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はい上がるための動機

noname#80116の回答

noname#80116
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回答No.33

 こんばんは kayorinooさん。  ★ (No.33) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆以下の文章は、ほらなのですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ kayorinooさんは どうお考えになりますか? その意味を込めて そのままを掲載することにしたものです。  まづ 自己表現は すべて 意図する・しないにかかわらず みづからの心の真実が やはり 現われるものと思います。長い目で見れば そういうものだと思います。  ですが 人間の言葉による表現というものは その真実や あるいは 事実そのものを 表わすというわけではないとも思います。必ずしも つねに そういうわけに行くとは限りません。悪義はなくても いわゆる虚構を交えることになる場合が 多いのではないでしょうか。意図せずにもです。でも 真実を まったく曲げたかたちが 伝わるのだとも思えません。  ☆☆ ――というほらを吹きたくなりますね。   ☆ と書いたのは その上に述べた話が 或る種の虚構(あるいはむしろ願望)や また 憶測でものを言っているところを 含むという内省を得たものですから 或る種の照れ隠しとして また 実際にその憶測である旨のおことわりとして 添えたものです。  人によっては ただの夢物語だと受け取るでしょうから その可能性への牽制のようなものにもなっています。  あくまで 文章の全体として とらえてください。そして なおそれでも 冗談を交えているとも言えます。つまり そんなかんたんに 世の中が いいほうへ いいほうへと うまい具合いに 行くとは限りませんから。ですから いくらか自嘲気味でもあります。その意味では 読んでいただいたあとは 一緒に ほほえんでもらえば いいわけなんです。  わたしは 自由児だと言いますか 大胆と言いますか あるいは 野生児だと申しましょうか 人があきれかえるほど あっけらかんとしていると言うのでしょうか あるいはまた 能天気でもあります。長く言葉を交わしていると そういう側面が 出てくると思います。  決して ふざけたものではありませんが どう映りますか? 言葉足らずだったでしょうか? 実際に そこに述べた内容と方向で わたしは 歩んでいます。ので あしからず ご了承いただきますようお願いいたします。  また どんどん 文章を書いてください。

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