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古代西洋の奴隷の実態は?

中村 元著「インド史」 彼らが後世にシュードラと呼ばれるものである(彼らのことを西洋の学者はslaveと呼んでいる。しかし古代西洋の奴隷のような残酷な扱いは受けていなかったから、いちおうそれと区別して隷民と訳すことにした)。 これは著者がシュードラを奴隷と訳さず隷民と訳した理由を述べたものです。 「古代西洋の奴隷の受けた残酷な扱い」を具体的に幾つか知りたいです。ここで解説して下さっても、資料のご紹介でも結構です。他の用件から派生した副次的な質問ですから簡便な方がありがたいです。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • takuranke
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回答No.1
sono-higurashi
質問者

お礼

ご紹介のページは拝読しました。なるほど、決闘のための奴隷は古代西洋以外では聞きません。古代西洋特有の現象だったようですね。 それにしても、「古代ローマの奴隷制は、奴隷の数が市民より数十倍も多いという驚くべき規模に達していた。」とは不思議です。どうやって管理していたのでしょうか。一箇所に閉じ込めておくだけならば可能でしょうが、意図通りに秩序を保って労務に従事させることが可能だったのでしょうか。新たな謎です。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

その他の回答 (2)

  • booter
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回答No.3

塩野七生著「ローマ人の物語」が詳しいです。まずはここをご参考に。 http://www.unexpectedprices.com/main-311.html ここからはうろ覚えで書くのですが、塩野女史の同著の中で紹介されている文での奴隷の定義は「個人がその意思で自由に行動できる」という事、と記載されていたかと思います。 また、奴隷と言ってもぴんきりであり、家庭教師なども奴隷職業の一つであったが、教え子(雇い主の子供)の頬をビンタする事も時には許されたそうな。医師も奴隷職業の一つであったようです。 また、農園奴隷の例としても一般的な家庭で家族同然に使用されている小作的な奴隷と、大農園などで人間的な扱いを受けなかった奴隷の二種でまた分かれるようです(そして叛乱を起こすのは大農園の奴隷)。 ただ、塩野氏の著書が歴史書ではなく、歴史小説となっている辺り、真偽はまた別途探る必要があるでしょう。 それでは底辺の奴隷はどうなっていたか、という記述ですが、これはローマではなく、時を遡ったギリシャの話しですが、マンガ「ヒストリエ」(岩明均)の中で、 ・スキタイ人奴隷の足枷の鎖が肩幅くらいの稼動範囲しかないのを、鎖の幅が広くなって待遇が改善された描写がある(が、それでも家主から酷い罵倒を受ける環境は変わらず)。 ・中年の使用人奴隷が「やっと自分の部屋を手に入れられたんだ! 」と自分の部屋の貴重性を主張するセリフがある。 ・裕福な家庭の身分であった主人公が奴隷として売られてしまう(一時とは言えど、待遇は悪くなかった)。 分かりやすさ、吸収のしやすさで言えば、「ヒストリエ」(岩明均)を推しますが、奴隷についての正確な記述については、他の書物と比較して、多角的に照らし合わせた方が良いでしょう。 すみません、結果的に、正確な記述は他の本を見る的な回答になってしまいましたが、イメージとして掴むには上記二書が良いと思います。 また、再度マンガになってしまいますが、グラディエーターの格闘時以外の生活については「拳闘暗黒伝セスタス」が良いですね。 どのように奴隷が管理されていたのかも描写されています。 Wikipediaでの評価も「習俗や歴史的人物、事件などはかなり正確に描かれており、歴史的背景に関してはかなり忠実に表現されているが、フィクションの部分も存在するので注意が必要である。」と概ね好評のようです。

sono-higurashi
質問者

お礼

塩野七生著「ローマ人の物語」、マンガ「ヒストリエ」(岩明均)、「拳闘暗黒伝セスタス」は視野におきます。視覚に訴えるのは有効かも知れませんね。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • Mumin-mama
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回答No.2

>どうやって管理していたのでしょうか。一箇所に閉じ込めておくだけならば可能でしょうが、意図通りに秩序を保って労務に従事させることが可能だったのでしょうか。新たな謎です。 古代ローマの奴隷は人口の1/4~1/3で、農村で一度に1万人の奴隷を抱えていた所もあったようです。 古代ローマの奴隷と一言に言っても色々な仕事がありました。 奴隷は人権は無く物扱いでしたが、都市に住む奴隷には主人から一般市民と同じ服が与えられ、その家で家政婦、清掃係、メイド、子守等の仕事が命ぜられ、頭の良いものは子供の家庭教師やお抱えの医者にさせられました。彼らは町にも自由に出かけられ、小遣いも貯めることが出来、主人が20歳以上で奴隷本人が30歳を超えていれば解放も許されました。 また、サンダル作り、籠や陶芸などの手工業者等やダンサーなどの芸能に携わる者もいました。勿論主人はローマ人です。 それとは全く逆で農村部、鉱山〈エトナ山の硫黄鉱山等)、グラディエーター(拳闘士)はほぼ裸同然で一般市民との区別は明らかでした。そして、首に鉄のかせをはめられ鎖をつけられることもありました。また、仕事が終わると牢屋のようなところに閉じ込められました。 グラディエーターは何度かの戦いに生き残れば解放されることもありましたが、それまで檻の中での生活でした。 どうやって奴隷にされたかというと、 ・戦争で負けた国から拉致してきた。 ・借金を返済するために奴隷として働く。 ・罪人 ・両親が奴隷の子供、片親がローマ人と分っていても奴隷として見なされた。 下は絵を参考にしてください。 カーク・ダグラス=スパルタコス(グラディエーターで反乱後、十字架に掛けられます) http://www.lsg.musin.de/geschichte/geschichte/isb/Museum/sklavere.htm http://de.wikipedia.org/wiki/Bild:Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_004.jpg

sono-higurashi
質問者

お礼

どこからどこまでを奴隷と呼ぶのか、この線引きに違いがありそうですね。 人口の1/4~1/3でも多すぎで、ある程度奴隷本人が借金の清算などで納得していないと管理できなそうに思います。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

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