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人を信じること
19歳女です。 人が信用できません。 友達はいますし、腹を割った話もしたりするのですが 「ほんとは嫌いだったらどうしよう…」 などと考えてしまい、すごい不安と自己嫌悪に陥ります。 自分が苛々しているときは、大事な友達までも疎ましく感じてしまうときがあります。だから、どうしてこんな私と一緒にいてくれるんだろう、話を、愚痴を、聞いてくれるんだろう、本当は嫌がられているんじゃないかと思い、また自己嫌悪しています。 過去に2回、裏切り(?)がありました。 ひとつは、中学時代に親友と仲たがいした時に、私と親友の間に入った女の子が、「私はあんたの親友やから、これからも仲良くするよ」ということを言ってくれて、とても勇気づけられたのですが、後日「本当は嫌いやってん」と面と向かって言われたことです。 もう一つは、初めてできた彼氏が、私の部活の先輩と浮気をしていたことです。そのとき私は高校1年でした。 ふたりのことは、信じきって安心していました。 中学のときの話は、全面的に私が悪かったのですが、この二つの出来事以来、どうしても人を信じることが怖くなっています。 大学生になって、友達と接していても、愚痴を言ったら嫌われる、これをしたから不快にさせたかもしれない、などと思って元気がなくなり、相手が怖くなり、距離を置こうとして突き放して結果また相手を不快にさせてしまう…という悪循環に陥っています。 人を信じるには、どうしたらいいのでしょうか。 或いは、私はこんなことを言って友達に甘え、我が儘を押し付けているだけなのでしょうか。 いちばん駄目なのは私でしょうか。
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>過去に2回、裏切り(?)がありました。 ということはそれ以外の多くの人には裏切られてないってことですよね。 人間にはさまざまな人がいます。 特に中高の頃はまだ自分の価値観が固まってなく、親友だとそのときは思ってもすぐにそうではないと変わってしまうことも多々あります。 たった2人だけを見て他の多くの人は裏切ってないのにそんなことを心配するのはダメですよ。 >友達と接していても、愚痴を言ったら嫌われる、これをしたから不快にさせたかもしれない、などと思って元気がなくなり、相手が怖くなり、距離を置こうとして突き放して結果また相手を不快にさせてしまう…という悪循環に陥っています。 人に嫌われないようにしようとする行動の多くは結果人に嫌われてしまうことが多いです。 人に嫌われないようにしようと考えるのでなく、自分を気に入ってくれる人が一人でも多くなるようにしようと考えた方がいいですよ。 去る者は追わず。で自分を嫌いになるのならそれは仕方ない。 それよりも愚痴を言いあえるような腹を割った間柄でいられる人を増やした方がいいじゃないですか。 >だから、どうしてこんな私と一緒にいてくれるんだろう、話を、愚痴を、聞いてくれるんだろう、本当は嫌がられているんじゃないかと思い、また自己嫌悪しています。 単純なはなしで友達だから。 19歳の人間に嫌いでも仕方なく付き合わなきゃいけないようななにかしらメリットなどありますか。 社会に出れば仕事の関係などで嫌いでも付き合わないといけない人はでてきます。 しかし学生時代の友達など、嫌いだったらすぐ離れて行きますよ。 離れていかないということはchicca17さんのことを気に入っているからですよ。 今までどれだけ多くの人間と接してきたかわかりませんが、たった2つの事例だけで全部そうだと考えるのは羹に懲りて膾を吹くようなものです。 特に一つは自分が悪いとしたらもう一つは恋愛話。 恋愛話、特に浮気話は人間関係と別の話しと考えた方が言いものです。 こういう気をつけ方は、太らないようにしたいからって一切食事を取らないで餓死してしまうような間違った気をつけ方ですよ。
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信じた→裏切られた という失敗体験があると、信じるのが怖くなります。逆に 信じた→信じてもらえた という成功体験があると、信じることの価値・大切さがわかります。 信じることの価値や大切さを掴みたいのならば、 信じることを積み重ねて成功体験を掴むのがいちばんだと思います。 ただ、いつ・どこで成功体験を得ることができるかはわかりませんから、裏切られるリスクは伴います。 でも、裏切られて傷ついてもそこでくよくよしないで、 そんなときもあるさって(実際あると思うし) 気持ちを明るく切り替えて、 また信じていく、という作業は自分を強くしてくれます。 その作業を重ねていくことで、 いつか同じように自分を信じてくれるような 人や人の心に出会っていくことはまた、 とても嬉しい体験だし、大きな学びにもなるでしょう。 質問者様がこういう内容で悩むということは、 きっと、繊細なタイプなんだと思います。 こういう内容も、全然気にせず生きていくひともたくさんいますよ。 