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「本願寺教如書状」について

此地へ罷り下り候の条、餘久く申し承ず候間、 御茶を申し、相積もる儀咄申す可と存じ、度々御宿相尋ね申し候へは、 紀州へ御越し之由候、是非に及不候、早い近日に罷り上り候、・・・・ 恐々謹言、  十二月十八日  光寿 この教如の手紙は、何時ごろ、誰宛に出されたものか調べていますが、 入り口が見つかりません。参考となる史料をご存知に方、教えてください。

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  • cobamax
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回答No.1

古文書の読み方はまったくだめですね 歴史は好きですので、まったくの想像で思うに 1 教如が石山合戦の後「紀州」に逃れた 2 教如が紀州にいた時 本願寺の強硬派の僧侶に送った 3 後に本願寺を継ぐことになるときの「本願寺側近」あてではないで  しょうか? 古文が読める人なら簡単な手紙ですね(恥ずかしい) すいません、これじゃ参考にならないか?

kngh63
質問者

補足

参考にさせて頂きますが、想像された根拠が知りたいのですが。

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