• 締切済み

音素と単音について

junahの回答

  • junah
  • ベストアンサー率36% (32/87)
回答No.1

日本語ではbという音とvという音を使って意味を区別することはしません。[baka]と言っても[vaka]と言っても「バカ」は「バカ」です。しかし、異なった発音であることもまた事実です。いっぽう英語では、[best]か[vest]かでは、かたや「最良」かたや「チョッキ」という意味になり、[b]か[v]かという一点で意味に違いが現れます。 [b][v]は、それぞれ単音です。これは、唇や舌をどう構えて音を出し、結果どんな音が鳴るかということで機械的に規定されるものです。これが音声学の発想です。 また、英語において/b/と/v/はそれぞれ音素であるということになります。意味の区別に用いられているからです。日本語ではどうかというと、[baka]と[vaka]は区別されませんので、音素としては/b/(または/v/)一つのみが存在しているということになります。こちらが音韻論の発想です。

関連するQ&A

  • 言語学(音韻)

    いつもお世話になっています。 pin、spin、sipという単語があるとします。 これらの発音の違いを「音素、異音、相補的分布」の3つのキーワードを使って説明しようと思っているのですが、分かりません。 音素は、意味の違いを表す音声上の最小単位ですよね。異音は、音声的には異なるけど、意味に違いは生じないものでしょうか。 分かる方いましたら、お助け下さい。 宜しくお願いします。

  • 哲学が デ・ファクト・スタンダードに追随してよいか

     何も デ・ユーレ・スタンダードをつくってそれに従えというためのものではない。  そうではなく この標準となるような規格についてさえ その根拠や全体としての成り立ちをも 哲学は 迂回してでも考察しておくこと これが つとめではないのか?  これを問います。     *  たとえば 言葉の問題として音声が はひふへほというように発音されるそのかたちを精確にしらべるのが 音声学とすれば その発音がどのように日本語なら日本語においてまとまったかたちを成しているかを考えるのが 音韻論であると言われます。  すなわち 事実上の発音としての音声と それらがひとつの言語においてどのように音韻組織をかたちづくっているか――しかもつまりは その音韻がそれぞれどのように語の意味と対応しているか――を問い求めるときの音声とは 別です。  ▲ (ヰキぺ:は行) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E8%A1%8C  § 清音  「は行」各音の頭子音の音素は /h/ である。  音声学上の発音は   「は」、「へ」、「ほ」の頭子音は 無声声門摩擦音 [h](IPA)、   「ひ」の頭子音は 無声硬口蓋摩擦音 [ç](IPA) 、   「ふ」の頭子音は 無声両唇摩擦音 [ɸ](IPA) である。  ~~~~~~~~~~~  ☆ つまりたとえば日本語で    はえ(蠅)  [ hae ]    ふえ(笛)  [ ɸue ]    ひえ(冷え) [ çie ]  のごとく音声は互いに違っているようです。笛は 上下の唇を軽く合わせて発音する。冷えは のどの奥のほうで息の音を遮るように調音する。蠅は ふつうに息の音を出すかたちである。  ところが これらは それぞれの違いにかかわらず ハ行の子音として同等の役目をになっている。と音韻論は見る。ゆえにそのように組織立てる。つまり 音韻ないし音素としてはみな / h / のひとつで表わす。  音声は [ ] というシルシで 音素は  / / というシルシでそれぞれ表わす。  つまりは たとえば    ほ〔火 cf. ほのほ(火の穂=炎)〕→ ひ(火)    ふ(経)⇒ へる(経る)  というように語の変遷があるのなら ヒもフもへもいづれも  / h / という一つの音素と見るのが 妥当である。  というふうに 事実をそれとして認識する学とその事実がいかに成り立っているかを考える学とは 別である。  哲学は 後者をつとめとする。  むろん 事実認識を基礎としてそこから始めるのであるが 哲学がそれだけにとどまっているということは ありうるのだろうか。  現実は 人間は互いに平等ではない。自由でもない。自由意志などをヒトが持っているわけがないではないか。といった事実認識は 果たして 哲学を成すであろうか。  それとも このように思弁的に考えるのは 現実にはきわめて不毛な《哲学的》なお遊びであるというのであろうか。

