• ベストアンサー

デカルト形而上学

ghostbusterの回答

回答No.5

> 分有ということになるとデカルトの言う実態の定義と矛盾するんですよね そうなんです。わたしもこれは昔から疑問でした。 デカルトというのは、やっぱり近代の人にくらべて、どうもわかりにくいところが多いんです。 まず『哲学原理』では実体がこう定義されています。 「存在するために他のいかなるものも必要とせずに存在するもの」(I-51) 本当の意味でそうした実体たりうるのは「神」だけですが、デカルトは神によって創造された「精神」と「物体」をも実体と認めています。ご質問にある「無限実体」が「神」で、「精神」と「物体」が、神に作られたゆえに「有限実体」ということです。 ・神は実体である。 ・「精神」と「物体」は神以外の何ものにも依存しない。 ・ゆえにそれも実体である。 という論理です。 いまのわたしたちからみると、「神に作られた」ということは、まず「実体」の定義に反しないのか、と奇妙に思われます。「実体」と言いながら、まず「神の存在証明」を展開し、それによって「思惟実体」を保証しようとする筋道は、なんだかおかしいような気がする。 だけど、そこはそれ「エピステーメー」がちがうから(笑:いいなあ、この説明)。 で、わたしがこれまでに読んだなかで、一番納得ができたのは以前にもデカルトの回答で引用した木田元の『反哲学入門』だったので、それをもとに回答します。 ----(p.125)---  一般にキリスト教の世界創造論では、こんなふうに考えられています。つまり、世界は神によって創造されたものであり、したがって、世界には最高の理性(Ratio)としての神の意図が摂理(ratio=理性的法則)として支配している。一方で神は、世界創造の仕上げとして、みずからに似せて人間を創造し、それに理性(ratio)を与えた。したがって、人間の理性は人間のうちにありながらも神の理性の出張所か派出所のようなものである。その理性に神によって植えつけられた生得観念は、世界創造の設計図ともいうべき神の諸観念の不完全な部分的写しのようなものだということになる。したがって、人間の理性に生得的な観念と、世界を貫く理性法則とは、神を媒介にして対応し合っている。人間が生得観念をうまく使いさえすれば、世界を底の底で成り立たせている理性法則を正しく認識することができるはずである――と、だいたいこんなふうに考えられているわけです。デカルトは、キリスト教のこの世界創造論を、神から話をはじめるのではなく、人間にとって身近な人間理性の直感的な自己確認から話しはじめ、いわば話の順序を変えて展開してみせたのです。 ---- 人間の理性を「摂理の不完全な部分的写し」というふうに理解すると、つまりこれを一種の「像」というメタファーを使って理解すると、「実体」の「写し」もまた「(やや不完全な)実体」である、というのも納得できる、というか、そういう考え方をしていたのだろうな、という気がします。 むしろデカルトのやろうとしたのは、当時の人が自明のものとしていた「神の理性の出張所か派出所のような」「人間の理性」の証明ではなく、「精神」と「身体」の区別、「身体」から独立した「精神」の独自性ということだった。 ----(p.123)--- デカルトの主張したいのは、次のことだけなのです。つまり、そうだからこそ、肉体的感覚器官に与えられる感覚的諸性質は「物体」の、つまり「自然」の実在的構成要素ではなく、単に私たち人間にとって偶有的なものである身体への現われにすぎないのであり、「物体」つまり「自然」を真に構成しているのは、私たちの「精神」が洞察する「量的諸関係」だけなのだ、と。 ----- 木田さんの説明は、なんだか迷路を出口の方から入っていくような感じもしないではないのですが、ここらへんのことがきちんと説明されている本はあまりないので、ぜひご一読を。 ついでにラッセルの帰納法もそのうち。

noname#74804
質問者

お礼

ghostbusterさん、毎度ありがとうございます。 >だけど、そこはそれ「エピステーメー」がちがうから(笑:いいなあ、この説明)。 少なくとも中世の神、キリスト教ないしユダヤ教の知識がないと分かりがたいですね。 >単に私たち人間にとって偶有的なものである身体への現われにすぎないのであり、「物体」つまり「自然」を真に構成しているのは、私たちの「精神」が洞察する「量的諸関係」だけなのだ、と。 ----- 物体の本質が延長であると言ってることからこれは納得です。 身体も普遍的実体(物体的実体)の部分なんでしょうね。 実体を有限実体と無限実体に分けているようなんですが、と言ってしまったのですが、そうすると二元論的な感じになるのですがどうなんでしょうかね。 質問をするというのもある種ジレンマがありまして。 回答真贋確認作業に苦しめられることも(笑。 その点、ghostbusterさんのご回答は渇いた砂漠のオアシスといえますね(本当)。

関連するQ&A

  • デカルトが形而上学の革新者と呼ばれるのはなぜなのでしょうか?

    デカルトが形而上学の革新者と呼ばれるのはなぜなのでしょうか?

