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慈悲は 経験現実か

 わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。  《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって( 人間S語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの( 普遍A語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。  【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【S語】か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【S語】か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。  Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。  Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。

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回答No.20

仰るように、仏の慈悲は我々俗人には無理な話ですと思います。 慈恩悲恩の言葉が出てくる「父母恩重経」などは、“愛”の形と捉えられると思います。割り切って仏ではないのに慈悲を云々すると言うのは無理と、NO!としました。だからと言って仏の御手の中で生かされて、慈悲の心に全く無関係と言っているわけではありません。 実践は不可能でしょうが、仏の慈悲の中にいると感じた時には、そのほんの少しの切れ端をつかむようになるのかなとは思いますが・・・ それはbrageloneさんが仰るように、キリスト教の“愛”に近いとと言うか、同じだと思います。 余談ですが「神は愛なり」と言う事と「全知全能の神」が同一存在であると言う事は、人間の浅智慧では理解不能ですね。 ですから、答えは人間には慈悲も愛も絶対的概念では無理でしょう。真似事は出来ますが・・・ ▲衆生が 義に渇くというふうに見るわけには行かないのですか? 本当にそう思いたいと思います。又そうあって欲しいと思います。 でも、そうでないことはbrageloneさんが一番良く分かっていらっしゃるのだと思いますが・・・ 蛇足:荒了寛の《絵法話》は別の本です。 

noname#80116
質問者

お礼

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。  1000827313さん 1000827313さんのご文章は 独特ですね。どこからでも まだまだ 言葉はわるいですが 隠し玉が出てくるように さらなる議論にも 準備万端というところですね。  どうも 素養が浅いと 途端に おいてけぼりになってしまう。議論も簡潔ですね。おやっと言っているあいだに 次の主題に移ってしまわれているようです。  今回は めづらしく と見るべきかどうか ていねいに補ってくださった恰好ですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  実践は不可能でしょうが、仏の慈悲の中にいると感じた時には、そのほんの少しの切れ端をつかむようになるのかなとは思いますが・・・  それはbrageloneさんが仰るように、キリスト教の“愛”に近いとと言うか、同じだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おおよそ このように 結論の方向を捉えたいと思います。  ★ 荒了寛の著書  ☆ は 次の図書館通い(20日)の日に先送りします。  ★☆ 衆生が義に渇く  ☆ の問題。もし 信仰が 向こうからやって来て 与えられるのであるならば  ★ 全知全能  ☆ の問題になります。まぁ 一度張り切って 護教論――なつかしい言葉ですね――をやらかそうと思えば 義に渇かない人びとの状態に 渇く人が どれだけ耐えることが出来るか これを神は見ているのかも知れません。(うまいこと 言うでしょう)。  ★ 「神は愛なり」  ☆ 《無根拠》が 《神の愛》ですから そうは問屋が卸しはしないと思いますよ。ただし 一人ひとりの主観内面においては たとえ実現しないとしても その事由について理解しうるかたちが 現われてくるとも思いますが どうでしょう。  ★ 「父母恩重経」  ☆ こんなの あまり聞きません。わたしは えらい博学の研究家に出遭ったものです。  * 慈悲は あまり 議論になじみませんでしょうかねぇ。

