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慈悲は 経験現実か

noname#117439の回答

noname#117439
noname#117439
回答No.2

オコリザルです。 なつかしのギター侍みたいにバッタバッタと切ります。 キリスト教徒の言う無償の愛の原型は慈悲です。 全てが関係を保つはずなのに「答え」が響かない。 そんな愛が無償の愛です。 この点はキリスト教徒のほうが勘違いしています。 愛情の一種に分類すると自己欺瞞が横行します。

noname#80116
質問者

補足

 ★ キリスト教徒の言う無償の愛の原型は慈悲です。  ☆ この一文は きわめて複雑です。いろんな要素をすべていっしょにして 判定していると思います。  ○ 無償の愛  ☆ について わたしの考えを述べてみます。  そもそも ひとという存在は 社会において 独立しつつ 社会的に関係しあっています。その行為は それが 有償であっても無償であっても そのことには かかわらず 関係性を持っているわけです。  有償なら 償いをする・されるという交通があり その相手がいるからには 明らかにそう(=つまり関係的)ですが 仮りに無償であっても 交通(まじわり)として 相手がいないというだけであって 関係は――つまり 社会的な基礎としてのつながりは―― あるわけです。  イエスが 十字架の刑に処されることに甘んじたのは 《無償の愛》であるという言い方がされます。  二点あります。わざわざ《愛》という必要はないはづです。社会的な基礎としての関係じたいが ひとにとって 愛なのですから。  また 《無償》であるからには イエスは 勝手に はりつけの刑に処せられたのです。甘んじたのです。《おまえたち わが愛の表現をみておきたまえ》とは言っていないわけです。  (のちに 噂されたように 神の愛としては そのあたりのことについて 生前に 説明をしていたとも言えます)。  社会としての関係性は 無くなりませんし これを失くそうとしているわけでもありません。ただ相手を いっさい 想定していないわけです。見返りに 死んだあとは わたしのことを想えとは 言っていないわけです。  (司直の手に捕らわれたあと 裏切りによって 弟子たちも 皆 離れて行ったことについて とやかく 言っているわけではありません。その事態を予告していたかのようではあっても そこまでです)。  この《無償》の行為が その行為じたいにおいて 《愛》であると――しかも ドグマとしては 《神の愛》であると―― うわさされるようになりました。ただ それだけであるし ただそれだけにおいて 非思考としての《信仰》が じんるいの歴史に――アブラハム以来あらためて――生起したのです。  ★ キリスト教徒  ☆ が どう言うか 知りませんが――つまり 知っていますが その内容は あまりいただけません したがって わたしの知ったこっちゃないですが―― 大きななぞであるのが 愛であり それゆえ愛は 非思考の信仰を芽生えさせるものです。  このとき   ▲ 慈悲  ☆ とは 何ぞや? これを問うています。  愛は 信仰の動態において 結果的に 実践しえたのではないか・し得たようだと予感するような実態です。  つねに 非思考と ひととしての努力と これらが 構造的にひとまとまりを成しており その社会的な構造過程にあって わたしたちは 互いに あの時には 愛とやらにわたしは触れられていたようだとか かの時には 愛に見放されていたが その見捨てられていたこと自体において 見捨てられていなかったのだと あとで 分かったとか ――むしろ まぼろしの内に しかも つねに現実の予感を伴ないつつ―― 言い合ってあゆむことになっているようです。  何の根拠もありません。ゆえに 希望があります。目に見えないものゆえ 形あるものではないゆえ 希望が つづきます。《彼岸》を すでに わたしたちは――そう言ってよければ――見たからです。いま・ここにある〔と予感する〕からです。(精神の産物ではないという捉え方をしているので 《彼岸》という規定から自由でいられます。精神の産物であるなら 《絶対》という想定に当てはまらないからです。想定つまり虚構が そうであるゆえ どこまでも 生きます)。  と述べたところも 参考として つまり たたき台として ご投稿をお寄せください。primeapeさんのご回答の場をお借りしました。  * primeapeさんの言われる《無償の愛》には 《報いを求めない愛》のほかに 《求めていたのだが それが報われない愛の行為》という意味も 含まれているのではないでしょうか。人の行なうふつうの愛情として 時と場合によっては 起こり得るような。

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     特には創価学会としての見解をたずねます。  次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げます。   (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~    http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=512  (α) 南岳釈して云く     「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、  (β) 是の故に法華経に云く     「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く    「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、    大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕・法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は     ○ 一切衆生 悉有仏性  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。    (ε)  法華経に同共して信ずる者    (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは      (3-a)  《仏性を宿すひと》一般であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも    (3-b)  人と生まれて宿していた仏性が真実のブッダ(ないしダルマ)に背くがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-b)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシエを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。  《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシエは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐a) 《法華経を信じ》というのは そのオシエを信じることは出来ない(オシエなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ) 《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐b) ならば 念仏者等が――名はアミターバやマハーワイロ―チャナなどなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ) 《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐c) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項につぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであろうか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の努力によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち   ◆ ~~~~     (γ‐a) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして         清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ~~~~~   ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばざるがごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか?

