• ベストアンサー

人間にとって物語って何なのでしょう?

serpent-owlの回答

回答No.8

 続きまして、「自己了解の方法としての物語」です。基礎編として故・丸山圭三郎を、発展編としてH-G・ガダマー(今年で101歳・現役)を援用しようと思います。  まず丸山圭三郎。これは「言語体系」そのものの話になります。  彼は、『文化のフェティシズム』や『欲望のウロボロス』の中で、「人間は、世界を分節化すると同時に、自分自身をも分節化する」と論じています。どういうことか。『欲望の…』の方で、かわいらしい女の子が例に挙げられていますので、紹介しましょう。  二、三歳くらいの女の子が電車に乗っています。初めて電車に乗りました。「電車」という言葉も初めてです。だからこの子は「デンシャ、デンシャ」と嬉しそうにつぶやきながら外を眺めています。ところが、突然妙なことを言い出しました。 「ママ、デンシャってにんげん? そえとも、おにんぎょう?」  ……  うおおぉぉぉ!きゃわゆいぃぃぃ!と、私は泣いてしまいましたが、丸山圭三郎先生は泣かないで冷静に分析しています。  この子の内面では、それまで以下のような「世界の分節化」(世界の整理棚)があり、それで何ら不都合なく生きていられたのです。すなわち、    「柔らかくて、暖かくて、動くもの=人間」    「固くて、冷たくて、動かないもの=人形」 です。  ところがこの日、初めて電車に乗った。「固くて、冷たいけど、動くもの」に遭遇したのです。それで「どっち?」ということになったわけです。  ちなみに、この時お母さんは「電車は電車よ」と答えたそうです。是非とも「さあ、どっちでしょうね?」と攻めてほしかったところではあります。  さてしかし、この女の子が上記二項からなる整理棚に拘泥しつづけるかぎり、「電車」は未知のものでありつづけます。実際にはそうではないでしょう。いずれ、彼女なりの「物語」を経て、    「固くて、冷たいけど、動くもの=機械」 という第三の棚を「析出」させることでしょう。彼女に与えられた世界そのものには何の変化もありませんが、彼女の中で、この世界を整理する仕切りが一歩、細かくなるのです。すると…「電車」なるものは彼女の言語体系の中に「安らかに収まる」ことになります。  ここで言えることは、彼女は世界に新しい区切りを投げかけている(分節化している)と同時に、自分自身の内的言語体系の中にも、新たな区切りを刻んでいる(分節化している)、ということです。世界の分節と言語体系の分節は同時的なのです。そしてこれは、motsuanさんの言われる「二つの物語」のうち、一つ目の物語を介してなされることと言ってよいと思います。  では「二つ目の物語」です。これは、生の世界との出会いにおける「物語」というよりも、「別の物語との出会い」という、やや二次的な出会いにおいて実現されるもののように思われます。H-G・ガダマーに御登場願いましょう。(上にも書きましたように、西暦1900年生まれで、今なお御健勝です。)  ガダマーと言えば解釈学Hermeneutikです。解釈学自体は聖書の解釈を目的として展開したものですが、ガダマーはディルタイ解釈学を乗り越える形でまったく独自の領域を切り開いています。まずはその主著『真理と方法 Wahrheit und Methode』を簡単にご紹介します。 『真理と方法』は3部構成のかなり大きな本です。第1部のみ法政大学出版会から翻訳が出ています。が、あんまり役に立ちません。というのは、この著書のうち「白眉」とされる部分、ガダマー解釈学のもっとも中心的な構造が提示される部分は第2部に含まれているからです。信じがたいことに、まだここが訳されていないのです(翻訳の作業は行われているはずですが)。  まずもって、「真理と方法」という表題からして意味深です。「真理」と「方法」とは単純に並置されているのではありません。互いに対立するものという意味合いを込めて付けられた表題です。どちらにウェイトが置かれているかというと、「真理」の方です。つまり「方法」なるものによっては「真理」は見えない、ということです。  「方法 method」という言葉は、語源を遡るとギリシャ語の「meta hodos」になります。「道(hodos) に沿って(meta)」ということです。ここで「道」なるものの概念を考えますと、それは常に「どこかへの道」であって、到達すべき目的地を持たない「道」などは概念上撞着します。