noname#80116
質問者

補足

 18日夕に記します。  図書館に行く機会が 早く 訪れました。  ★ 荒了寛:慈しみと悲しみ  1988  ☆ 読みました。正直に申します。  九十九匹の中に入れず 一匹となったわたしにとっては 毒の文章です。  人間 S 語を基礎として 随所に 普遍概念 A 語のことばを さりげなく 散りばめて おだやかな語り口で 日常生活を解き明かしていく手法は もう年季の入ったものです。親子や家族の愛情が 主題であって これが 慈悲に充ちた雰囲気を醸し出している。あたかも ブッダの慈しみと悲しみであるかのようだ。・・・  まづ ここに示された人間語を生きた実際の主人公の人たちについて 何の問題もないでしょうし 批判をする気も理由もないわけです。多少の抽象化による普遍概念語を 散りばめるとき それは きわめて――こういう語り言葉の中に著わされると――演出効果も 大きいと思えます。  じじつ わたしは 何を隠そう こういう仏教思想のもとに 二十代後半まで 生きていました。周りの雰囲気も そうでした。ただ 一点を除いてです。それは わたしに対しては この慈悲に似たに過ぎないものだとしても その思いやりという行為が 基本的に いっさい 無かったということです。そういう人生を 三十年弱 生きました。  その後も 外側のかたちは 同じ状態・同じ情況がつづいています。わづかに 三十歳前後には キリストの心によって わたしは すくわれましたので 意に介さなくなっているという違いが出て来ています。  じじつ わたしは 嫌われたり のけ者にされたりしても 常不軽菩薩よろしく 軽蔑もせず そういうものかと受け止め あとは 生来の能天気でした。  以上こういった事由により こういう雰囲気の文章は わたしにとって 面白くも楽しくもありません。  おそらく 無限・無根拠の光が 差していないから というのが 理論的な問題なのではないでしょうか。光は 雰囲気として いわゆる継起無限として つねに どこまでも 限りなく 慈悲に近づくという姿勢を促すようにして 差している。このゆえではないでしょうか。熱くもなく冷たくもなく 中途半端に映ります。  慈しみと悲しみを じゅうぶん 知った人間が   ▲ 人が悪い事をしたのを見てからと言って それを訴えたり 人にわざわざ教えたりして 罪人をつくるようなことはするな。人から他人の悪口を聞いても それを他の人に伝えるような事はするな。(p.106)  ☆ に従うならば――ひとつの危惧として―― 社会保険庁の死んだような仕事ぶりがつづくことが うなづけますし あるいは 社長の命令ゆえ 商品の偽装工作は 甘んじて 受け従うことになるのではないでしょうか。  もちろん 経験世界のことがらは なにごとも 程度問題です。すっかりきれいにせよとか 完全に解決せよと言うためではありませんが 限りなく貴い光にだんだん近づく理性と感性とによっては 好し悪しでしょうし どうも 《なまぬるい》。そしてその限りで 《人は死んでいる》とすら 感じられて来ます。  というのが 1000827313さんの比ではないへそ曲がりのわたしによる感想です。率直という言葉を となりの惑星にたどりつくまで言い続けても なお足りないほどの率直に申しました。ひとつの視点ではないかとは思っておりますが いかがでしょうか。

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noname#117439
noname#117439
回答No.3

オコリザルです。 経験談です。 いつものようにドグマ探索をしていて狂気に侵食されていたときに、その姿目見かねた他者より慈悲を受け取ったことがあります。 形として感化し得る情動は主観においては「いたわりであり」もっと深くは「あわれみ」であり、ドグマにおいては慈愛の雨でした。 この複雑な現象を心理にすると「憐憫」が最も近いです。 慈悲は要するに観念でして感情としてすら形をとりません。 現代人は仏に限らず生得的に慈悲の観念を持ち合わせていると言えます。 形をとらないので、すがりつくものではありません。信仰の対象ではあるでしょう。 それから簡単に狂気に侵されると言ってのけるので、ご心配を集めるかもしれませんが、狂気には流されたことがないので全然平気なんです。 慈悲を求める心境の本来のありようは托鉢をするお坊さんの姿です。 関係ありませんが私が哲学カテに出没するのは本来は自らが狂気でないことを証明するためでした。 救うという行いは自らを認めてもらうことです。 誰かに自分をわかってもらうことで、救うことがむしろ救われることです。 奈落の底に落とすのも自助努力を促す救いといえます。 A2についてはギター侍気取りなので特に取り合わないでください。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回も 複雑ですね。  ★ 慈悲 情動 いたわり あわれみ 慈愛の雨 憐憫 観念か感情か ドグマ  ☆ 質問の趣旨説明にある 《人間語(S語)・普遍概念語(A語)》の区別ですとか 《三縁の慈悲》という分類ですとかに 照らし合わせて 述べていただくと 分かりやすいのではないでしょうか。    うかがっていると 慈悲なら慈悲の行為の問題は 個人が どうする・こうするというよりも 相手との関係が やはり 大きな役割を担っていて 共同責任もしくは連帯責任であるようにも 部分的に 感じます。  それから   ★ 社会による承認   ☆ このことは よく重大な問題であると説かれたりします。《承認欲望》という言葉も 出されています。  わたくし自身も この承認には 手こずりました。なかなか なくてもいいと言うわけには行かず 体でその欠如感を感じるようにさえも思いました。わたしは 最終的には 無根拠(つまり 神という想定)で 初めて 承認問題を片付けました。というよりも 承認がなくても よそよそしくされることが 社会による・または神による承認であると考えたのでした。  その後 近年では 同じように この質疑応答の場への参加も 具体的に 社会的な承認の感覚を覚える機会になりました。初めは 無理かなぁとも思っていたのですが。まだ一年半ほどです。  ★ 慈悲を求める心境の本来のありようは托鉢をするお坊さんの姿です。  ☆ これは 理論の問題を離れたかたちになるでしょうか・どうでしょうか なにか 切実なことであるように 思いました。

