歴史の出来事と天気

このQ&Aのポイント
  • 歴史の出来事と天気が映画やドラマで再現されるとき、史実としてその日の天気が描かれることでリアル感が出ます。
  • 日本国民が玉音放送を聞いているときの炎天下が印象深く、当時を生きた人の共通体験を感じます。
  • 終戦記念日の天気が日本国民にとっての太平洋戦争を象徴し、敗戦からの新たな出発を感じさせます。
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歴史の出来事と天気

どしゃぶりの雨、雪、炎天下・・・歴史の出来事が映画やドラマで再現されるときに、史実としてその日の天気が描かれる事で舞台装置として機能し、自分が生まれるはるか前の事でもその場に居るかのようなリアル感が出ますよね。 私はやはり、日本国民がラジオの前で玉音放送を聞いているときの炎天下が印象深いです。ジリジリと太陽に灼かれセミの鳴くなか「耐え難きを耐え忍び難きを忍び・・・」ってのは、当時を生きた人の共通体験なわけですね。玉音放送は実際はかなり聞き取りずらかったらしいですけどw 敗戦という最悪の結果が国民に突きつけられた歴史的なシーン。その日に居たるまでにB29の空襲から逃げ回り、沖縄戦、原爆投下、宮城事件なんかも起きて嵐のような日々だったのが、嵐が去ってすべてリセットしたかのような、晴天という天気がどこかあっけらかんとした感じにしている気がします。また同時にこれから戦後の苦しい生活の幕開けを象徴しているようで、演出(じゃないけど)として良く機能しています。これがもし土砂降りの雨だったら、戦後の歴史が変わってしまったんじゃなかろうかと思いますw そもそも「8月15日の終戦記念日」というのが、日本国民にとっての太平洋戦争をよく現してるんですよね。世界的にはWW2終結は、日本が戦艦ミズーリで降伏文書に調印した9月2日。またポツダム宣言受諾を決定・通達したのは8月14日。8・15は天皇が国民にラジオで終戦を伝えた日でしかない。天皇に言われればスッパリ気持ちを切り替えられる国民性。また「敗戦」じゃなく「終戦」と言うことで、人智を超えた災害が去ったかのような印象になります。実際当時を生きた人達にとってはそうだったのだろうし、そう捉えて前を向くしかなかったんでしょうけれど、戦争を知らない私たちは、「敗戦」という事に立ち返って、「開戦して戦って負けた」という事実に一度は向き合うべきだと考えてます。 話が逸れました。あなたが印象に残っている「歴史の出来事と天気」を教えてください。

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noname#208768
noname#208768
回答No.12

mikasaさんこんにちは まずは、行進曲をお聞き下さい。 https://www.youtube.com/watch?v=21ZG9oh7VX8 1964年東京オリッピック。世界ではじめてアジアでオリンピックが開催された 第18回大会は、戦後19年、敗戦の日本が焦土から復興しGDP世界第二位の 経済大国にむかっていこうとする記念すべき式典でした。 天気は晴天。雲ひとつない日本晴れ・・・ と子供心ににはおぼえていますが、当時はまだ光化学スモッグはなさそう。 薄曇りとおもいきや晴天のそらを覆うのは排気ガスと京浜工業地帯のばい煙かもしれません。 記憶ではブルーインパルスが真っ青な空に白い五輪のひこうき雲を描くのですが・・・ わたしはねぇmikasaさん(このへんはどなたかの口調に似てきますが、お許しください。好きなんです、あの語り口>私)このオリンピック・マーチを聴くと泣けてくるのです。 とくに「トリオというのですが」間奏部分にはいるといけない。木管楽器が主旋律を奏でその後にホーンセクションが力強く響き渡る。思い出に胸がときめきます。 実は中学にはいってブラスバンドにはいった私にとって小学5年の頃の東京オリンピックとブラスバンドはほぼ隣接した出来事。実際中学には古関裕而作曲の「オリンピック・マーチ」の譜面はありましたし、毎年体育大会では主要な演奏曲目でした。曲を聴いていると時間はあの日の高曇り(否晴天)の東京の空につながります。あれほど日本の人々が空を眺めた日はなかったでしょう。 屋根のない競技場で「晴れてよかった」誰しも胸をなでおろす。だって台風が きてもおかしくない季節です。 記念すべき晴天。1964年10月10日。

