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してはいけないこと

最近、秋葉原の事件などから自分の中で”人殺し”について考えました。  自分の人生は自分自身しか経験できないし、自分自身は自分の人生しか経験できません。 今、自分とすれ違った人、大学で自分の横で授業を受けている人、友達、恋人・・・。 そういった人すべてが自分の人生の中の登場人物のように感じて、この世界そのものが自分の脳の中の偶像に過ぎないような気がします。 だとすれば、その人を殺してもそれは自分の目の前からその人が消えただけなのではないでしょうか? 殺された人の未来を失わせた、命を奪ったというのは、それを経験することが出来ない自分にとって関係のない話に思えてしまいます。  事を殺人に限らなくとも、人の嫌がることをなぜしてはいけないのか解りません。 自分のことを陰口を叩いたり、恨んでいる人がいたとして、それを自分が感じることがなければ、それというのは(自分の人生において)ないも等しいのではないでしょうか?究極、自分の目に見えないところで起こっているすべての事象(目の前の他人の頭の中も含めて)を完全に無視してしまえばどんな事でも出来てしまえるような気がするのです。  そんなことを考えていると、自分という人間が法や倫理観に律せられて生きている理由がわからなくなってしまいます。「自分が楽しければそれで良い」と考える人間を愚かしいと思う反面、何のために自分はこんなにも縛られて生きているのだろうかと思うのです。  はっきり言って、自分では自分のことを真面目で”まともな”人間だと思っています。 別に、何か事件を起こしたいわけでもなければ、実際にとんでもない事件を起こした凶悪犯に同調するつもりもありません。 これからもこれまでのように自分なりの倫理観に倣って生きていくつもりなので、あまり危ない質問者だと思わないで下さい; ただ、感覚的に人を傷つけてはいけない、殺してはいけないというのは解るのですが、なぜそうなのかについて考えれば考える程解らなくなっていくのです。 皆さんはどのようにお考えでしょうか?よろしければ皆さんの意見を聞かせて下さい。

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noname#65902
noname#65902
回答No.5

ANo.2,4 です。 ANo.2 のお礼欄を拝見しました。 > 殺す事によって得るメリットが数十年の懲役をくらうことよりも意味があると考えたら どういうメリットがあるんでしょうかね。 数十年拘束される、もしかしたら死罪かも知れないのに。 ちょっと想像できません。 まぁ、牢屋生活も、懲役でもって貯金はできるし食いっぱぐれはないし、 という面では悪くないのかも知れませんが。 > しかし、エゴイスティックにそれらを割り切る事が出来る人を律する力はないのでしょうか? ないでしょうね。「暴走する殺人マシン」と同じことだと思います。 > そもそも、自分の人生しか感じ取る事の出来ない人間が何故他人の事を思いやる事が出来るのか疑問です。 そうですね。そもそも、「人の気持ちを考える」ということは 「それをよしとする自己満足にすぎないんじゃないの?」って 考え方もあるんですよ。実はこれが真実なのかも知れません。 > 性善説的な人間性なのでしょうか?私は性悪説の視点から 共存の為(ひいては自分の命を守る為)の社会的ルールも無視し、 好き勝手やってるなら世界で一人だけ生き残るでしょう。 そうすると「食い物にする相手」すらなくなって自滅。 いずれにせよ破滅するでしょう。 好き勝手やるのでなく、人と協調するとか、人に命令するだけでなく 時には面倒でも世話焼いたりして「譲る」ことが結果として 自己(の命)を長らえる結果になります。 性悪説?も、大多数の人が善人であるが故に「悪人も生きていける」のであり、 全員が性悪ならやっぱり食いつぶしあって全員自滅すると思いますけど。 ある人は少数でもグループを作ると思いますが、これは既に「社会」なわけで、これが 生き残る手段だったりしますね。