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noname#117439
noname#117439
回答No.2

オコリザルです。 なつかしのギター侍みたいにバッタバッタと切ります。 キリスト教徒の言う無償の愛の原型は慈悲です。 全てが関係を保つはずなのに「答え」が響かない。 そんな愛が無償の愛です。 この点はキリスト教徒のほうが勘違いしています。 愛情の一種に分類すると自己欺瞞が横行します。

noname#80116
質問者

補足

 ★ キリスト教徒の言う無償の愛の原型は慈悲です。  ☆ この一文は きわめて複雑です。いろんな要素をすべていっしょにして 判定していると思います。  ○ 無償の愛  ☆ について わたしの考えを述べてみます。  そもそも ひとという存在は 社会において 独立しつつ 社会的に関係しあっています。その行為は それが 有償であっても無償であっても そのことには かかわらず 関係性を持っているわけです。  有償なら 償いをする・されるという交通があり その相手がいるからには 明らかにそう(=つまり関係的)ですが 仮りに無償であっても 交通(まじわり)として 相手がいないというだけであって 関係は――つまり 社会的な基礎としてのつながりは―― あるわけです。  イエスが 十字架の刑に処されることに甘んじたのは 《無償の愛》であるという言い方がされます。  二点あります。わざわざ《愛》という必要はないはづです。社会的な基礎としての関係じたいが ひとにとって 愛なのですから。  また 《無償》であるからには イエスは 勝手に はりつけの刑に処せられたのです。甘んじたのです。《おまえたち わが愛の表現をみておきたまえ》とは言っていないわけです。  (のちに 噂されたように 神の愛としては そのあたりのことについて 生前に 説明をしていたとも言えます)。  社会としての関係性は 無くなりませんし これを失くそうとしているわけでもありません。ただ相手を いっさい 想定していないわけです。見返りに 死んだあとは わたしのことを想えとは 言っていないわけです。  (司直の手に捕らわれたあと 裏切りによって 弟子たちも 皆 離れて行ったことについて とやかく 言っているわけではありません。その事態を予告していたかのようではあっても そこまでです)。  この《無償》の行為が その行為じたいにおいて 《愛》であると――しかも ドグマとしては 《神の愛》であると―― うわさされるようになりました。ただ それだけであるし ただそれだけにおいて 非思考としての《信仰》が じんるいの歴史に――アブラハム以来あらためて――生起したのです。  ★ キリスト教徒  ☆ が どう言うか 知りませんが――つまり 知っていますが その内容は あまりいただけません したがって わたしの知ったこっちゃないですが―― 大きななぞであるのが 愛であり それゆえ愛は 非思考の信仰を芽生えさせるものです。  このとき   ▲ 慈悲  ☆ とは 何ぞや? これを問うています。  愛は 信仰の動態において 結果的に 実践しえたのではないか・し得たようだと予感するような実態です。  つねに 非思考と ひととしての努力と これらが 構造的にひとまとまりを成しており その社会的な構造過程にあって わたしたちは 互いに あの時には 愛とやらにわたしは触れられていたようだとか かの時には 愛に見放されていたが その見捨てられていたこと自体において 見捨てられていなかったのだと あとで 分かったとか ――むしろ まぼろしの内に しかも つねに現実の予感を伴ないつつ―― 言い合ってあゆむことになっているようです。  何の根拠もありません。ゆえに 希望があります。目に見えないものゆえ 形あるものではないゆえ 希望が つづきます。《彼岸》を すでに わたしたちは――そう言ってよければ――見たからです。いま・ここにある〔と予感する〕からです。(精神の産物ではないという捉え方をしているので 《彼岸》という規定から自由でいられます。精神の産物であるなら 《絶対》という想定に当てはまらないからです。想定つまり虚構が そうであるゆえ どこまでも 生きます)。  と述べたところも 参考として つまり たたき台として ご投稿をお寄せください。primeapeさんのご回答の場をお借りしました。  * primeapeさんの言われる《無償の愛》には 《報いを求めない愛》のほかに 《求めていたのだが それが報われない愛の行為》という意味も 含まれているのではないでしょうか。人の行なうふつうの愛情として 時と場合によっては 起こり得るような。