逆に言えば、「道」と言表した瞬間、それは同時に「客観的に存在している目的地」を前提しています。  同様に「方法」もまた常に「何かのための方法」であり、「真理に到達するための方法」と言った瞬間、「真理とは客観的に存在するものである」という形の「真理の在り方の枠組み」が前提されてしまいます。  「真理と方法」という表題には、「真理とは方法的に到達できるような客観的な存在ではない」というガダマーの主張が込められています。  それではガダマーにとって真理とはどんなものかというと、結論的に言ってしまえば「テクストと解釈者との両者を巻き込んだ相互媒介的な運動の全体こそが真理である」ということになります。  まず、ガダマーは「テクストそのものが内包している客観的意味」を前提する態度を退けます。第2部第1章では先行する色々な立場の解釈学の歴史が批判的に検証されますが、その過程で、「先入観を排除すればテクストの客観的意味が汲み取れる」という立場が空理空論として退けられます。具体的に言えば、理性を歴史的諸状況に制約されないものと考える啓蒙主義、および「わたくし」を去ってテクストへの内在・没入を勧めるロマン主義の立場です。  これに対し、ガダマーは、あらゆる個人は歴史的状況に制約されたものであり、そのような本性上、過去の(ないし異文化の、または異なる個人の)テクストに対峙する際、自分の「先入観」を排除することはできない、と考えます。むしろ、この先入観は、テクスト理解に必要な「解釈者自身の持つ意味連関」として積極的に評価されます。「なければならないものである」ということです。  このような「先入観」を携えて、解釈者はテクストに参与していくわけですが、しかし、テクストそのものは元々解釈者のそれとは異なる意味連関(歴史的背景)に支えられて成立しているわけですから、当然、解釈者が自分の意味連関に、言い換えれば「先入観」に閉じこもるかぎりは理解に限界が生じます。この限界は「テクストの側から」解釈者に投げつけられます。「わからない」という事態です。「意味が通じない」「一貫しない、矛盾する」などなどです。この事態に立ち至り、解釈者は「問」を立て、その答をテクストの中に模索し、答を見出すという形で、自分の先入観から歩み出すことを余儀なくされます。これが「問と答の弁証法 Dialektik der Frage und Antwort」という運動ということになります。(「解釈の際に作用している歴史性」というような意味合いで、Wirkungs-geschihiteという言い方もしています。)  この運動の中で、解釈者の理解の「地平」は拡大されていくことになります。元々あった「解釈者の意味連関」が拡張されていくわけです。また、この運動を介して「テクストの持つ意味世界の地平」と「解釈者が持つ意味世界の地平」とは、互いに接近し、接触し、やがて境目を取り払っていきます。こういう状態を「地平融合 Horizontsverschmelzung 」と、ガダマーは呼んでいます。  どうでしょうか。ここでは「先入観」という言い方をしていますが、これは「自分の持っている言語体系」と同じものと考えて差し支えないでしょう。すると、ここでは「別の物語」との出会いの中で「自身の言語体系を乗り越える作業」が進行すると同時に、「自身の言語体系を自覚化する作業」もまた、行われていることになると言えます。  また、ガダマーは「古典テクストと解釈者」という関係を軸に論じていますが、私は個人的には、彼の言う「地平融合」はもっと一般化できると感じています。要するに、異なった言語体系同士が接触し、ぶつかりあうところに「問いと答えの弁証法」は生じうるわけですから、同じことは異文化理解の場面でも起こるでしょうし、あるいは一人の人間と他者との出会いの中でも起こりうることでしょう。別の育ち方をし、別の価値観を持ち、別の言語体系を持つ者同士が触れ合えば、そこには必ず互いにとって未知のものが見出されるはずです。それは両者を「それまでの言語体系」から超脱させていく契機になるでしょうし、いわばそれを鏡として、自身のもつ「それまでの言語体系」を自覚化できるでしょう。手短に言えば、他人との関わりを通じて他者を媒介として自己を認識する、ということです。  さて、もはやこれ以上の贅言は無用でしょうが、最後に、「他者とは、ある発端を持ち、ある過程を経て目の前に存在する、一つの物語である」と言えば、人間にとっていかに「物語」が不可欠なものであるかということは、明らかだろうと思います。 eut