ringring28
質問者

お礼

ありがとうございます。kfd03077のような人の意見を聞くと非常に勉強になります。 色々な方の意見を聞いて、少なくとも”独我論”で物事を突き詰めようとすると色々な矛盾が生じ、元も子もなくなるという事がわかりました。 私自身独我論に苛まれて何がなんだかわからなくなる時もありましたが、今ではこの考え方自体が非常に非生産的であり、ある種の危険思想のような気がします。 世界中で起こされる(起こされた)凶悪犯罪の一部にこういった考え方があっての事かもしれません。私は犯罪者心理について非常に興味があり、そういった事についてまた時間が出来たときにでも調べてみようかなと思いました。(当方、理系学生なので専門的に学ぶ事は出来ませんが) 実際にこんな事を大学の友達に聞かせてもまともに意見が返って来るとも、ためになる話が聞けるとも思えない(あるいは危険思想者のレッテルを貼られるかも)のでココで相談しましたが、とても参考になりました。こんな曖昧な疑問に対して真剣に回答していただき本当に感謝しています。これからまた相談に来る事もあるかもわかりませんがその時はまたよろしくお願いします。本当にありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • pojipoji
  • ベストアンサー率32% (53/161)
回答No.7

何をしてもよいと思っている人がいるとして、その人がはたして何の感情の動きもなく何事かを実行に移そうとしているかを考えました。 つまり、理性的に眉一本動かさず犯罪を行う人があるとすると、その人は犯罪による利益と社会的な制裁という不利益を比較考量し、あるときは実行し、あるときは実行を断念するわけですから、実行すれば必ず捕まる、検挙率が100パーセントという環境であれば、犯罪を行おうとする意思を断念させることが出来ると考えます。 一方冒頭の事件について、上記のような理性的な比較考量による犯罪とは思えません。感情、特に怒りという感情に支配されたものと考えられ、直ちに善い悪いの倫理観の問題としてだけで捉えてよいのかどうかと考えます。例えば、自己が保有する善い、悪いという判断を他者が守らないとき、その為自分が不利益を受けた、思うようにことが進まない考える場合、悪いのは他者ですので、怒りの感情が引き起こされていまい、結果攻撃的になってしまうということがあります。 攻撃は、その他者そのものに向かうこともありますが、たまたま持っていた皿を地面に叩きつけて割るように、何の関係もない対象に向かうこともあります。手に持つ皿は怒りには何の関係もないと思われますが、その人の関心の範囲内であると思われます。 そこで、感情のコントロールが肝要であると考えます。感情がコントロール出来ないことには、容易に他者に気持ちを操られ、自分自身に対する主体的立場を失ってしまいます。出来事により怒りがあり、怒りの表出があると考えられますが、出来事と怒りの間に本人の解釈があると思われます。 「非理性的ビリーフは、多くの場合、「私は絶対にうまくやらねばならない」という達成と承認の、「他者は感じよく行動しなければいけない」という他者に対する、「状況は常に私の思うとおりでなければならない」という世の中に対する、3つの非理性的な「ねばならない」から出てきます。これらの独断的要求が成し遂げられないと、恐ろしい、我慢できない、全くだめだといった思い込みが生まれてきます。例えば、もし友達が約束を破るという事態が起こったとき、「彼の私に対する扱いはひどい」、「彼が私との約束を破ることがあるなんて、耐えることができない」、「彼は約束を守ることもできないだめな人間だ、罰せられるべきだ」などの思い込みが生まれると、不幸な出来事(A)について、恐ろしい、ひどいことだと感じ、我慢できないと主張し、それを生み出した他者や世の中をののしるようになります。  しかし、「ねばならない」が「そうであれば好ましい」程度のものであれば、約束を破られるという事態が起こっても、「約束を破られるのは不愉快だから、やめて欲しい」、「約束を破ったことは悪いが、恐ろしい、ひどいことではない」、「彼は私に対して不誠実な行動をとることはあるが、それほど悪い人間ではない」という思いが出るだけで、失望はしますが、不安や怒りを感じることははありません。」 http://www.hosp.go.jp/~shoraiso/shinri/anger.html ここで、これまでの説明とご指摘の倫理観が結びついて、もっぱら倫理とは他者を守るためのものではなく、自己の幸せのためのものであると説明できておれば幸せです。 また、上記の理由により、考え方の訓練を重ねることによって、ある種の犯罪は減らせることが出来ると考えます。

ringring28
質問者

お礼

回答ありがとうございます >>倫理とは他者を守るためのものではなく、自己の幸せのためのものである とても良くわかります。正直感動しました; それ故に人類の繁栄が成り立つわけですね。 人間は元来エゴイスティックなものであり、自己の幸せのためでなければ倫理観などが成立するわけもなく、社会は存在し得ない。 私の疑問に皆様方が熱心に回答して下さり、非常に感謝しております。 疑問が解決したかはよくわかりませんが、皆様のお陰で新しい考え方の指針を手にする事は出来ました。本当にありがとうございます。

