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歴史とは何か?

ところで、鎌倉大仏というよく認知された物体があります。 これは、いつどうやってどういう意図で作られたたかよくわかっていませんし、いつ大仏殿が消失し露座になったのかもわかりません。 これがたとえば、最近のことになりますと、いついまの東京都庁舎が建ったかとか、どういう意図でとか製作者とかわかっております。 この2つの由来がわかるわからないの状況が違うのはどうしてなのか? 考えてみますと、たとえば大仏鋳造に当たった作業者などが生存中にその由来を聞けば、たちどころにわかるはずです。ところが、それがこの世になく、政策記録もないから、馬鹿でかい物が立っていながらその由来がわからない。 つまり、当時は「歴史」という概念がなかったわけでしょうか?歴史学がないから、研究者もなく記録もない。それがどういうわけか、近代社会になって起こってきたわけですね。 この時代により「歴史学」が存在する市内ということは何を表しているのでしょうか?

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  • nene-k
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回答No.2

古事記の序文には・・・ 『旧辞が誤り違っているのを惜しみ、先紀(帝紀)が誤り乱れているのを正そうとして、和銅四年(711年)九月十八日、臣下の安万侶に、稗田阿礼が勅命によって誦え習った旧辞を撰録して献上せよと仰になりました・・・』 とあります。 「今の歴史には、ウソと本当が入り乱れているので、正しくまとめて献上せよ」という事です。 つまり、ここで、すでに歴史を後世に伝えるという観念があった事があわかります。 古事記の序文は、あとから付け足された偽書の疑いもありますが、たとえ偽書ふだったとしても、平安時代にはすでに存在していましたので、少なくとも、その頃には、「歴史を後世に残す」という試みがあったという事でしょう。 問題は記録を、いかにして後世まで残せるか?という事だと思います。 質問者さんが例にあげておられる東京都庁舎で説明しますと・・・ その、今わかっている >いついまの東京都庁舎が建ったかとか、どういう意図でとか製作者・・・ これに、庁舎の設計図面もプラスして、文書で残し保管するとしましょう。 その記録は、はたして千年後、そのままの状態で残っているでしょうか? 紙はボロボロになり、インクは薄まり、おそらく、ところどころ読めなくなってます。 次に、現在の最先端であるハードディスクやDVDなどの記録メディアで保存したとして、ハードディスクに保存した物は、千年後のパソコンで見る事ができるでしょうか? DVDは、それを再生するハードは存在するでしょうか? それを動かす電源自体が、まったく別の物になってる可能性もあります。 そして、一番の問題は、千年後に東京都が今のままの東京都として存在するかどうかです。 鎌倉の大仏建立に多大の寄付をしたのは、源頼朝ですが、現在、その鎌倉幕府が存在しないように、今の政府が存在しなくなり、その後何度も国が代われば、当然その記録はどこにいったかわからなくなるのではないでしょうか? つまり、歴史という概念がなく記録しなかったのではなく、時の流れで記録が失われる、あるいは後世の人がそれを読めなくなるという事のほうが可能性が高いように思いますが・・・ 埋もれてしまった記録を探し出し、それを読みとるのが歴史という物だと思います。 こんな話を聞いた事があります。 「現在、地上には様々な記録が溢れているけれど、一万年後に残っている文明の痕跡は、石に刻まれた古代の碑文だけだ」と・・・ もはや、太平洋戦争の事でさえ、はっきりとした事がわからない部分があるのですから、細かな事まで後世に伝えていくのは、なかなか困難な事だと思います。 大仏が残っているだけでも、たいしたものだと思いますよ。

garcon2000
質問者

お礼

見事なご回答、ありがとうございます。 歴史は残そうとしても、社会の変容その他、時間の経過につれてさまざまなものが劣化するため、そのままでは残りえないという、宇宙法則に従うしかないですね。東京と庁舎の例でさえ、おっしゃるとおり後世に正しく伝わることはないでしょう。そういう意味では、別に現代が後世の歴史学にとって有利なわけでもないのかもしれません。

