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「予科練上がり」とは?
終戦直後を舞台にした映画などを見ていると、「予科練上がり」という 表現に出会う事がありますが、これはどのような意味を表現して いるのでしょうか。 自分としては、 「予科練にいた」→「一度は死を覚悟した」→「怖いものなし」 というように、勝手に解釈しています。 また、上記の事と合わせて、この予科練出身の方々が当時 どのような印象を持って社会に受け取られていたのかも 教えていただけると幸いです。
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国民学校5年の夏に終戦になり疎開から帰り、町の公立校に入ったの6年の時に予科練帰りの21才位の男が担任になりました。 たしかに「予科練にいた」→「一度は死を覚悟した」→「怖いものなし」・・・と言うのはウワベだけのヤクザには出来ない凄みがあり 何か理想か希望を持って入った道かも知れませんが授業で覚えているのは、生徒を廊下に並ばせて殴り飛ばすことだけでしたね! 鉄拳制裁というのはゲンコツですからアゴの骨にひびが入った生徒もいた筈ですが、よく飽きもせず毎日殴ったものだと思います。 その時覚えたこと・・・強い立場にいる人間は「何をしてもイイ?」・・・噂によれば今75歳位でボランティアをしているとか? 実際にはありえなくても街中でうっかり会ったら何をされるか分からない恐怖感も未だに残っているし、私にしても包丁で 刺し殺したい衝動を覚えそうで会いたくもない記憶ですね。。。
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昔、学校にいた先生がこんなことを言っていました。 「予科練上がりの連中は、有る意味ヤクザより怖かった。一度は死を覚悟したのに生き残った思いからか、ヤクザからも一目おかれていた。また、予科練上がりの先生は本当に怖かった。」
お礼
やはり「予科練上がり」=「怖い」というようなイメージになるよう ですね。 ご回答ありがとうございました。
- nobunojo
- ベストアンサー率29% (122/407)
予科練、というのは海軍飛行予科練習生のことです。 現在はどこの空軍でもパイロットは士官がなるものですが、 帝国海軍華やかりしころは、兵卒や下士官のパイロットや搭乗員が 多くいました。彼らを養成するのが各地に設けられていた練習航空隊で、 航空兵を志願する者(受験資格はおおむね15~18才の若者)は ここに入隊し、訓練を受けて巣立っていったわけです。 とはいえ当時は航空機そのものが発展途上の時代、 平時の訓練においても事故率は高いものでした。 そして日華事変から太平洋戦争と、海軍の航空力は常に 第一線で激しい戦闘を戦い、戦争末期には特攻兵力となるなど、 常に死と隣りあわせで戦ってきたのが、予科練上がりの航空兵です。 海軍パイロットは予科練上がりだけでなく、士官搭乗員として 海軍兵学校卒業者や、一般大学から志願で採用される飛行予備学生も いましたが、やはり予科練出身者が航空兵力の中核だったと言えましょう。 こういう背景での彼らの気質としては、やはり怖いもの知らず、 独立独歩、向こう意気の強いこと、などが挙げられるのかと思います。 こうした気質と極限状態を生き抜いてきた彼らが、 例えば戦後の混乱時代にはヤクザや闇商人などとして 闊歩してた…的な扱われ方が小説や映画ではしばしばあるようですね。 まぁ、実際にこううそぶく人たちのうちどのくらいが実際に 予科練で活躍していたかどうか、その真偽はわかりませんけれど。 実際にどういうものだったのか、詳しくは例えば参考URLなどをどうぞ。
お礼
詳しい情報と考察を教えていただきありがとうございます。 本当は予科練上がりでないのに、そのように称する人もいたのですね。 ありがとうございました。御礼が遅くなって申し訳ありませんでした。
- masshigura
- ベストアンサー率15% (15/95)
予科練上がり→海軍飛行予科練習生=神風特攻隊員 詳しくは↓
お礼
詳細なページの紹介をありがとうございました。
お礼
実体験に基づくリアルな経験談をありがとうございます。 子供の頃という事もあり、かなり強烈な体験であったとお察しします。 一度は死を覚悟し、それが終戦により中途半端な状態で終わってしまったため、 やりきれなさのようなものもあったのでしょうか。 御礼が遅くなり、申し訳ありませんでした。