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仏陀の思想について

ちょっと引っかかることがあるので質問します。 仏陀は『慈悲の心』というものを実践しています。 しかし彼はこの世の苦しみとは何なのか?と考えるとき それは四苦八苦(生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦etc)を断つ 諸行無常・諸法無我を知らないこと(無明) だいいます。 そこで質問なのですが (1)慈悲の心を他人に施しなさい、というのは時に他人に対して愛情さえも抱いてしまうことがあると思うのですが(人間なら)、そうすると四苦八苦で言っている愛別離苦という言葉に反してしまうと思います。 (2)また諸行無常というのはこの世の無常を言っているのですが、もしこの世が無常ならば、なぜわざわざこの世に住む人間(他人)に対して慈悲を施すのでしょう?それで救われるのはなぜでしょう? 自分はほんのちょっと教科書を読んでみて(自分の理解が間違ってる可能性も大)感じたことなのですが、どうなのでしょうか?

みんなの回答

回答No.17

無常の中の御縁を大事にしたくは御座いませんか?

回答No.16

仏教の話で何時も思うのは矛盾する2つの話を並べて両方の調和を取れという命題が見えてきます。この質問の内容もやはりそんな感じですね。恐らく仏教の究極の悟り、修行の目的は相容れない事柄の存在を認める。つまり両立困難な問題をどんどん積み上げていき最終的に<自分の到らなさを知れ>そこから色々な事が見えてくる。他人を許す、解決不能な悲しみ、苦しみ、etcを@@有るがままに受け入れる事が苦しみからの自己の解放に成る@@が結論な様な気がします。つまり答えが答えでなく、答えを導く過程の其々の困難さが答えとなる。今回の質問も<解決そのものが解決でなく解決の困難さを知れ>が答えのような気がします。判りにくい文面ですみません。がんばってください!私は雑念、煩悩に翻弄されて悟りとは程遠い存在です。

  • namahu
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.15

もう一つ補足させて下さい。 苦を断つというのは何も愛するな という事ではないと思いますよ。 愛するなという論理で読むと、生きるな死ぬな老いるな病むなとなります。 無理です。 人は必ず、生き、死に、老い、病み、別れて会う そういうものと知らない(頭の理解だけでなく心や体の理解も含めて)から苦しむのだ、というのが無明の話です。 なので(1)の人を愛したからといって愛別離苦には反しません

  • namahu
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.14

ほぼフワポヨさんに賛成です。 あと補足 仏の慈悲というものには仏の智慧(悟り)が必ず伴います。 よって(1)には反しません。 (2)Qわざわざなんで? Aむしろそれが慈悲では?    Qなぜ救われる?  A智慧が伴っているから。 お釈迦様の慈悲の実践は仏法を広めるというものです。 あと、輪廻転生の話が出ておりますが、昔のインドの常識ってのはそうなんですが、仏教ではどっちかというと比定派だと思います。 常識をいきなり比定するのではなく、間接的に「諸法無我」や輪廻を越えるという言い方で比定されてると思います。

回答No.13

すみませんが、時間がないので手短に、なんでも物事は表裏一体、喜びの裏には苦しみや悲しみが潜んでいる。それを、解らずその時の喜びに浸るけど、一見喜び多い程苦しみも大きい。だから、愛する事が強ければ強い程離れる時苦しいから、究極愛着が強い程、死ぬ時も苦しまなければならないから、情と言う執着から煩悩から離れましょうと言うのが愛別離苦。全ての無明から解き放たれた仏陀は、そこら変で地べた這いずり回ってる凡夫が無常や煩悩が真に解ってないから、かわいそうで、そこから開放された仏陀は思わず全てを知り尽くした仏陀は慈悲の波動をあまねく地球上に知らない所で発せられてるんでしょう。あ~言い出せば切りがないので・・・

  • lv4u
  • ベストアンサー率27% (1862/6715)
回答No.12

No.9さんの質問について >>仏陀は輪廻転生については何も述べていないのではないでしょうか。 仏教以前のバラモン教のころから、魂の「輪廻転生」つまり生まれ変わりは、「極めて当然で、常識的な知識」だったようです。なので人々の常識になっていることまで、仏陀は説かなかったのだと思われます。