mikasa1905
質問者

お礼

「世界中の青空を集めた本日の日本晴れ」ってフレーズが有名なので、晴天だと思い込んでましたが、高曇りだったんですか、知りませんでした! exさんはブラバンだったんですか!おシャレですね~!その曲が当時を思い出させるのですね。 >屋根のない競技場で「晴れてよかった」誰しも胸をなでおろす。だって台風がきてもおかしくない季節です。 >記念すべき晴天。1964年10月10日。 前日まで東京は台風の影響で雨だったらしいですね。なんか2020年の東京オリンピックのメイン会場も、屋根が間に合わないとか騒ぎになってて心配ですよね。 東京オリンピック、戦争が無ければ1940年にあったはずなんですよね。震災後でオリンピック前、安保法制で軍事のあり方が変わろうとしてる今の状況、なんだか当時と重なって少し不安です。オリンピックが幻となって晴天の開会式じゃなく雨の学徒出陣式にならないよう願います。 晴天といえば、映画「青天の霹靂」を先日観ました。すごくよかったです♪ ご回答ありがとうございました。

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回答No.13

こんばんは。 mikasaさんご存知ですか?桜田門外の変と2.26事件では雪が降ったそうですよ! え?知ってるって?な~んだ(笑) で、私の回答ですが・・・ 日本最後の内戦「西南戦争」で、薩軍が薩摩を出発した日も雪だったそうです。 ちなみに今調べたら、その日は60年ぶりに雪が降ったんですって。 たまたまだろうけど、こういう系の事件では雪が降りますね~。 後、個人的に印象深いのは、 西南戦争の一番の激戦「田原坂の戦い」での雨ですね。 〝雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂”って民謡にもなってるんですよ~。 https://youtu.be/VaV8jmQbfA4

mikasa1905
質問者

お礼

えええ?226事件のときも雪だったんですかっ?そりゃ知らなかったな~!w 不思議と東京の大雪の時に、血なまぐさい事件が起きるんですね~w >日本最後の内戦「西南戦争」で、薩軍が薩摩を出発した日も雪だったそうです。 >ちなみに今調べたら、その日は60年ぶりに雪が降ったんですって。 これはホントに知りませんでした。鹿児島で雪ってのはかなり珍しい事ですよね。 「田原坂の戦い」の雨も、そういやドラマとかでそうだったかな~って程度。 wikiみたらすごい情報量。日本最後の内戦として、後の明治政府に多大な影響を残したんですね。不勉強でした。 やはり土地柄で、そちらは西郷さんにかなり思い入れがあるんでしょうね。グンマーは思い入れのある歴史的人物、特に居ないんだよな~・・・国定忠治?楫取素彦?誰それ?って感じ・・・ ご回答ありがとうございました。

回答No.11

天候と言えるかどうか分かりませんが、インパクトの あったのが、卑弥呼が没年とされる248年に、北九州を 含む日蝕があったという事実(計算により)から、 「アマテラス=太陽の巫女であったと推察される卑弥呼が、 日蝕を防げなかった責任をとって殺された」という説です。

mikasa1905
質問者

お礼

へ~、説得力のある説ですね! 卑弥呼が没したあとは、たしかイヨっていう巫女が引き継いだ・・・と思ってたけど、調べてみたら違った。男王が立てられたんですね。 http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/himiko_bousatsu_section5.htm 皆既日食も248年に二度あったんですね。 どこにあったかわからない邪馬台国、遠い遠い昔の事なのに、結構色々な推測がされてるんですね。 ご回答ありがとうございました。

noname#211715
noname#211715
回答No.10

mikasa1905さん、こんにちは(*^-^*) 太平洋戦争までは天気が大きく影響したらしいですね?? よく知らないのでそのことをお断りとお詫びしながらです(#^.^#)すみません。 原爆は最初は大阪に落とす予定だったのが厚い雲で覆われていたから急きょ広島に変更になったとか。何度か聞いたんですけど本当でしょうか。 開戦は真珠湾奇襲でしたけど本当は宣戦布告をする手筈だったとか。 同時に別の隊がどこかの島を攻撃する予定だったのが濃霧で出撃できなかったとか。 詳しいことは分かりません。でも私は日本は負けてはいないと思います。とらさんが言うように勝っていたら大変でした。でも負けてはいないと思います。