その他の回答 (3)

  • tyr134
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回答No.4

「歴史学」というのは、カトリック・プロテスタント圏のヨーロッパで発展してきた概念です。 「歴史学」と「歴史」は似て非なるモノです。 また、おなじく「歴史」と「過去」も似て非なるモノです。 「過去」とは、既に過ぎ去った時間であり、それは「現在」に残るモノもありますが、多くは失われていきます。 一方、「歴史」とは「過去」の中から「現在」に残ったモノを汲み取り、「現在」と関連づけていくモノです。 そして、「歴史学」とは、そこに「科学的意識」が加わったモノです。 以下は、私がよくする「(西洋版)歴史学の歴史」を簡単にまとめたモノです。 まず、一番最初に「歴史」を書いたとされるのは、「歴史の父」とも呼ばれるヘロドトスです。 しかし、彼の記述は「抒情詩的歴史=物語」でした。 その後、ツキティディスなども出てきます。 ヘロドトスよりもツキティディスの方が、現在でいう「歴史」に近い感じはありますが、それでもやはり「詩的な」感じはありましたし「修辞学」を重んじるためにくる誤謬がありました。 古代ギリシア・ローマでは「時間は円である」という観念が強く、結果「歴史は繰り返す」と考えました。 そして、同じ問題が起こったときに以前の教訓が生きるという観点から「歴史記述」が行われました。 これは、「記録を残す」と同時に「記録と記録を関連つける」作業でした。(この本質は今も変わっていません) 中世になると、キリスト教神学の観点から「歴史」が捉えられていきます。 そして、「歴史」とは「神の摂理を反映した何か」でした。 また、キリスト教では「創生(絶対的な始まり)から最後の審判(絶対的な終わり)へ向かう」という思想から、「時間は直線」というイメージでした。 その影響から「歴史は一度きりである」という「概念」が生まれます。 そうした「観点(歴史観)」から「歴史記述」がなされていきます。 次に登場するのが、ルネサンス文化の歴史記述です。 ルネサンスは別名「人文主義」の時代でもあります。 (中世キリスト教では無視された)古代ギリシア・ローマの文化や思想と、キリスト教のそれとを融合しようという試みでもありました。 その結果、中世の神学的な歴史記述よりも、古典を引用した歴史記述がはやりました。 そして、「人間の社会」に目が向くようになり、「歴史から教訓を引き出す」目的の歴史記述が中心となります。 その次が、啓蒙主義の歴史です。 ここで、「歴史哲学」というのが生まれてきます。 つまり、「歴史を哲学的に捉えよう」という試みです。 そして、「真理は何か、またそれをどのように認識するのか」というのが問題の主題となります。 しかし、一方で「キリスト教の呪縛」からは開放されず、せいぜい「世俗化」だけでした。 次に出てきたのが、「実証主義」の歴史です。 ここが、「現代的な歴史学の原点」ともいえます。 「歴史哲学」に対して、「観念的で無意味」とし、「自然科学の技法・観点=観察」というのをやってこそ、「真実に近づく」と考えました。 特に、ランケによって、徹底的に「実証主義」が高められました。 彼は「史料をして語らしめよ」といい、徹底した「史料批判」に絶えられたものだけが「事実を語っている」と考えました。 その考えにより、16~18世紀に流行っていた歴史記述に付きまとっていた「民族主義・国家主義」的な記述(つまり、自分たちを正当化するための歴史)から、ある程度解き放たれました。 その点で、彼は高く評価されています。 しかし、一方で「実証主義」に対する批判も出てくるようになりました。 「歴史」を「自然科学と同一視」したところに、大きな「誤謬」が生じると指摘されたのです。 つまり、歴史とは「主観的」であり、その時代その時代の必要によって「利用される」モノだということです。 そして、実証主義者たちもまた、このことを(無自覚的に)行っていると考えました。 また、これと平行して「社会学」という分野が徐々に形成されていきました。 そして戦後にはフランスを中心に、アナール学派が台頭してきます。 この学派は、「歴史学」に「社会学の技法・観点・成果」を取り入れたのです。 それまでの歴史学は「国家・民族」の歴史が中心でした。 それを、「経済史」や「哲学史」のように、「社会学的なテーマ」から「歴史を捉えよう」という試みです。 そして現在は、「実証主義的歴史」と「アナール学派的歴史」を柱として、歴史が研究されています。 西洋ではこのように、「歴史の概念」は変動してきました。 そして、この概念のうち「実証主義以降の歴史学」を、日本は明治以降に輸入し始めます。 さて、日本の歴史学の曙は明治期です。 よって、「正確な記録を残す」という重要性が認識されたのも明治以降となります。 よって、西洋的な、つまり「歴史学的な歴史」があるのは明治以降となります。 (・・・が、昨今の日本(得に政治家と官僚)はその重要性を認識していませんが。) では、今ある「「日本史」は何なのか?」というと「正史」だけです。(もちろん、西洋にも「正史的な歴史」はありますが、それと併存する形で「歴史学的歴史」も醸造されてきました。これには、キリスト教会との関連がありますが、長くなるので割愛します) そして、その周辺にある「奇跡的に残ってきた過去」です。 今の日本の「歴史学」は、西洋の技法を取り入れることでこの「正史」と「奇跡的に残った過去」の間で整合性を取ろうとされています。 「正史とは?」はWikiを参考にしてみてください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8F%B2 長文、失礼しました。 参考になれば幸いです。