noname#161636
noname#161636
回答No.11

はじめまして 素人なのですがおじゃまします。 1 慈悲について ・慈悲とは、慈(楽をあたえること)と悲(苦をさらしむこと)という2語から出来た言葉です。 ・仏教では、人生は苦に満ちていてそもそも人生の始まり「生」からして苦であるとまでいっているのですから 同じように人生を生きている人は苦を逃れられないといっているのでしょう。 ・いわく生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦 仏教はこれらの苦がわが身に現象するのはなぜか…その原因を論理的に解き明かそうとしていると思います。 ・私が思うには、その原因の中でもっとも主要なものは執着にあると理解しています。 ・この世に生まれた限りは、長生するにおよんで老いるものです。 ・病も避けがたいものですし、ましてや誰ひとりとして死なない者はないのが道理です。 ・老病死に苛むこととなる人生は、そもそも誕生の瞬間から死すべき運命をあらかじめ与えられている意味で「生まれること」そのものが苦の発端であるともいえるし 生老病死という「生きること」そのものも苦であるともいえます。 ・さて、これらの苦はいったいどこにあるのでしょうか。というのが仏教の問題意識だと思うのです。 ・生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの個々の現象(物理的現象)に苦が存在するのか。 ・そうではない。老いることを(恐れ)苛み 病むことを(恐れ)苛み 死ぬことを(恐れ)苛み 愛する者との別離を(恐れ)苛み …そのように人生のあらゆる物事に執着するために、執着する何かを失うことを恐れ苛むところに苦は存在するのではないか と仏教は言っているように思います。 ・そこで、苦をさらしめ楽をあたえる「慈悲」の最も効果的な姿は、苦が現象するその道理を説きあかすことではないでしょうか。 ・苦は何よりも執着する心に存在するという道理を説きあかす事が慈悲であるといってよいと思います(病気等による肉体的な苦 壮絶な苦というものが実際にあると思いますが、それに加えても精神的な恐怖や苛みが私たちをさらに苦しめるのではないでしょうか。)。 ・決して、施しをあたえたり、あわれみに思ったり、愛情を注いだりという情緒的な動機に基づく憐憫の情や行動が慈悲なのではないと理解しなければならないと思います(それもありがたく大事だと思いますが。)。 ・「慈悲」は情緒的な動機によらないゆえに愛に執着することもなく、愛別離苦という矛盾が発生しようがないと思います。 2 諸行無常について ・1で示したとおり「慈悲」は苦が現象する道理を解き明かすことによって、人生の苦を恐れ苛む私たちを救済する(癒す)のではないかと考えます。 ・諸行無常(物事はとどまることなく変化する)という実相にあって、誰の人生も一瞬たりともとどまることなく変化し、生あるものはやがて死に至り、愛するものとの別離もやがて訪れ、心にも身体にも苦が訪れることさえも避けがたい。ゆえに慈悲は人を癒すよすがとなるのではないかと考えます。 ・もっぱら人間としての慈悲について記載しました。 ・正覚を得た仏陀や、正覚をまさに得んとしている菩薩における慈悲はもっと別の意味があると思いますが それについては言及することが出来ません。 

  • fuwapoyo
  • ベストアンサー率35% (18/51)
回答No.10

tkjhnt7さんこんにちは。マリア・フワポヨです。 名前はマリアですが仏教の大学で学びました。 (1)お釈迦様は慈悲の大切さを説きましたが、慈悲の心を施しなさいとは説いていません。慈悲の心を施すためには慈悲の心を持たなくてはなりません。これが難しいんです。 「慈悲の心を持ちなさい」とか「慈悲の心を施しなさい」と説くと、「自分は慈悲心に満ち溢れ、慈悲心を施している」と勘違いする者が必ず出てきます。「慈悲の心を持ちなさい」と説いて慈悲心に満ち溢れた心を持てるのなら、あえて説く必要は無いのです。 肝心なのは慈悲心の大切さ、慈悲心の得難さを知り、そして無意識のうちに慈悲の心を以って他人に接するようになることです。できませんよね。つまり、お釈迦様は「できてはいませんよね」と言いたいのです。 真の慈悲心は他人に対して愛情を持つような邪まな心ではありません。 (2)この世は娑婆(忍土)だから仏・菩薩は苦しむ衆生に慈悲を施さずにいられない(行願)だけで、理由はありません。もちろん、仏・菩薩は見返りを期待しているわけではありません。また、それで救われるとは限りません。 いい質問ですね。 ナムナム・・・

回答No.9

輪廻転生は、インド哲学やバラモン教由来の思想で、 仏陀は輪廻転生については何も述べていないのではないでしょうか。 (肯定も否定もしていない) また、彼はこの世は無常であるとは言ってますが、この世以外のことや、魂の行き場所(霊界など)については、不可知であるという立場だと思います。 また、仏陀もはじめの頃は、質問者様と同じように、この世は無常でこの世以外のことは分らないのだから、自分のみ解脱・涅槃寂静の境地に至れば、それでいいと考えていたようです。その後、弟子だちと行動をする過程で思想も変わったようです。

noname#155689
noname#155689
回答No.8

> 理解することができました。 お役に立てて幸いです。 ちょっと蛇足ですが、思い出した話を追加します。 山岡鐵舟 http://www.kyohyo.co.jp/publication/publication_020.htm の友人が「俺は毎日、あそこの祠(ホコラ)の前で立ち小便をしているが 一度もバチなんて当たったことがないぞ。神仏なんてそんなもんさ。」 と言ったそうです。 それを聞いた鐵舟は「馬鹿もの!畜生のように立ち小便をしてしまっている姿が お前に科せられたバチではないか!」と嗜めたそうです。 信心がある「から」、どんな功徳が頂けるのか?ではなく 「信心そのものが功徳」だということです。 善行を積むのは自分の意思でやっている以前に 善行を積むことが出来る環境なり状況を頂いていることに感謝しましょう ということです。 生きている、のではなく、生かされている、と考えるのです。 これは概ね、浄土宗の考え方です。

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