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noname#117439
noname#117439
回答No.1

オコリザルです。 今回は変わりに嫌われ者になります。 あくまでも仮説です。 心理学は結構人間と言う存在の真理について探求が進んでいますが感情として慈悲が発見されたことも研究されたこともありません。最新の心理学は仏教観念の応用が大好きですから取り上げたことはあると思います。それでいて無視されています。 したがって信仰を離れて経験現実の分野では承認されていないといって良いでしょう。 では何なのか。 多分、地獄の亡者限定の特異な感情なり処方箋でしょう。 ただし、そのようなドグマなり地獄なりが本当に心に内包するなら心理学で探求が進められていてしかるべきです。 慈悲が幻であれば地獄も幻です。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  お互いにやり取りしていると たしかに 示し合わせているのではないかと見られるのかも知れませんね。  今回も 《ブッディスム研究》です。  《無限》には 1,2,3、・・・∞というふうに限りなく続くという継起無限がありますが これは 想定すべき無限ではありません。部分なり単位体なりがあるというのは 絶対としての無限ではありません。  一般に ブッディストは 悟りなり この慈悲を行なえるまでの境涯なり それらには 修行と研鑽によって 限りなく 近づくのだと言っていると思います。つまり 継起無限において その修行の完成された状態を捉えているのではないでしょうか。  親鸞ないし浄土門のほうでは 阿弥陀如来を――無量寿ないし無量光という意味ですから つまりは 無限 ですから その意味での―― 絶対と捉え これに帰依するのは まさしく非思考の信仰であると 少なくとも 一説としては 認識できると思います。(→《Q:親鸞再考》)。  ですから ここでは 浄土門のほかのブッディスムについて問うかたちでもあります。  ★ したがって信仰を離れて経験現実の分野では承認されていないといって良いでしょう。  ☆ そもそも ブッディスムが取り扱いにくいその理由は このように じつに 《信仰を離れて》という場合なのだと考えます。  言ってみれば 悟りは 彼岸というように 向こう岸ですから どこなのか・いつになったらたどり着くのか 分からないと来ていますから 世話の焼ける説明をしたもんだなぁと思います。ちょうど継起無限であるかのように もうちょっと もう一歩 あと少し と言いながら――つまり ひとをじらしながら―― さらにあたかも 馬の前ににんじんをぶら下げて走らすかのように ブッダの境地は あたかも絶対のごとくであると説きつづけます。つまりは もはや どこまで行っても たどり着けない逃げ水のようです。しんきろうです。  ★ 慈悲が幻であれば地獄も幻です。  ☆ でも 可能性を見過ごしてはいけないと考えられます。(親鸞の歎異抄の読みでは わたしは 読み過ごしをしてしまいました)。  言いかえると わたしの考えでは   ★ 地獄が幻である。  ☆ のは ちょうど善悪を超えた絶対を想定するゆえに 悪も悪意も罪も まぼろしであると見なしうるように ブッダないし仏性が 普遍的にして絶対であると想定した場合であるように思われます。あたかも地獄が 現実であるという情況もあるかも知れません。  また その絶対観を採る以外に ブッディスムの生きる道はないと思うのですがねぇ。そうでなければ 心理学や哲学に吸収されてわづかに残るか あるいは 道徳となって雲散霧消する運命をたどるか ではないでしょうか。そのことを問いたいと思います。おしえて欲しいと思います。  二千年も 説明が滞ったままなのでしょうか。やたら文献が多いだけでは 何にもならないように思うのですが どうなのでしょう。