それをふまえて、あなたがどうしていきたいか、が大切ですよ。 人を信じて生きていく人生にしたいのか、 そこそこ割り切って、信じる範囲を小さくして生きていくか。 その判断は人それぞれです。 割り切った方が楽ですし。 ただ、信じたいという気持ちを持って人に接していれば、 同じような気持ちを共有できるときや、 同じような気持ちを持った人に出会えるときがあると思います。 いつもじゃないですよ。 でも、そういうときもあります。 もし、質問者様が、 どの程度であろうと人を信じて生きていきたいのでしたら、 リスクはあることを前提にして ちょっとずつでもいいから、 信じていってみたらいいのではないでしょうか。 若いのですから、悩みや苦労はたくさんあると思います。 みなさんの回答を参考に、 よく考えていったらいいと思いますよ。
- schenkerr
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人を信じなきゃいけない法律はありません。 私も人を信用してません。 ただし、これは「期待をしない」ということです。 人は失敗したり、魔が差したり、矛盾する動物です。 つい「やっちまう」もんです。 「失敗しても、裏切ってもいいよ」という心が「信じること」かもしれません。 あなたは人を信じることよりも、相手が裏切らないくらい「信用される人」になることを課題にした方がいいと思います。 ひっかっているのは、そこではないでしょうか?
- tiltilmitil
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質問者様が言うところの「人を信じる」とは? 他人が自分にとって不快なことを決してせずに自分の思い通りに行動してくれると期待すること?
35歳会社員です。 質問文読みました。2つの出来事、お気の毒でした。 心中お察し致します。 しかし、逆にいえば、たった2つの出来事です。 たった2つのサンプルで、あなた自身を歪めてしまう必要は、ないのではないでしょうか? それよりも、 >大学生になって、友達と接していても、愚痴を言ったら嫌われる、これをしたから不快にさせたかもしれない、などと思って~ こんな事を思われながら、お付き合いされている大学の友達、 きっと、たまったもんじゃないと思いますよ。 この人に、とっても失礼です。 過去の事は、本当に気の毒と思いますが、 大事なのは今です。 この人に、信頼されるような態度を取って下さい。 おそらく信頼されるようになれば、こちらが信頼しても大丈夫と思います。 相手があなたを信頼しているかどうか解らないうちに、 あなたが相手を信頼するから、 裏切られたりした時に、必要以上に苦しいのだと思います。 順番が逆です。 ・・・それでも、結局「信頼されている」と言う事をはっきりさせるためには、 こちらも「信頼している」そぶりは見せる必要はあるでしょうね。 最初は「相手を信頼しているふり」、 相手の自分に対しての「信頼」を確信したら、本当にその相手を信頼する。 そういう風にして、防御線を張りながらやっていかないと、 また、裏切られたとき、必要以上に深く傷つきますよ。 でも、今のままではダメでしょ。 そういう訳で、この回答です。おわり。
- hardtechno
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信じなくていいですよ。 絶対に相手を知る事は出来ませんから。 だけど、自分だけは信じて下さい。 自分にだけは正直な気持ちでいてください。 例えば、物の貸し借り。 私は例え返ってこなくてもいいものしか人には貸しません。 大事なものは自分の懐にずっと置いておくものです。 気持ちでも同じです。たとえ裏切られてもこの程度だったら いいだろう、という線を自分で決めるとよいでしょう。 そっちの方が裏切られた時のショックは少なくて済みます。
- ubatama76
- ベストアンサー率14% (35/246)
私も人間不信気味なんですが 結局人間は1人だという考えに至り、個人同士の人間が 全てを分かり合えることなんて無く相手を受け入れるしかない と思ってます。 毒を喰らわば皿までというか、相手を信頼するなら 裏切られるのも覚悟の上くらいに考えてみては いかがでしょう。 ギブ&テイクにこだわりすぎると友人関係はギクシャク してしまうと思います。
- 896966
