 友情も 色あせ あるいは いっしょに 難局にあたって協力して乗り切ったりすると 強固なものになったりもするでしょうし。  ○ 隣人を 自分と同じように 愛せ。  ☆ これは 弁解するために言うのではありませんが 心がけの問題です。人間にとっては もちろん 実践しますが つき詰めて捉えるなら 努力目標であると言わざるを得ません。精神さえ移ろいいくものであり 人間は 弱いものです。この目指す地点に到達しうるのは 走るわたしたちのその努力にもよりますが 何と言っても なぞの力によるということです。希望において すくわれています。  ○ 神は いつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれみたまう。  ☆ と言います。要するに なぞであり 無根拠なのです。それでも 《信じつづける》という強欲なのが キリスト者です。すべてが 報われないと知っています。もしくは そう すでに初めに 想定しておきます。報われるなら おまけものです。    では 慈悲は どうなのか。よく分からないのです。むろん字面で言っていることは 明らかですが。ブッダの慈悲は 神の愛なのか 人間の愛なのか。

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  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.5

 Q1.四無量心である慈悲喜捨(メッター・カルナー・ムディータ・ウペッカ)は実践可能のことと思います。 四無量心が育てば気付きと戒が満たされていき、 戒が満たされれば定に至って智慧が現われると。 「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲「仏性」は大乗仏教の考え方でしょうか。パーリ語の三蔵を学んでいますが、それらの考えにたいし、未だに論理的に道徳的に実践的に納得できる論に出会っていないです。 何か参考になれば幸いです。

noname#80116
質問者

お礼

 maggaさん あなたは どの程度まで 精進が進みましたか。  ★ 四無量心が育てば気付きと戒が満たされていき、 / 戒が満たされれば定に至って智慧が現われると。  ☆ この方程式の いま どの段階にいますか。  ▲ 「仏性」  ☆ は たたき台を提出していないので 仕方ありませんが  ★ 三縁慈悲  ☆ については 賛同・批判は むろん ご自由ですから そして たたき台も出していますので 議論を起こして その結論をのべるようにしましょう。  それにしても 宿題を先に片づけてから ご回答は お寄せくださると ありがたいです。というよりも それが ふつうです。

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noname#117439
noname#117439
回答No.4