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     わたしたち人間の能力を超えていることなのか? それとも 人間のおこないうる行為であるのか? これを問います。  《ヰキペ:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉( スサノヲ人間( S )語 )であって しかもすでに同時に 抽象一般化しまたその概念を純粋化し高めたもの( アマテラス普遍( A )語 )であると考えられます。  抽象化され高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。  ▲ (ヰキの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~  1. 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、  【 S 語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、  【 A 語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。  したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。  2. 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は  【 S 語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻(うめ)き」にあるという。  「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。     ☆(私註) これらの S 語は 日本語の《もののあはれ》に通じて     いると思われます。  【 A 語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。  3. 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。  (一) 衆生縁とは   衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。    ☆ (これは =【 S 語】か? つまり経験現実か?)  (二) 法縁(ほうえん)とは、   すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をいう。    ☆ (これは ≒【 S 語】か? そのような経験現実か?)  (三) 無縁とは   慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。    ☆ (これは =【 A 語】であろう。あたかも≠【 S 語】か? それとも 【 S 語】じたいの中に潜在しているというのか?)  この三縁の慈悲とは、  第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、  第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にあるものの起こす心、  第三は 仏の哀愍の心であると言える。  この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことであるとも考えられます。そのことをも含めて 慈悲は 人間の実際におこないうる現実であるか? こう問います。  あるいはまた 《もののあはれ》という S 語は 普遍 A 語の内容をも宿しているか? この問いも含みます。  ずばりおしえてください。

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    私は、聖書をよく読みます。 また、日本の親鸞が説いた教えも大好きです。 これらは、弱者や文盲の人や罪人でも、信仰を受け入れることによってもたらされる普遍的な救いであると説いており、マクロな視点でみれば共通する教えではないか。と考えていました。 *1キリスト教世界では、死後救われるかは最後の審判までわからない…うんぬんかんぬん・・・というのはとりあえずおいといて、イエスをキリストと信じ、主を崇拝することによって得られる『現世での罪からの解放と救い』とさせてください。 *2親鸞の教えは阿弥陀様の慈悲にすがることによって、死後での救いが…うんぬん・・・ですが、これも、信仰することによって得られる現世での充足感のようなモノで捉えています。 かなり乱暴ですが、私の『慈悲』への認識は以上です。 で、質問です。 (1)慈悲を別の言葉に置き換えるとどんな単語、もしくは表現が相応しいのでしょうか。(日本語でも良いです。) 参考ウエブhttp://shinran-bc.tomo-net.or.jp/report/report03_bn06.html (2)キリスト教世界との愛の4形態と比較して説明すればどうでしょう? a.エロス 情愛にもとづく情熱的な愛(条件付かつ情熱的な愛) b.フィリア    理性的な人間の間に成立する友情としての愛(友愛)   c.ストルゲー  肉親への愛情(親子の愛)、 d.アガペー   キリスト教的な愛、神への崇拝 (3)質問自体が間違っている。慈悲とキリスト教世界のイエスの教えに共通点はない!!という意見をお持ちの方は、できればわかりやすい言葉で教えてください。 (1)・(2)・(3) どれかにお答えいただければ嬉しいです。 *編集部さまへ、内容が重複する点があり、本質的には一つの質問です。 削除する前にその辺に留意していただければ幸いです。