mikasa1905
質問者

お礼

レーダーが開発されるまでは海戦では天気が大きく戦況を左右したでしょうね。 >原爆は最初は大阪に落とす予定だったのが厚い雲で覆われていたから急きょ広島に たしか、小倉、新潟なんかも候補だったような・・・大阪もでしたっけ? 在米日本大使館でパーティーやってたために、宣戦布告するのが真珠湾攻撃の後になっちゃったんですね。まあ実際アメリカは日本の暗号解読しちゃってて、在米日本大使館より早く情報キャッチしてたはずですけど、リメンバーパールハーバーという参戦の言い訳をルーズベルトに与えてしまった格好です。 >でも私は日本は負けてはいないと思います。 戦争に負けて戦争目的を達した、と言えるでしょうね。海外領土は失ったけれど、貿易は再開され経済復興し、ソ連の脅威はアメリカが抑えてくれた。しかしそうは言っても、300万人の犠牲は大きすぎました。ほとんどが戦争末期の犠牲者なんですよね・・・ ご回答ありがとうございました。

  • keyi811
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回答No.9

桶狭間の戦い 今川義元が織田信長を討ちに行こうとしたら雨が降ってきて、待機している所の近くを織田軍が来て、織田軍が今川軍が近くにいると知って攻撃し、何の準備も出来ていなかったから兵の数が少なかった織田軍が勝てたとされていて、もし雨が降らなかったり、織田軍が何のためだったか分からないけど移動していなければ今川義元が織田信長を討てていたかもしれなかったから。

mikasa1905
質問者

お礼

そういえば、ドラマ「信長協奏曲」でそんなシーンがあったような・・・ まともに戦っていたら今川義元が勝っていたでしょうね。まさしく歴史を変えた雨! 天気が歴史の趨勢を左右することがあるという代表例ですね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.8

こんにちは。 時は8月下旬… 昨夜からの小雨が台風の接近に伴い 本降りの雨の中、足元がぬかるみ、悪い 中を重い装備を抱え、進んだ白虎隊士達。 空腹と疲労。 若い男子達にせめて天候が良かったならと 刹那です。

mikasa1905
質問者

お礼

こんばんわw 「八重の桜」観てました。そういえば雨だったような・・・ 晴れで視界良ければ、鶴ケ城が落城したと誤認せず、あの悲劇は無かったかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。

noname#209100
noname#209100
回答No.7

こんばんは 敗戦という最悪の結果? 何とまぁ・・ 敗戦という最良の結果でしょうに・・・ もし勝ってたら北の国みたいな生活が待っている 印象に残っている歴史って? 過去のことは体験も見てもいないので印象って言われても困るなぁ 記録映像?想像の?映画?ドラマの?? 浅間山荘事件 どんより曇り空?雪がふってたっけな? 御巣鷹山事故 夜だったので解りません覚えてないです おこんじょしてるわけじゃぁ(≧∇≦)/ない? 自信ない(≧∇≦)/

mikasa1905
質問者

お礼

こんばんわw >敗戦という最良の結果でしょうに・・・ そりゃ「現代の視点」でしょうよ! 欲しがりません勝つまではって耐えに耐えて、家族や大切な人を戦争で失って、なのに負けましたってのは当時としては最悪の結果です。それまで日本は負けた事なかったわけで、それまで戦争に勝てば国が豊かになったわけだし、負けて連合国軍がやってきたらどんな事になるかとか、国民はかなり恐かったと思いますけどね。 それでも、もう空襲が無くなる、徴兵された夫や息子が帰ってくる、という安心感とか期待感とか、色んな感情が綯い交ぜの心境だったんじゃないかなぁ~と、分かったような事を書いてみますw >浅間山荘事件 >どんより曇り空?雪がふってたっけな? 雪山だったけど、雪降ってたのかな?このニュース映像で警官が食べてた「カップヌードル」が広まったらしいですねw >御巣鷹山事故 >夜だったので解りません覚えてないです 次ぐ日にニュースで、新潟の友達の家で観ました。晴れてたと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • eroero4649
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回答No.6