オコリザルです。 「慈」について、心に表れる景色として、 私の質問、この世界に信じるに値するものは何か http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4511673.html A18、A30、およびA28につけた補足、 ココで取り上げているお友達についていわんとしていることです。 掻い摘んでお話しすると、夢として心が表れた場合、夢とは人一人分の心の現われですから、そこの登場人物又は住人は全てが自らの分身として、同一性のある共通の愛で結ばれているはずです。少なくとも思考たるマナ識が平等性知を備えていれば明白にそうです。 そこに登場する一人分の心の中からはみ出した登場人物がお友達です。 引き合いに出したarayata333さんの名誉のためにいいますと友情を結べなければそれは悪鬼の類です。したがって過程として友情を確かめるのは正しいです。 「悲」については普通の国語辞書に書いてある意味そのままの解釈でも良いでしょう。質問にある定義のほうが分かりやすそうですが。 そうすると慈悲とは心に入り込んだ「何か」を認めそして見送る手向けの涙とでも言いましょうか。 でもこの論理だと自らの心に入り込んだ友達向けの慈悲の自家発電なんですよね。それはやはりおかしいのですが、お互いに仏同然まで行き着いた真実の人間存在が、相互に慈悲を配るかと考えてもなおさらナンセンスです。お友達については何処に住んでいるのかを正せば良いかもしれませんが、そうするとお友達はそもそも居ないという結論が予めあります。 三縁の慈悲については徳の類の差でなく、係わりの強さで誰もが三様に変化すると見るべきだと思います。 Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。 可能です。普通に助け合いです。いつまでもそうかと言うと判りません。煩悩の類はなくなることに越したことはないからです。 Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。 主観において自覚できない、無意識的でスムーズな交流の中に発達するものであろうと推測します。要するに自覚もしないし、やがては慈悲を配る必要もなくなるであろうと思います。 Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。 心の交流で多様に変化しうるだけで、あの人の場合は自分に慈悲をくれた、度もこの人はそうでなかった、何てことも現れると思いますが結びつきの強さや、他にも相性のようなこともあろうかと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 なお 《信じるに値する愛》のほうでの noema_1970問題は 論旨が変わってしまっているので あほらしくなりました。以前は そんなでもなかったのですが 落ちぶれたすがたを見たようです。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  primeapeさん ですが やはり こう言ってはなんですが 《ブッディスム研究》が 主眼になります。教理としてどう説いているか / そして ブッディストとして――教義を超えてでも――どう捉えているのか / さらにそして ブッディストでなくても ブッディスムでは その理論と実践において 慈悲は 無理だとか いや 実践可能だとか そういう議論を まづは 求めております。  それで 答えていただいた内容は そうしますと ブッディストであろうとなかろうと 一般に 人という立ち場から ブッディスムの説いた《慈悲》について これこれこう考えるという構えだと受け取ります。  ★ 三縁の慈悲については徳の類の差でなく、係わりの強さで誰もが三様に変化すると見るべきだと思います。  ☆ これを伺うと 《係わりの強さで》――ということは 情況によって とも 解釈できるようにも思いますが―― 半ば思わず 体が動いていたというような振る舞いが 連想されますが それでよろしいでしょうか。  でも それだと 《(三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという》の慈悲ではないと考えられます。限りなく近いと言いますか あるいは とっさに現われた行動において この《無縁慈悲》を 部分的に瞬間的に 実現したというような事態だと受け取られます。  それでも いいんですが もしそれだとしますと 結局は そういう事態は ブッディスムがどう言おうと関係ないことになります。ブッディスムなど 問題ではないということになります。そういう見方なのだということでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。  A. 可能です。普通に助け合いです。いつまでもそうかと言うと判りません。煩悩の類はなくなることに越したことはないからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうなるわけです。つまり ほとんど ブッディスムがどうだこうだという問題ではない ということになります。ふつうに庶民の人間語(S語)の世界で起こる出来事だということになります。  そのあたり 果たして ブッディスムは どう言っているのかを ひととおり きちんと おさえておきたいという意図と気持ちがあります。結果として 葬り去るということであれば それでも かまいません。  ★ ひととしての 同一性 および 友達ないし友情  ☆ に関しましては やはり 独立存在と関係存在との同時一体性を出したいと思います。この同時一体性を持った人間であり個人であるという仮説で説明したいと思います。  《友情 あるいは 愛情》をとおした関係性かつ交通状態(まじわり)は 個人としての独立存在性を無視したり消したりすることは出来ません。逆に 独立存在性が 社会にあって 社会にあるにもかかわらず 人との関係性を無視したり消したりすることがあっては 人間ではなくなります。  と いつもの理論化――理屈づけ?――において 説明するかたちです。  慈悲について けっきょく 一般には 漠然とした感覚で受け留めているだけのようにも思えます。primeapeさんに言わせれば それでよい つまり その基底の動きさえ捉えていれば それでよいと言うのかも分かりません。どうなんでしょうねぇ。《仏性》の取り扱いが やはり からんでいると見ているのですが どうなんでしょう。

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     特には創価学会としての見解をたずねます。  次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。   (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~    http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512  (α) 南岳釈して云く     「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、  (β) 是の故に法華経に云く     「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く    「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、    大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は     ○ 一切衆生 悉有仏性  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。    (ε)  法華経に同共して信ずる者    (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは      (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも    (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。  《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち   ◆ ~~~~     (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして         清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ~~~~~   ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

  • 創価学会への公開質問状:なぜ断絶する宗派か?