motsuan
質問者

お礼

serpent-owlさん やっと後半のお礼です。 というかほとんどserpent-owlさんへのなんでも質問コーナーになってしまってるみたいで、ちょっと恐縮しています。  ずいぶんと間があいてしまいました。昨日部屋を片付けていて、偶然、丸山圭三郎さんの本(といっても、河合ブックレットで講演をまとめたものです)が出てきて、読み返してしまいました。内容はおろか本を買ったことさえ忘れ、丸山圭三郎さんの名前もなんか聞いたことあるなくらいで、すっかり忘れていたのでした。serpent-owlさんに回答してもらわなかったら、右から左へとそのブックレットを移しただけでしょう。ありがとうございます。  読み返してみると、ここでの話題にとても近いことが書いてあって面白かったです。私としては、そんなに昔にこんなことに興味あったかな?という感じで、当時はおそらく全く理解できなかったと思うので、それに影響されてしまっている(?)というのがちょっとショックです。  内容はserpent-owlさんご指摘のように言語による分節化(表層の意識)と分節化されない言語(深層意識。といっても、表層の意識下でロゴスがカオスになっているような意識を考えていらっしゃるようでした。しかも、下意識と潜意識というように個人と社会のなかの意識(?)という形で分節化していました。)に関するもので、それをフロイトがいうような欲動としての無意識と表層の意識の間に位置付けてなんとかしようとしているようでした(木村敏の「あいだ」のおはなしのように)。そっから先はどうなるの?と知りたかったのですが、お話はそこで終わりでした。  分節化されるなかでこぼれ落ち、表層の言語体系に抑圧された「深層意識」のいき場は、ここでの議論では(神話的=矛盾した/ちぐはぐな)物語なのか?だとするとそれは何の意味を持つのか?という形の問いになっているのかなと思いました。(ちなみにその本では、人は酔うと歌い出すということで、カラオケになっていました。なるほど!)・・・それとも、ロゴスのカオスの大きなうねりが、揺らぎをもったちぐはぐな物語だとすれば物語は純粋な欲動としての無意識ではなくて、意識の大きなうねりとしてアトラクタのように作用するのかななどと妄想が膨らんでしまいました。  serpent-owlさんのおっしゃる「世界に新しい区切りを投げかけている(分節化している)と同時に、自分自身の内的言語体系の中にも、新たな区切りを刻んでいる(分節化している)」という図式と「「別の物語」との出会いの中で「自身の言語体系を乗り越える作業」が進行すると同時に、「自身の言語体系を自覚化する作業」もまた、行われていることになる」という図式は共通点として、どちらも、「新たな区切りを刻んでいる/自身の言語体系を自覚化する作業」というロゴスの中にやすらかに納める内装工事と同時に「世界に新しい区切りを投げかけている/自身の言語体系を乗り越える作業」という拡張工事が付随していることが特徴なのかなと思います。そして、単なる思いこみなのかもしれませんが、現代は際限ない自己の世界の拡張によって、ちぐはぐな物語なしに自己をとらえている(捉えうる)感覚を生み出しているのかなと思いました。手にいれることによって自己を保つのと、自己の神話を作って自己を保つことの差なのだと思います。・・・ごめんなさい。やっぱり私の中ではもやもやしてしまうのです。  「他者とは、ある発端を持ち、ある過程を経て目の前に存在する、一つの物語である」というのはそのとおりなのだと思います。私としてもそういうたくさんの物語に出会いたいです。でも、人と神話の関係は表層と深層の意識のずれとしてあって・・・というさんざんみなさんに書いていただいたようなありきたりのところにあって、それは、外の世界と自分の中の世界を切り分けたいという私の願望みたいなところから生じる偏見なのかもしれません(中と外の分節化という言語による呪縛なのでしょうか)。偏見によって議論をねじ曲げようねじ曲げようという性向が出てしまって(というより、serpent-owlさんの回答に対して十分理解できず)お見苦しいところをお見せしているようですね。 そろそろ締め時ですね(もう一つお礼をかかねば、ねば。)  それにしてもserpent-owlさんには豊富な例と細やかな説明を書いていただき、「自身の言語体系を乗り越える作業」とわたしの見ている「世界に新しい区切りを投げかける」作業が大変急ピッチで進んでいます。どうもありがとうございます。  他の質問への書き込みも楽しく拝見させていただいております。分割方式は成功したのでしょうか。まだでしたら成功をお祈り申し上げます。

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  • 「冷たい人間だ」と言われそうで苦しいです。

    「冷たい人間だ」と言われそうで苦しいです。 私はAさんと将来を約束していました。 私はAさんが飲んでいる時に言った「××さんが好きだった。」という言葉を真に受け、Aさんを生涯ただ一人の伴侶と思えなくなりました。 私は面白い話をするBさんのことも好きでした。 私は飲み会でBさんのそばに座ることが多く、 Aさんのことが嫌いになっていました。 私に嫌われていると思ったAさんは、 他の女性とお付き合いを始めました。 Aさんは真っ青な顔で、皆の前に(私に似た彼女)を連れてきたのです。 「この人とお付き合いをしているから、zkai4はBさんとお付き合いをしていいよ。」とでも言いたそうでした。 私がBさんとお付き合いをしやすいように、Aさんから身を引いてくれたのです。 私はAさんの犠牲心に心を打たれてしまい、Bさんのことを忘れるようになりました。 Bさんに熱を上げていたことが嘘のように霧散してしまいました。 Bさんのことを忘れるようになりましたが、彼女ができたAさんとお付き合いをしたくありませんでした。 私はA・Bさん両方と疎遠になりました。 質 問 私はA・Bさんに再三お付き合いを申し込まれています。 私はAさんに幸せになってほしいと思います。 私はAさんとお付き合いをしたほうが人間らしい心でしょうか? もし、Aさんとお付き合いをしなければ、「冷たい人間だ」と言われそうで苦しいです。