  • デカルト

    「デカルトの二元論」がどういうものであるかを知るために、参考になる文献などがありましたら、ぜひ教えていただきたいのですが。 よろしくお願いします。

  • 原爆はデカルトがつくった?

    原爆はデカルトがつくった、という言葉を聴きました。 デカルトの説いた合理主義、心身二元論といった言葉がキーワードになっているようです。 もちろん、原爆の理由をデカルト一人に帰すつもりはありませんが、 近代科学や近代資本主義に対して、デカルトがどういう役割を果たしたのか、教えていただけないでしょうか。

  • デカルト以降の哲学者で・・・

    デカルト以降の哲学者で心身問題について考えた人を教えてください。 出来ればその人がデカルト肯定派(二元論)か否定派(一元論)かも教えていただけるとありがたいです。 出来るだけたくさん教えて下さい!よろしくおねがいします。本が出版されている方だと尚良いです!

  • デカルトの♪「か~ら~す、なぜ鳴くの?カラスの勝手でしょ~~」

     デカルトの機会論的自然観の所で、「自然とは目的論的説明や神の意志による説明をとらない」ってあります。  ここで、「目的論的説明」 についてなんですが、たとえば、 「鈴虫がなぜ鳴くかは、つまり、交尾する相手を探すためである」とか、 「歯は、物を噛み砕くためにある」とか、 「オゾン層は、有害な紫外線を防ぐためにある」とか、 「虹は僕らを祝福するために出てる」とか、 「なんのために犬は寝る前に同じところを、ぐるぐるぐる回るんだろ~?」など、 例をいっぱい挙げましたが、これらのことも 「目的論的説明」 にあたり、デカルトは、こういう考え方をしてはならない、と言ったと解釈していいんでしょうか?  じゃぁ、くだらないんですけど、例えば、 ♪A.か~ら~す、なぜ鳴くの? Q.カラスは山にかわいい七つの子があるからよ かわいいかわいいと鳴くんだよ~ っていうのは、ダメで、 Q.カラスノ勝手でしょ~    ってするのがデカルト的に正しいということですか? 教えてください、richanでした。

  • デカルトの矛盾

    デカルトは実践面においては物心合一論を説いていますね。エリザベート王女への手紙のやり取りなどにおいてもも明らかにしています。 この矛盾はどう考えればよろしいのでしょうか?

  • デカルトの心身二元論に対する反論

    デカルトの心身二元論に反論する説はありますか?デカルト以降の時代で、心身一元論を説いた人がいたら教えていただきたいのです。

  • デカルト<コギト>の意義

    はじめまして。 自分は哲学とは無縁の素人ですが、趣味(というか好きなので)哲学関係の著作はよく読みます。けれどもやはりわからないことが多く、質問させていただきたいことがあります。 デカルトのコギト、つまり方法的懐疑によって取り出された「我思う、ゆえに我あり」という<コギト>が哲学史的にどのように乗り越えられたか、またはどのような意義を持つものだったのか、という点がよくわかりません。 また、それと関連してデカルトは心身二元論の元祖として捉えられていると聞きますが、それはどうしてなのでしょうか? <コギト>の思想と心身二元論がすぐに結びつくものなのでしょうか? なんとなくわからないではないのですが、どうもすっきりしません。 どなたか回答いただければ大変嬉しいです。

  • デカルトの物体の存在証明について

    デカルトは「我思う、ゆえに我あり」として、精神が実体として存在すると主張しました。 また、物体とはことなり、延長という属性を持たないという点で、精神は別種の実体であるとも言っています。 一方で、彼は物体から感覚が与えられることから、与える当のものである物体が存在しなければならないとして、物体の存在をも認めています(感覚が間違えることはあるので、本質をつかむことは出来ないとも言っていますが)。 しかし感覚器官自体の存在が疑いえる(精神は別次元の実体であるから、その存在から物体の存在を証明することは出来ないように思えます)ので、その感覚自体も疑いえるわけで、従ってその感覚を与える物体も存在するかどうか定かでない、と思うのですが。。 もちろんデカルト大先生がこのような矛盾を見過ごしているわけないので、ただの誤読だと思うのですが、よろしければ説明していただけると助かります。

  • パスカルのデカルト批判について質問です。

    パスカルのデカルト批判について質問です。 センター試験のために倫理を勉強しているものですが、パスカルについて、参考書に以下のような解説がありました。 このように、無限と虚無の双方に広がる宇宙の中で、人間は最も弱い悲惨な存在ですが、同時に思考の力により宇宙全体をも包み込むことが出来る偉大な存在でもあります。 (中略) パスカルは「私はデカルトを許せない」などと激しくデカルトを批判します。 パスカルは、無限の宇宙に対して人間の理性が無力なことを認識しています。 このため、人間の理性の力だけで絶対確実な第一原理に到達できるとするデカルトの考えを徹底的に攻撃したのです。 「宇宙全体をも包み込むことが出来る偉大な存在でもあります」 という記述と、 「パスカルは、無限の宇宙に対して人間の理性が無力なことを認識しています」 という記述が矛盾するような気がします。 どういうことなのでしょうか?