     または 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか? と問います。  あらためて次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問います。  中で (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  なお ≪神≫と言ったのは ダルマ(法)もしくはダルマ・カーヤ(法身)のことを言います。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~~~~  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …  (α) 南岳釈して云く   「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、    ☆(α‐1: bragel. ) これは ブラフマン神とアートマン霊我との一体を         表わす≪梵我一如≫として 一般化して捉えてよいと考えます。  (β) 是の故に法華経に云く   「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く   「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    ( γ‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ☆ ( γ‐1 )=( α‐1)です。  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)として解釈したごとく:   ○ 一切衆生 悉有仏性 (法華経)  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。   (ε)  法華経に同共して信ずる者   (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは    (3-1)  一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも  (3-2)  人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダルマ)に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-2)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で時には依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。    《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシヘは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。  のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐1) 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないものである(オシヘなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ)《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐2) ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ)《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐3) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであるか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(修行ではなく善行ではない)》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち  ◆ (γ‐1=α‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして           清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す      ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? 普遍神のことではないか? なぜ分派をみづからつくる党派を成すのか?

  • ニーチェの阿呆にどうして日本人はイカレテしまうのか

     《神は死んだ》ったって キリスト・イエスはすでにハリツケになって死んでんぢゃんか。このバカタレが。  《ニヒリズムにあらがう・チカラへの意志は そのニヒルの暗黒なる孤独の影がわが身にわが心に迫って来たそのつど何度も何度も永劫回帰のごとくおのれの内から発揮するのだ》ったって それぢゃ 進歩がない。シシュフォスの神話ではないか。  ニヒリズムを《思うようにならないという苦》から解脱するのは凡夫ではダメだとでも言うように大化城なる――つまりは インチキなる――さとりを自分は得たと説いたペテン師なる誰か知らんの言う《苦》がけっきょく凡夫のままでは乗り越えられないのだと言うそれと同じだと説くかのごとく 賽の河原で石を積む《力への意志行為》を永劫におこないつづけると言う。   一切衆生 悉有仏性 あるいは 梵我一如  とひと言となえて 一点突破すればよいはずであるものを。  どこまでも・いつまでも主体性無き人生をあゆむムラカミハルキのモヤモヤ・ワールドにどうしてイカレポンチになるのか?  トラウマは一生直らないだって? そういう定義のトラウマを先に前提として置いたのだから 当ったり前だよ。このあほんだらめが。  ひとびとはなぜ目覚めないのか? 誰かに義理立てしているのか? 《有名や肩書き》によわいのか? それほど人びとも阿呆なのか? 阿呆どうしの傷のなめ合いなのか この世界は?

  • キリスト教の信者さんに聞きたい

    (1)私・親しい人々・生きとし生けるものが、幸せであること・悩み苦しみがなくなること・願い事がかなうこと・今やるべきことがわかるという智慧が現れることなどを喜ぶような心をつくることについては、問題ないでしょうか? (2)今起こっている身体の感覚・状態、感情などの事実を確認することに問題はないでしょうか? (3)論理的かつ道徳的な考え方を理性的に学び、自他共にとって役に立ち人格の向上につながるであろうと考えたものを実際に事実か確かめることについて問題はないでしょうか? 以上は僕の思う上座仏教の「実践」です。 (1)慈悲の瞑想・正定 (2)ヴィパッサナー瞑想・正念 (3)正見・正業・正語・正思惟・正命・正精進 論理的道徳的に問題なければキリスト教の方々も実践できるということになると思います。 どうでしょうか?

このQ&Aのポイント
  • 最近、PIXUS 10Sで写真印刷をする際に白紙のまま印刷されてしまう問題が発生しています。
  • XPSを使用している場合には問題が発生するが、切り替えずにプロセスすると正常に印刷ができる。
  • printer driver ver 5.87をダウンロードしても問題の解決には至っていない。
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