まず、前提として、一人称を用いると、作品全体が「要約」に傾く傾向があります。
たとえばシャーウッド・アンダーソンのいくつかの短篇「卵」「女になった男」「森の中の死」などではほとんどかぎかっこでくくられた会話というものがありません。こういう中では、一人称の話者が、他人の声を吸収し、要約して話をしています。
現実にわたしたちが誰かの話を伝えるとき
「Aさんったら、自分が行くと言っといて、実際にあとで奥さんに聞いてみたらゴルフに行っちゃったんだってさ、ひどいよね」
という言い方をしても、わざわざ
「Aさんはね、『よし、自分が行く』と言ったの。でも、あとで奥さんに聞いてみたら『うちの主人はゴルフに行きましたよ』ですって。ひどいよね」とあまり言わない。これと同じです。
ですから、一人称の語り手=主人公である場合、持続的会話相手をあまり必要としない、と考えることができます。それでも出てくるときは、作者が意図して仕掛けをしている場合です(このケースに関してはのちほど)。
それに対して、シャーロック・ホームズにおけるワトソンのような、『グレート・ギャツビー』におけるニック・キャラウェイとジェイ・ギャツビーのような、主人公≠語り手のケースでは、作中の語り手の目的は、主人公を読者に紹介することにあるのですから、主人公との会話は大きなウェイトを置かれます。
ただし、このときの語り手の役割というのは、小説中の人物を、全能ではない語り手の偏ったレンズを通して眺めさせることによって、まるでその世界が現実であるかのような体験をさせることにあるわけです。徐々にあきらかになっていく手がかりとともに、この語り手は読者とともに発見を続けていくわけです。
こういう小説であれば、この主人公がいったいどのような人間であろうが、造型可能であるように思えます。たとえば、コンラッドの『ロード・ジム』におけるロード・ジム。これは第五章から最後までを受け持つ、語り手であるマーロウ自身が、信頼できない語り手であるために、最後までロード・ジムの人物像は、確定を逃れます。けれども物語はその「行動の卑怯さ」をめぐって進展していく。
あるいはフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』のジェイ・ギャツビー。
考えてみて、一番悪人っぽいのはドストエフスキーの『悪霊』の主人公スタヴローギンでした。
ただ、この場合、主人公の造型論とも重なってくるのですが、「作者が批判する人物像」を主人公に据えることができるのだろうか、という疑問が生まれてきます。
たとえそれが社会通念から逸脱する人物であっても(たとえば『ロリータ』のハンバート・ハンバートのように)、むしろその精神においては「好きにならずにはいられない」点があるのではないか。そうして、語り手の発見は、そのプロセスではないか、と考えられるのです。
これに関しては長くなるので詳しくは述べませんが、わたしたちは読書をするときも、現実の倫理的判断を作中人物に当てはめて読んでいくわけです(ここらへんはイーザーの『虚構と想像力』が頭にあります)。作者の側はそれを前提としつつ、造型を行っていく。
ときに、わたしたちの倫理基準が、イデオロギー、特定の時代・特定の社会状況に当てはまるものでしかないことを浮かび上がらせるために、不快な主人公を造型することもありますが、むしろ、問題があるのは、不快なはずの彼よりも、そう見てしまうわたしたちにあるのではないか(たとえばカミュの『異邦人』のように)。あるいはスタヴローギンのように、彼のありようそのものに、当時のロシアにおける知識人(の一部)を象徴させているともいえる。その主人公を通して、わたしたちは当時の情勢や人びとの思想、宗教の問題と向き合っていくわけです。
そういうふうに考えていくと、
> 作者が批判する人物像を一人称の語り手の持続的対話相手にするのは論理的に不可能?
という問いに対しては、
論理的には不可能ではないが、実際にはあり得ない、ということになると思います。
さて、つぎに主人公=語り手である場合を考えてみましょう。
これは可能です。
ピカレスクロマンを考えてみればよいのです。
ピカレスクロマンというのは、「十六世紀スペインに起源をもち、主人公は愉快な浮浪者あるいは無頼漢で、自分の生活と冒険をかなり自由に挿話的な形で語っていく小説」(バーバラ・A・バブコック『さかさまの世界―芸術と社会における象徴的逆転』岩波書店)ですが、かならず「一人称」という形式を取ります。
ピカレスクロマンは諷刺小説の一種ですから、社会規範や制度は、作品においてきわめて重要な役割を果たします(つまり、ピカレスクロマンの作者は、現実の社会規範や制度に対して、きわめて意識的であるということになります。たとえば『時計仕掛けのオレンジ』のアントニー・バージェスのように)。そうして主人公はそこからの逸脱者であるわけです。この意味で、主人公は作者の意図する理想像から最も隔たったところから出発します。
というのも、「正しい」主人公が正しい行動をするような作品は、実際には「道徳の教科書」となってしまうからです。
逸脱者は底辺から出発します。そうして、作品の最後で、新しい向上した地位を得て、社会秩序に合流するのではなく、「半-アウトサイダー」として「真に周辺的な立場をえらぶ」ことになるのです。
その彼にパートナー(ドン・キホーテにおけるサンチョ・パンサのような)がいれば、それは「持続的対話相手」ということになります。ピカレスクロマンにおいては、持続的対話相手もかならず「作者が批判する人物像」ということになります。
実例ということでバブコックもあげているのは、映画の《アウトサイダー》でのジャック・ニコルソンとピーター・フォンダなんですが(もともとピカレスクロマンはスペインが発祥の地なので、その作品の多くはスペインのものなのです)、これを作品にしたものでわたしが思いだしたのは、オーストラリアの作家 Peter Carey の“War Crime”なんですが(オタクっぽい外見を持つ会計士で頭の切れる主人公と、ヘヴィメタの耽美派っぽい格好の相棒が企業を相手に「戦争」を仕掛ける話)、ちょっとこれはマイナーすぎるかもしれません。
そこまでペアというわけではないのですが、チャールズ・ジョンソンの『中間航路』なんかどうでしょうか。
主人公のラザフォード・カルフーンは、ピカロの要素をきちんと備えた人物です。
そうして主人公が乗り込むことになる奴隷船の船長エベニザー・ファルコンがその相手になるかと思います。
ほかには、このピカレスクロマンはいわゆる「純文学」ではなく、エンタテインメント系に受け継がれていっていますから、その分野を探すと結構あるような気がします。
以上長くなりましたが、何らかの参考になれば。
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