  • 創価学会への公開質問状:なぜ断絶する宗派か?

     または 《南無妙法蓮華経》は 真実の神ではないのか? と問います。  あらためて次の日蓮氏の著わした文章の中から ふたつの主題を取り上げて問います。  中で (ε)と(η)のひとまとまり および(κ)です。  なお ≪神≫と言ったのは ダルマ(法)もしくはダルマ・カーヤ(法身)のことを言います。  ◆(日蓮:当体義抄) ~~~~~~~~  http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.ph …  (α) 南岳釈して云く   「一切衆生・法身の蔵を具足して仏と一にして異り有ること無し」、    ☆(α‐1: bragel. ) これは ブラフマン神とアートマン霊我との一体を         表わす≪梵我一如≫として 一般化して捉えてよいと考えます。  (β) 是の故に法華経に云く   「父母所生 清浄 常 眼耳鼻舌身意 亦復如是」  (γ) 文、又云く   「問うて云く      仏・何れの経の中に眼等の諸根を説いて名けて如来と為や、    答えて云く    ( γ‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして     清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す」    ☆ ( γ‐1 )=( α‐1)です。  (δ) 文、他経に有りと雖も 下文顕れ已れば 通じて引用することを得るなり、大強精進経の同共の二字に習い相伝するなり   (ε) 法華経に同共して信ずる者は 妙経の体なり    (η) 不同共の念仏者等は 既に仏性法身如来に背くが故に 妙経の体に非ざるなり、  (ι) 所詮妙法蓮華の当体とは 法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身 是なり、  (κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩業・苦の三道〔が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて 三観・三諦・即一心に顕われ 其の人の所住の処は常寂光土なり、  (λ) 能居所居・身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは 日蓮が弟子檀那等の中の事なり  (μ) 是れ即ち法華の当体・自在神力の顕わす所の功能なり 敢て之を疑う可からず 之を疑う可からず、  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) まづ(α)から順に説き進むその内容は (α‐1)として解釈したごとく:   ○ 一切衆生 悉有仏性 (法華経)  ということだと理解します。《ひとは誰にあってもブッダター(仏性)がやどる》と。  (2) ところが その《任意の或る人》が ここではふたつの種類に分かれます。   (ε)  法華経に同共して信ずる者   (η)  不同共の念仏者等  すなわち 前者は《仏性を宿すひと》であるが 後者は  ◆ (η) 既に仏性法身如来に背くが故に妙経の体に非ざるなり  と言います。この一文の意味を問います。  (3) 《妙経の体に非ず》というのは    (3-1)  一般の《仏性を宿すひと》であり続けているが 《その仏性の発現が妨げられているだけ》というのか? それとも  (3-2)  人と生まれて宿していた仏性が或るとき真実のブッダ(ないしダルマ)に背いたがゆえに 《腐った種や煎られた種のように》  もはや芽を出し得ないというのか?  (4) もし後者=(3-2)だとした場合  それでも 法華経・如来寿量品第十六の《文底における独一なる本門》としての南無妙法蓮華経なるチカラは 真実の神――(μ) 《自在神力》――であって 普遍であり遍在であり 一方で時には依怙贔屓をすることはあっても 他方で基本的に言って 人にやどった仏性の発現をわざわざ抑えることはしない。のではないだろうか?  (5) この疑問は (κ)の文章につながります。    ◆(κ) 正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人  (6) ひとつに確かにここで《正直に方便を捨て》とあります。つまり 先ほどの念仏者等は《方便のオシヘを捨てていない》。  けれどもそれにもかかわらず 当人は《真実の神》だと信じている。    《方便を捨てていない》のではなく 《方便をとおして――そのオシヘは〔特に親鸞にあっては〕どうでもよいとして捨てており――真実の神に就いている》。  のだとしたら その真実の神である南無妙法蓮華経なるチカラは 念仏者等の仏性の発現を押さえて いぢわるをするといった気遣いはない。のではないであろうか?  (7) ◆(κ) 但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる  ☆ とは どういうことか?    (7‐1) 《法華経を信じ》というのは そのオシヘを信じることは出来ないものである(オシヘなる教理は 考えるものである)。ならば 南無妙法蓮華経なる神――(μ)《自在神力》――を信じるということにほかならない。  (7‐2) ならば 念仏者等が――名はアミターバ・ブッダやマハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)などなどとして違っていても―― 真実の神〔(μ)《自在神力》〕を心にいだくのであるゆえ 《妙経の体》と同じであり 仏性の発現も何ら妨げられることはない。  (7‐3) 《南無妙法蓮華経を唱える》こととは どういうことか? 次項に継ぎます。  (8) ◆(κ) 南無妙法蓮華経と唱うる人は 煩悩・業・苦の三道〔=三障 が〕 法身・般若・解脱の三徳と転じて・・・  ☆ つまりこのように 《題目を唱える》ゆえに 《妙法の当体》となる。のであろうか? ほんとうにそうであるか?  つまり――唱題が 称名念仏と同じように わるいと言おうとするのではなく―― 仏性の発現は 人間の能力と努力〔のみ〕によって 実現するのものなのか? という問い。  親鸞の言うには 念仏は 《非行非善(修行ではなく善行ではない)》であるらしく これだと 念仏をおこなったから浄土に往生するとはさらさら言っていない。  (9) すなわち  ◆ (γ‐1=α‐1) 大強精進経の中に衆生と如来と同じく共に一法身にして           清浄妙無比なるを 妙法蓮華経と称す      ☆  この仏性ないし《自性清浄心》なるわれわれの身と心とは 自然本性として生まれたときからそなわった仏性の発現を――わづかに《信じる》ことをとおして・という意味は 人間の能力も及ばずというかのごとく一切の努力を超越して――自然史過程として・自然史過程において(具体的にはヒラメキなどをとおして) ありがたいことに 見ることになる。のではないであろうか?  (10) 《南無妙法蓮華経》なる場ないしチカラは 真実の神ではないのか? 普遍神のことではないか? なぜ分派をみづからつくる党派を成すのか?