MIKASAさんといえばあの日本海海戦ですが、日露戦争は日本が初めて本格的な天気予報を導入した戦争でもありました。特にバルチック艦隊との来るべき一戦に対しては天候というのも海戦の帰趨を決する重要なものと位置づけられ、当時の最新科学であった天気予報が導入されると共に、上海や香港にも観測員が送られて気象データが集められました。 そして、あの時あの日の天気予報が「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」だったのです。それを秋山参謀は出撃の電文の最後に付け加え、日本海海戦の出撃電文は永遠に歴史に名を残す名文となりました。 「歴史と天候」というと日本人の頭に必ずといっていいほど思い浮かぶのが赤穂浪士の討ち入り。雪の降る中、陣太鼓を叩くのがお約束です。日本の年末の風物詩ですが、日本人なら誰もが違和感を感じる雪の12月。「江戸時代は、今より寒かったからなあ」という理由で納得するのですが、もっと納得できる理由があります。 それは、元禄15年12月14日は太陰暦だから。太陽暦に換算すると1703年1月30日です。1月30日の東京なら雪が降っても納得です。ちなみに、史実はどうも前日か数日前に降った雪がまだ残っていたようです。 1945年8月15日の玉音放送が暑い夏の日の出来事なら、1943年10月21日、外苑競技場行われた学徒出陣は雨中だったのが映画にも強い印象を残しています。雨中の学徒出陣と、蒸し暑い夏の日の玉音放送は、対照的といえましょうね。

mikasa1905
質問者

お礼

>当時の最新科学であった天気予報が導入 不覚にも知りませんでした!いち早く無線技術を導入して戦いを有利に進めたのは知ってたんですが。 話は逸れますが、バルチック艦隊を発見した海域が203地点。そして旅順攻略の要になったのが203高地。不思議な数字の一致ですよね。あと終戦記念日の815も、終戦の詔勅が815文字だったり、広島原爆投下が8時15分だったり・・・ >元禄15年12月14日は太陰暦だから。 それは薄々そうなんだろうなと思ってましたけど、ドラマなんかは12月14日あたりでやりますよねw >1943年10月21日、外苑競技場行われた学徒出陣 やはりこれは有名ですねw 泥まみれのゲートルが行進する映像は、泥沼の戦争をよく象徴してます。 21年後の同じ場所での「晴れ」も対照的ですよね♪ ご回答ありがとうございました。

回答No.5

桜田門外の変 安政7年3月3日 江戸には珍しい大雪の日であった と聞いております。 東京に3月3日に雪が降ることはない事もないですが、 大雪というのが 何故か歴史的シ-ンを想わせられますね。

mikasa1905
質問者

お礼

先週ちょうど映画「桜田門外ノ変」を観ましたw 新暦だと3月24日みたいですね。作品中でも今頃雪が降るなんて、って誰かが言ってました。 最新の説では、最初の銃撃ですでに井伊直弼に致命傷を与えてたようですね。 暗殺シーンに雪、舞台装置としてはとても似合いますよね。既出の赤穂浪士討ち入りは実際晴れだったらしいけど・・・ ご回答ありがとうございました。

noname#231734
noname#231734
回答No.4

こんにちは(^-^) 赤穂浪士の討ち入りの日は しんしんと雪が降っていた・・ というイメージあるのですが、 (映画やテレビでそういう演出を観たのか) 実際は晴れていたらしいですね。

mikasa1905
質問者

お礼

コーヒービーンさんこんばんわw えええ~!まじっすか! ほんとだ、『仮名手本忠臣蔵』での脚色で、実際は晴れてたようですね。 完全に雪に血しぶきってイメージでしたけどね~! しかし、今まで作り上げられた雪のイメージはもう覆せないでしょうねw ご回答ありがとうございました。

  • oya_zico
  • ベストアンサー率19% (398/2007)
回答No.3

mikasaさん、こんにちは。 歴史と天気といえば、やはり桶狭間の戦いでしょう。 今川義元の油断、天候が急変、ゲリラ豪雨の直後の急襲、この戦いの勝利が後の歴史に大きな影響を及ぼしたことは間違いないと思います。 ちなみに、私が産まれた日は朝から雪が降ったらしい、まあ、歴史とは無関係ですが…。

mikasa1905
質問者

お礼

おやじこさんこんばんわw 戦の前に熱田神宮で戦勝祈願するシーンは有名だけど、合戦前に豪雨が降ったのは知りませんでした。調べたら雹混じりだったとか。ドラマとかでも描かれてるのかな? 私の母はカスリン台風の日に生まれました。1階は浸水し、産婆さんが舟に乗ってきたとかw ご回答ありがとうございました。

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