  • 言語学・音声学に詳しい方…

    どなたか言語学・音声学が得意な方がいらっしゃいましたら、この問題の回答をお願いいたします! 問題、次の英語の語における/t/の音は音声学的にはすべて異なるが、音韻的には同一の音素を構成することを照明しなさい。 1.take 2.stick 3.button 4.sit よろしくお願いいたします(;_;)

  • 音韻論と音声学の違いについて

    音韻論と音声学の違いについてわかりやすく、具体例を入れながら説明してくれる方はいないでしょうか? 言語学の専門の本やウィキペディアを読んでもよくわかりません。 音韻論(おんいんろん、phonology)は、言語学の一分野。言語音が、言葉の構成要素としてどのような働きをするかと言う、機能の側面を研究する分野である。音声学に依拠する研究分野だが、音声学との相違は、音声学があくまである言語音(発話に基づく)の「音」そのものに焦点をあてるのに対し、音韻論は、音声のより抽象的な側面に焦点をあてる点にある。ただし、具体的な研究対象や概念は、学派によってかなり違いがある。 と、ウィキペディアにありますが、難しいです。

  • 言語学・音声学に詳しい方…その2

    前回に続き、こちらもわかる方がいらっしゃったら回答お願いします! 問題 日本語の中のタ行の中で/t/の音が音声学的には異なるが、音韻的には同一の音素とみなされる音声学的根拠を説明しなさい。(音声学的に異なるのはなぜか、その理由も) まるで分からず困っています(;Д;) 参考になる本などもあればぜひ教えてください!

  • 人が文字を書くまでの流れって??

    私は人が書字するメカニズム(人が言葉を聞いて、それを書くまでの段階)は下のようになるのではないかと考えています。         〔聞く〕          ↓     〔環境音と音声とを区別〕          ↓    〔言語音と判断し、日本語と分かる〕          ↓      〔語彙として捉える〕          ↓    〔イメージしてカテゴリー化〕          ↓        〔意味理解〕          ↓   (1)      (2)        (3)   ↓      ↓        ↓ 〔文字を想起〕 〔絵をイメージ〕 〔音韻想起〕   ↓      ↓        ↓ 〔書く〕    〔意味想起〕   〔音韻配列〕          ↓        ↓         〔音韻想起〕   〔文字と結ぶ〕          ↓        ↓         〔音韻配列〕   〔書く〕          ↓         〔文字を結びつける〕          ↓         〔書く〕 意味理解の後は、こういう三つに分かれて、書く段階に至ると思うのですが、これであっているでしょうか。 どなたか教えてください。

  • 「ハングルは根源的には単音文字である」、この意味は? 他1件

    「ハングルは根源的には単音文字である」、この意味は? 他1件 質問1 手元の書物に次の記述があります。 「ハングルは根源的には単音文字でありながら、必ず音節単位でまとめて書く、音節文字の要素ももった特殊な文字である。」 さて、質問です。 「ハングルは根源的には単音文字でありながら、」の部分が理解できません。もしも、朝鮮民族はハングルが表す音節のうち子音だけを取り出して発音できるというのであれば、前記の疑問は氷解します。 朝鮮民族はハングルが表す音節のうち子音だけを取り出して発音できる、と考えてよいですか。よくないときには「ハングルが根源的には単音文字である」ことを説明して下さいませ。 質問2 http://hangeul.hanryuu.com/basic/003.php  ここの半切表では子音が行、母音が列で整理されています。一方、手元の簡便な書物では母音が行、子音が列で逆になっています。どちらが好ましいのですか。 どちらでも用件が足りるのは当然として、質問者と回答者が同じ半切表を思い描いていないと不便なので好ましいのはどちらかを知っておきたいです。 よろしくお願いします。

  • name と名前 は同じ発想か?