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私も人を信じられなくなった経験があります。 しかし、今は、年齢も重ねいろいろな経験もし、たくさんの人と接する機会にも恵まれたこともあり、朧げながら答えのようなものが見えてきたように思います。 私は、人を信じるということに、過度な期待を持っていました。しかも身勝手な一人よがりの… 自分は相手を信じて裏切らないと忠節を誓ったのだから、相手もそうだ、そうでなければならないと勝手に思い込んでいたんだと思います。たから、付き合っていく内に相手が誓い(実際には自分勝手な思い込み)を破るような行動をとると、「裏切られた」と思ってしまっていたのだと思います。 「人を信じる」ということは、自分が相手を信じることで、相手からの見返りを期待したり、交換条件ではなく、あくまで一人称の行為であり、そこへ相手の心まで引っ張り込んで無理矢理二人称にしようとするから、人間不信に陥ったり、自己嫌悪に苛まれるのだと気付きました。 私に見えてきた答えは、「人を信じる」ことは、無条件かつ一人称であると言うことです。 私事でお役に立てるかどうか分かりませんでしたが、寄稿させてもらいましたこと、ご容赦下さい。
- himawari00
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こんにちは。 自分が信用していた人に裏切られるのは辛い事だと思います。 今までのパターンの様に自分が好ましいと感じる人物を全面的に信じるようなやり方だと同じことは起こるでしょう。 何故ならば、それは相手が悪かった場合もありますし、質問者様の相手を見る目が曇っている場合もあるからです。 「生涯、どんなことがあっても親友。」もしくは「生涯、何があっても心が変わらない恋人。」と言うのは関係が一番うまく行っている時の思い込みでしかないからです。 初対面では遠慮もあり礼儀正しい人間でも馴れ合えば違う面を見せるのは避けられません。それはお互い様です。 馴れ合えばズケズケした言い方をしてしまう人もいるし、他の女性に目が行く男性もいる訳です。 その時にお互いが心地いい距離をバランス良く取って行くことが「信じる」という哲学的な考えよりも実用的であると考えます。 具体的には質問者様の感覚で我慢できないことをされたら離れるのが最善でしょう。 「違う面を見せられた。そんな人だと思わなかった。ショック!」と言うのは質問者様の感覚であって、真実の彼らに対する評価ではないと思います。 本性見せられた、と言うよりもそういう面もある人達だったと言うことでしょう。 一面しか見ずに「この人は自分にとってこう言う人。」と決め付けていると「そんな人じゃないと思ったのに。裏切られた。」と言う結果を引き寄せるでしょう。 人間関係は法則なんて役に立たないことが多いです。 だから事前にあれこれ考えても疲れてしまうだけですよ。 信じることが大切なのではないと思います。 「信じる」と言うのは尊い言葉ですが生身の人間にはちょっと綺麗過ぎるかな?と考えます。 色々な嫌なことが起きた時、その事から相手のありのままの姿を正しく知る事が良い思います。 もちろん自分にとって都合の良い面ばかりではすみませんが、それが自然なことでありそれもお互い様なのだと思います。 自分ばかり責めずに冷静に考え、知恵にして見ると、もう少し楽になれると思いますよ。長文失礼しました。
- qqq9993
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そう言えば僕も二十歳の頃に一度人間不信ってほどじゃないけど やっぱり少し人を信じれなくなった時期があったなー。 いいじゃないですか 裏切られたり自分が思ってるようには思ってくれてなかったりしても。 人がどう思ってるかなんてのは最終的にはやっぱりわかりませんもん だって自分の考えだって思いの他分からない時だってあるのに すごく楽しくて楽しくてもふと飽きたり冷めたりすることもあったりして だから自分が大事な友達の事や彼氏の事を好きでいればいいんじゃないでしょうか? 傷つくこともあるでしょうが、自分が周りの人を愛するような人だったらもし裏切られたとしても少なくとも何人かは残ってくれるんじゃないですかね? もし運悪く残ってくれた人がいなくても、自分なりに周りの人を大好きであったなら少なくとも自分で自分のことは嫌いにならないかなと僕の場合は思っています。 僕ももし嫌われたらとか考えることもありますが、大事な友達や彼女のことなら、もうそうやって考えるようにしてます。 そうなったら悲しいけどそうなったまでのことで、自分がしっかりしてればいいや
- Reiher
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この、人を信じるのはいい事だみたいな莫迦な風習はいつごろ出てきたんだろうね。 信じられる人がいるって事は本来すごい事なんだよ。貴重なの。そんなバーゲンセールは出来ないの。 信頼、信用、そういったモノは築き上げるものなの。ドイツの諺に「三十年来の友は三十年掛けないと出来ない」ってあるけど、その通りだと思うよ。 思うに、あなたは人をきちんと見ていない。自分の頭の中だけで人と付き合ってる。 こんな失礼な話はないよ。 まずは相手をきちんと見る事。信じる云々は後から自然に付いてくるもの。信じられる人より尊敬できる人を探しなさいな。 駄目かどうか? その程度の間違いをしなけりゃ人間は成長しないよ。
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