  • ニーチェの阿呆にどうして日本人はイカレテしまうのか

     《神は死んだ》ったって キリスト・イエスはすでにハリツケになって死んでんぢゃんか。このバカタレが。  《ニヒリズムにあらがう・チカラへの意志は そのニヒルの暗黒なる孤独の影がわが身にわが心に迫って来たそのつど何度も何度も永劫回帰のごとくおのれの内から発揮するのだ》ったって それぢゃ 進歩がない。シシュフォスの神話ではないか。  ニヒリズムを《思うようにならないという苦》から解脱するのは凡夫ではダメだとでも言うように大化城なる――つまりは インチキなる――さとりを自分は得たと説いたペテン師なる誰か知らんの言う《苦》がけっきょく凡夫のままでは乗り越えられないのだと言うそれと同じだと説くかのごとく 賽の河原で石を積む《力への意志行為》を永劫におこないつづけると言う。   一切衆生 悉有仏性 あるいは 梵我一如  とひと言となえて 一点突破すればよいはずであるものを。  どこまでも・いつまでも主体性無き人生をあゆむムラカミハルキのモヤモヤ・ワールドにどうしてイカレポンチになるのか?  トラウマは一生直らないだって? そういう定義のトラウマを先に前提として置いたのだから 当ったり前だよ。このあほんだらめが。  ひとびとはなぜ目覚めないのか? 誰かに義理立てしているのか? 《有名や肩書き》によわいのか? それほど人びとも阿呆なのか? 阿呆どうしの傷のなめ合いなのか この世界は?

  • キリスト教の信者さんに聞きたい

    (1)私・親しい人々・生きとし生けるものが、幸せであること・悩み苦しみがなくなること・願い事がかなうこと・今やるべきことがわかるという智慧が現れることなどを喜ぶような心をつくることについては、問題ないでしょうか? (2)今起こっている身体の感覚・状態、感情などの事実を確認することに問題はないでしょうか? (3)論理的かつ道徳的な考え方を理性的に学び、自他共にとって役に立ち人格の向上につながるであろうと考えたものを実際に事実か確かめることについて問題はないでしょうか? 以上は僕の思う上座仏教の「実践」です。 (1)慈悲の瞑想・正定 (2)ヴィパッサナー瞑想・正念 (3)正見・正業・正語・正思惟・正命・正精進 論理的道徳的に問題なければキリスト教の方々も実践できるということになると思います。 どうでしょうか?