     1. / n / という音素に注目します。しかもこれに《同定相》という意義素を想定してみます。  2. 《そのものを同定する》から 日本語《 n-a 》あるいは 英語《 n-ame 》は 《名》という語義を帯びる。  3. 《数量の同定》として 《 n-e =値》あるいは 《 n-umber =数》であると。  4. 同定相が 同時にみづからの対極の《否定相》の意義をも帯びるという見方を提出します。  4-1. 或るもの( A )の同定は そのものでないもの(非A)を暗に規定します。A と非 A とを区別します。そのとき 仮りにその非 A をまちがって同定してしまうことになった場合 そのかぎりで元の A については 《否定》の相を帯びさせます。  4‐2. すなわちこれは 非合理的ですが 言語の変化としてありうることです。  《留守》は 外へ出かける人( A )の代わりに家にいて守る人( B )を言ったものですが そうではなく非合理的に意味が変化を受け 《外へ出かけた状態のこと(つまり≒非 B )》にかんして言うように変わったようです。かくして おそらく《非B 》ゆえに その《外出の状態》は あたかも元の A に関して言うようになった。 そうすると 《 A が家にいないこと》を表わすゆえ 否定する意義を持った。  4‐3. 《怪しからん(怪しからぬ)》は 意味として 《怪しかる=怪しくある》ことを言います。かたちと中身とは 対極であっても 意味として一致する場合が 言語表現にあり得ます。  4-4. すなわち 音素 / n / は 同定相のほかに《否定相》をも帯び得た。  《 na な》:否定命令=禁止法。《 nu ぬ》=否定(打ち消し)法。および 英語《 no ・ not 》といった否定辞に現われます。  どうぞ自由なご見解をお寄せください。  これは お察しのように ソシュール(≒丸山圭三郎)の《言語記号の恣意性》なる説(定説?)を批判する議論です。或る程度もしくはかなりの程度まで そのくわしい内容の用意があります。  音素が意義素と――自然で論理的なきづなを持つというかたちで――つながるなどということはあり得ないという説に対して反証を挙げようとしています。  音素 / n / は 舌先を上の歯茎のあたりにややねちっこく当てて調音するゆえ そのものに一致するような意味合いを帯びさせ得ます。この粘着性というほぼ自然のあり方から同定相という意義素にみちびかれた。こういう反論としての仮説です。どうでしょう?

  • name と名前 は同じ発想か?

     1. / n / という音素に注目します。しかもこれに《同定相》という意義素を想定してみます。  2. 《そのものを同定する》から 日本語《 n-a 》あるいは 英語《 n-ame 》は 《名》という語義を帯びる。  3. 《数量の同定》として 《 n-e =値》あるいは 《 n-umber =数》であると。  4. 同定相が 同時にみづからの対極の《否定相》の意義をも帯びるという見方を提出します。  或るもの( A )の同定は そのものでないもの(非A)を規定することにもなるとき 仮りにその非 A をまちがって同定してしまうことになった場合 そのかぎりで元の A については 《否定》の相を帯びさせます。  これは非合理的ですが 言語の変化としてありうることです。《留守》は 外へ出かける人( A )の代わりに家にいて守る人( B )を言ったものですが そうではなく非合理的に意味が変化を受け 《外へ出かけた状態のこと(つまり≒非 B つまり元に戻って≒ A )》を言うように変化しました。かくして A を否定する意義をも持ちます。  すなわち 音素 / n / は 同定相のほかに《否定相》をも帯びた。  《 na な》:否定命令=禁止法。《 nu ぬ》=否定(打ち消し)法。および 英語《 no ・ not 》といった否定辞に現われます。  どうぞ自由なご見解をお寄せください。

  • [tn]の時の「ンン」と発音する名前は?

    アメリカ人は例えば mountainの[tn]を鼻から抜けるようにマウンン~ buttonをバン~と言いますが このtを音に出さず鼻から「ン~ん」と抜けるように発音する[tn]([dn])を専門用語(音韻論?音声学?英語学?)でなんていうんでしょうか?同化の一種なんでしょうか?