  • 《神即自然》は 《一切衆生 悉有仏性》と同じか

     スピノザの言う    《神すなわち自然( Deus sive Natura )》  は ゴータマ・ブッダがついぞ言葉としては表わし得なかったところを一般大衆がおぎなったと考えられるその命題としての    《一切衆生 悉有仏性》  と同じか?  どう同じで どう違うか?   たたき台は ありません。学び中の見切り発車です。それでも質問者ながら(またはそれゆえに)ツッコミだけは入れます。  1. 《神とはすなわち自然である》の自然とは、《植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと》。らしい  ▲ ヰキぺ:バールーフ・デ・スピノザ § 2.2 存在論・認識論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6    2. 《衆生》は 有情とも呼ばれ 生命あるものすべてのこと。らしい。  3. 《ブッダター(仏性)》は アートマンと同じく霊としての存在であろう。神もむろん《自然》であるというとき その存在は 目に見えるものではなく・心の目にさえ見えるものではなく ナゾの何ものかとしての霊であるはずだ。  4. スピノザでは 神を《実体 Substantia 》として何やら面倒な議論があるようです。《思惟するもの Res Cogitans 》とは そもそも第一に神のことであるのだとか。それをつうじてこそ自然としての人間も考えることを成す。  ▲ (前掲ヰキぺ) ~~~~~  神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。  ~~~~~~~~~~~~  5. 心身平行論  ▲ 身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。  6. ▲ ~~~~~  その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており、  7. ▲ ~~~~~~  この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。  すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。  両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。  ~~~~~~~~~~~  8. ▼(ヰキぺ:仏性) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7   § 1.1 歴史的な流れ  仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『法華経』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。  さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること(一切衆生悉有仏性 - いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。   § 1.2 宗派による違い  さらに日本の天台宗では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え(一切悉有仏性)までが、後世に生まれた。  ~~~~~~~~~~~  ご教授ください。

  • ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか

    ブッダ葬送がやっぱし必要ではないでしょうか  (α) 末法が 現実であるのではないでしょうか。  (β) もう何も新しい思想は ブディズムからは出て来ないのではないでしょうか。あとは 広義の訓詁註釈のみではないでしょうか。  (γ) 後世に現われた広義のブディズムは ブッダをきちんと葬送して初めて その生きた思想は生きるのではないか。    (δ) 《慈悲》は 人間にとっておこなうことは出来ないと なぜ明らかにしないのでしょう。出来るのなら ふつうの思いやりです。無縁慈悲は 絶対の愛のごとく 実践はむつかしい。  (ε) 《縁起共生=空観》――てっとり早くは 関係主義の思想――は当たり前だと なぜはっきりさせないのでしょう。そうでなければ ただ精神において理念や美を描こうとしたその想像世界です。  (ζ) 《仏性》ほど 唱えていながら それにもかかわらず はっきりさせないものはないのではないでしょうか。絶対普遍のことなら そうだと言うべきでしょう。そうでなければ ただのお慰みのおもちゃです。思いやりの問題に還元されます。  (η) 一たんきちんと 葬送をしておく必要があるのではないでしょうか。そうすれば ひょっとして 復活する恵みが起きるかも知れません。  言いかえると いまもこれなら生きているというおしえを おしえてください。

  • 仏陀の思想について

    ちょっと引っかかることがあるので質問します。 仏陀は『慈悲の心』というものを実践しています。 しかし彼はこの世の苦しみとは何なのか?と考えるとき それは四苦八苦(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦etc)を断つ 諸行無常・諸法無我を知らないこと(無明) だいいます。 そこで質問なのですが (1)慈悲の心を他人に施しなさい、というのは時に他人に対して愛情さえも抱いてしまうことがあると思うのですが(人間なら)、そうすると四苦八苦で言っている愛別離苦という言葉に反してしまうと思います。 (2)また諸行無常というのはこの世の無常を言っているのですが、もしこの世が無常ならば、なぜわざわざこの世に住む人間(他人)に対して慈悲を施すのでしょう?それで救われるのはなぜでしょう? 自分はほんのちょっと教科書を読んでみて(自分の理解が間違ってる可能性も大)感じたことなのですが、どうなのでしょうか?