garcon2000
質問者

お礼

ありがとうございます。 「歴史」というものが、「数学」やら科学やらとはだいぶ流動的で、同じ文字ながら扱うないよう考えが違うものだとわかりました。その時代時代の「歴史」をさかのぼって解釈することが必要ですね。

  • momonga14
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回答No.3

「記録」と「歴史」は全く違います。 最近の教科書問題などでもよく見られる誤解ですが、「真実を科学的に追及して記述」するのが歴史ではありません。 歴史は科学ではありません。 どころか大いに「非科学的」なものです。 歴史とは現在生きる我々の過去に対する「解釈」です。 過去の人物に対する評価。 英雄か悪漢か救世主か売国奴か。 馬鹿デカイ建造物を建てた、これも「偉業」か「愚挙」か視点によって変わります。 視点の数だけ解釈が生まれます。当然、時代が変われば視点も変わることもあります。そうすれば解釈も変わります。 つまり歴史とは、変わらぬ真実を記録するものではなく、常に変動するものです。 奈良時代でもそれ以前でも、過去を解釈しようとする試みは行われています。他の方が言われてるように、日本では記紀がそうです。記紀は初代神武天皇、天照大神まで記述しています。 それが真実かどうかではなく、記紀を記述した当時の日本人の解釈こそが「歴史」です。 ですから、「後世の歴史家の判断に委ねる」という文句があるのです。

garcon2000
質問者

お礼

わかります。科学的といいますが、そういう意図では歴史にはなりえないのでしょうね。すべて数字の羅列になってしまいます。言葉を解して歴史を俯瞰するということは、必然的にその時代の解釈、歴史学者の解釈にゆだねるということですから。

  • hakusyon1
  • ベストアンサー率43% (55/126)
回答No.1

都庁と大仏を比べるのは時代が違いすぎるので なんとも言いにくいですよね。 記録媒体自体を比べても全然違うし 色んなことを記録に残すことが当たり前になっているような時代と比べてもどうしようもないような気がします。 歴史という概念云々は当時に生きていたわけではないのであれなんですが とりあえず 古くは天皇記や国記、六国史とか古事記とか歴史書の類は存在しているわけなので 歴史を何かしらの形で残すという文化なり風習なりあったんじゃないですか?

garcon2000
質問者

お礼

時代が違うと、記録を残す残さないの感覚も違いますからね。その歴史を残そうとするあり方の変容が、なかなかすんなりとある時点で俯瞰的に見ることが難しいということでしょうね。

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