  • mijinco
  • ベストアンサー率25% (87/346)
回答No.6

あなたの言われているような思いにや状況に心うばわれ陥ってしまうこと大いにあり得ると思います。 (もちろん、あなたが陥っているという意味ではありません\(^_^ )) そして、そうなった場合の危険や不安を人類は感じ、ときには経験してきたのだろうと思います。 だから、親は理由以前に躾をしようとするのかもしれません。

ringring28
質問者

お礼

なるほど、”人をなぜ殺してはいけないの?“という問いに対する”そんなものは理由以前の問題だ”という答えが、 的を射ていないような気がして今ひとつ納得がいかなかったのですが、色々と考えを巡らせた後に結局行き着くのはそれなのだと思えます。 mijincoさんの意見非常にわかりやすかったです。 本当にありがとうございました。

noname#65902
noname#65902
回答No.4

ANo.2 です。 > 独我論の考え方から自分を律するにはどうしたらいいのか?という事 限界があるでしょうね。自分がどうなろうとも思うままにしたい、ということなら 律する理由がありませんから。 迷惑をかけるということは悲しい目にあわせること、 それは自分にとってもイヤなこと、と理解できるならいいのですが。 それすらもなければ「縛られるだけつらい」でしょう。 そうであれば、社会に適さないのですから 無人島などで一人で生活してもらいたいです。 いつ人を殺めるかもわからない危険な存在であれば。 例の殺人事件も、「人を殺してもそう簡単に死なせられない」と思ってるならともかく、 「もうどうなってもいいから」と思ってるなら歯止めは効かず、 そうなると物理的な力のみが通用することになります。 とはいえ、過剰防衛で犯罪者(であっても)キズつける」にでもなれば 逆にそこを問われる結果になり、 被害者サイドなのに「犯罪者を押さえ込む」に気を使わねばならないのが 不利でもあります。

  • dreamnstd
  • ベストアンサー率53% (8/15)
回答No.3

要するに「協定」に近い物だと自分は思っています。 「情けは人の為ならず」とよく言います。 「人にいいことをすれば、それがいつかは自分に帰ってくるよ。」という事です。 もちろんその意味通りに解釈してもいいのですが、逆の意味にも取れます。 「自分が人にしてることは、自分がされても文句言えないよね。」という事です。 自分が人の物盗むんだったら、誰かに自分の物を盗まれても文句は言えない。 自分が人の陰口をたたいてるなら、自分が陰口をたたかれるのは当然である。 自分が人を殺すんだったら、誰かに殺されても文句は言えない。 そういう事です。 その一番大きい解釈が、「人が嫌だと言っている事をやってるんだったら、あなたも嫌だと言ったことをやられても文句言えないよね。」となり、 「あなたが嫌なことに対して文句を言いたいんだったら、人の嫌がることはあなたもやめましょう。」 という「協定」が生まれるのだと思っています。 みんなが好き勝手なことやって、誰かが生き残るのならまだいい方で、 普通は共倒れになってしまいます。 法や倫理は、共倒れを防ぐための平和協定なんです。

ringring28
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「協定」という考え方はなかなかしっくりきますね。 黄金律の考えというのは、すべての倫理観の根底にあるものですから、みんながきちんとそれを持ち合わせていれば「協定」として成り立つと思います。 実際に法治国家である日本はそれらの協定=契約で成り立っているわけですよね。 参考になりました。ありがとうございます