  • 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか?

     特には創価学会としての見解をたずねます。  次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。   (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~    http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512  (α) 南岳釈して云く     「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、  (β) 是の故に法華経に云く     「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く    「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、    大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は     ○ 一切衆生 悉有仏性  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。    (ε)  法華経に同共して信ずる者    (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは      (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも    (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。  《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち   ◆ ~~~~     (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして         清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ~~~~~   ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

  • 創価学会への公開質問状:なぜ断絶する宗派か?

     または 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか? と問います。  あらためて次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問います。  中で (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  なお ≪神≫と言ったのは ダルマ(法)もしくはダルマ・カーヤ(法身)のことを言います。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~~~~  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …  (α) 南岳釈して云く   「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、    ☆(α‐1: bragel. ) これは ブラフマン神とアートマン霊我との一体を         表わす≪梵我一如≫として 一般化して捉えてよいと考えます。  (β) 是の故に法華経に云く   「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く   「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    ( γ‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ☆ ( γ‐1 )=( α‐1)です。  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)として解釈したごとく:   ○ 一切衆生 悉有仏性 (法華経)  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。   (ε)  法華経に同共して信ずる者   (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは    (3-1)  一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも  (3-2)  人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダルマ)に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-2)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で時には依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。    《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシヘは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。  のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐1) 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないものである(オシヘなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ)《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐2) ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ)《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐3) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであるか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(修行ではなく善行ではない)》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち  ◆ (γ‐1=α‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして           清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す      ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? 普遍神のことではないか? なぜ分派をみづからつくる党派を成すのか?

  • ニーチェの阿呆にどうして日本人はイカレテしまうのか

     《神は死んだ》ったって キリスト・イエスはすでにハリツケになって死んでんぢゃんか。このバカタレが。  《ニヒリズムにあらがう・チカラへの意志は そのニヒルの暗黒なる孤独の影がわが身にわが心に迫って来たそのつど何度も何度も永劫回帰のごとくおのれの内から発揮するのだ》ったって それぢゃ 進歩がない。シシュフォスの神話ではないか。  ニヒリズムを《思うようにならないという苦》から解脱するのは凡夫ではダメだとでも言うように大化城なる――つまりは インチキなる――さとりを自分は得たと説いたペテン師なる誰か知らんの言う《苦》がけっきょく凡夫のままでは乗り越えられないのだと言うそれと同じだと説くかのごとく 賽の河原で石を積む《力への意志行為》を永劫におこないつづけると言う。   一切衆生 悉有仏性 あるいは 梵我一如  とひと言となえて 一点突破すればよいはずであるものを。  どこまでも・いつまでも主体性無き人生をあゆむムラカミハルキのモヤモヤ・ワールドにどうしてイカレポンチになるのか?  トラウマは一生直らないだって? そういう定義のトラウマを先に前提として置いたのだから 当ったり前だよ。このあほんだらめが。  ひとびとはなぜ目覚めないのか? 誰かに義理立てしているのか? 《有名や肩書き》によわいのか? それほど人びとも阿呆なのか? 阿呆どうしの傷のなめ合いなのか この世界は?

  • キリスト教の信者さんに聞きたい

    (1)私・親しい人々・生きとし生けるものが、幸せであること・悩み苦しみがなくなること・願い事がかなうこと・今やるべきことがわかるという智慧が現れることなどを喜ぶような心をつくることについては、問題ないでしょうか? (2)今起こっている身体の感覚・状態、感情などの事実を確認することに問題はないでしょうか? (3)論理的かつ道徳的な考え方を理性的に学び、自他共にとって役に立ち人格の向上につながるであろうと考えたものを実際に事実か確かめることについて問題はないでしょうか? 以上は僕の思う上座仏教の「実践」です。 (1)慈悲の瞑想・正定 (2)ヴィパッサナー瞑想・正念 (3)正見・正業・正語・正思惟・正命・正精進 論理的道徳的に問題なければキリスト教の方々も実践できるということになると思います。 どうでしょうか?