noname#65902
noname#65902
回答No.2

> この世界そのものが自分の脳の中の偶像に過ぎないような気がしま す。 見てるだけならそうでしょうが、質問者さんに何らかの形で関わってくるものもあります。 例えば質問者さんに襲い掛かってくる輩がいるとして、それを放置すれば 質問者さんが肉体を失ったり、入院生活を強いられたりするという 大きな変化を生じます。 > その人を殺してもそれは自分の目の前からその人が消えただけなのではないでしょうか? 感情的な点を置いとくとしても、 殺人したなら司法は放っておかず投獄されるなど生活に大きな変化を生じるし、 法律に則らなくても家族が復習と言って質問者さんを死に至らしめるかも知れません。 > 自分という人間が法や倫理観に律せられて生きている理由がわからなくなってしまいます。 > 「自分が楽しければそれで良い」と考える人間を愚かしいと思う反面、 因果応報。 「自分が楽しければ...」が人に迷惑かけてもいいと思ってるなら、 同じようなことが自分に降りかかっても文句を言うな、ってことです。 > 何のために自分はこんなにも縛られて生きているのだろうかと思うの です。 「自分の権利を守るため」と思いますけどね。 法治国家でなく、「何でもかんでも実力次第」の世界というのも ありえるのかな、と思います。力・破壊力の強い者が弱いものを 食い物にする。 ただ、このような世界でも寝ている間は無力で結局一人だけでは そんなに強力な存在にならないでしょうし、 なら結局何らかの社会を作っていく方向になるのは自然なのでは? 社会ということは、維持するためにはルールが必要ということです。

ringring28
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 もちろん、法治国家である今の日本で殺人を犯せば投獄されてしまうでしょうし、恨みを買って遺族に殺されてしまうかもしれません。確かにだれでもそれは避けたいところですし、好き好んで牢屋に入る人はいないと思います。 しかし、(黄金律の考え方は少なからず誰しも持っているものだと思いますが)他人の人生、感覚を共有できない以上、そんなものは自分の人生の付加体に過ぎないという思想があるとします。 そういう考えの人が誰かを殺す事によって得るメリットが数十年の懲役をくらうことよりも意味があると考えたらどうでしょうか? メリットが大きいからといって簡単に人を殺す人は多くないと思います。(もちろん私自身もです) しかし、エゴイスティックにそれらを割り切る事が出来る人を律する力はないのでしょうか? そもそも、自分の人生しか感じ取る事の出来ない人間が何故他人の事を思いやる事が出来るのか疑問です。当然、自分の身を守るために、という事の連続から社会全体が法治の流れに乗る事は解ります。ルールの必要性も解るのですが、これというのは性善説的な人間性なのでしょうか?私は性悪説の視点から世の中を見ていたので頭がごちゃごちゃになっているのかもしれません;

回答No.1

自由に殺しても良い世の中だとしたらどうでしょう? 誰からも自由に殺される立場になるわけですね。 そうなると、非常に生き難い世の中になると思うから、法律で禁止をしたきたわけです。 法律を守る本来の理由は、平和に生きるためです。 人が集まると、争いが起こりやすくなります。だって、利己的だから。 それでもなんとか生活しやすくするために、とりあえずこれだけは守ろうよ、というルールを作ります。 そして、そのルールを守らせるために罰を作りました。 余りルールだらけだと、守るのが大変だから、あとはマナーとして考えるわけです。 日本でも平安時代の末期や、戦国時代は、ルールがもっとゆるくて、殺し、殺されの世の中だったわけです。 だから、世の中の人は宗教や、強い領主を頼ったわけです。 今でも世界の特に貧困層の多い国では、生活を平和には過ごせません。 私は、いつも周りを警戒しなければならない世の中は嫌ですね。

ringring28
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございます。 augustinusさんのご意見は尤もですし、よくわかります。 実際に今の日本などではルールを以て人を律し、”人を殺してはいけない社会”を作り上げています。 もし仮に、みんながみんな今日から自由に人を殺してしまうようになってしまえば、当然自分の身も危うくなるわけですし問題です。しかしながら、一人の人生や社会に辟易した若者がいたとして彼が密かに今日から周りの人間の事を一切考えずに(自分の都合によっては他人を殺しながら)生きていく決心をしたとして、その他すべての日本人が殺し合うわけではないと思います。 彼が人を殺せば自分も当然誰かから狙われる可能性が出てきますし、逮捕されて死刑になるかもしれません。でも、倫理観の欠如した人間は自分が殺される事と誰かを殺す事を結びつける事が出来ないと思います。 私が理解出来ないのは、”人は何故人を殺してはいけないのか?”ではなく、独我論の考え方から自分を律するにはどうしたらいいのか?という事なのです。 私が他人の事などどうでも良いという考えな訳ではないので、実際自分でも何が解らないのか正直よく解りません。 文章が支離滅裂ですが、つまりはそういう事なのです。 私も何かに怯えながら生きていくのは嫌です;今の日本が良い国かどうかは色々意見が分かれるところだと思いますが、平和な日本には感謝したいですね。 曖昧な疑問に回答いただき本当にありがとうございました。

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