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御息所について
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こんにちは。 まず尚侍についてですが、 確かに、もともとは、内侍司(ないしのつかさ)の長官ですが、 平城天皇が、尚侍の地位にあった藤原薬子を 寵愛し、従三位の地位を与えてました。それから、天皇の寝所で お供することが始まりだと思われます。 http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/naisinokami.html その前に、天皇の妻についてのお話です。 このころ、天皇は、何人も『妻』をもてますが、 『妻』の間にも階級があります。 順番としては、 皇后 (中宮と二后になるときもあるらしい) 女御 尚侍 御匣殿別当 です。 皇后は、天皇の正妻です。また、お父様もえらいさんでなければいけません。 大臣以上の娘である必要があります。 詳しい説明はここです。 http://ha4.seikyou.ne.jp/home/misaya/jidaijiten/kaikyuu-tennounotuma.htm また、御息所は特に、『おばさん』というわけでなく、 女御・更衣で皇子・皇女を産んだ人を指します。 ちなみに六条御息所はのちの秋好中宮(冷泉帝の妻)を生んでいます。そして秋好中宮の父親は 東宮です。だから、皇女を生んだ人だから、御息所と呼ばれているわけです。
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- mona-2002
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じゃ、わたしは、御匣殿(みくしげどの)の説明でも。 正確に言うと、「御匣殿別当(みくしげどのべっとう)」といいます。元々御匣殿というのは、天皇の衣服を調進する部署のことを意味しており、そこの一番偉い人(女性)のことを、御匣殿別当といいました。 ですが、時代とともにその意味は、天皇の妾のような存在になっていきました。位(奥さんにそんなものがあるのかどうかは別にして)でいうと、尚侍の下くらいか同等って所でしょうね。
お礼
こんにちは。お返事どうもありがとうございます!御匣殿って天皇の妾になっていったのですね。なるほど、よくわかりました。
- minatouri
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「御息所」には天皇の寵愛を得た女性の他に,皇太子妃・親王妃を指す場合もあります.また皇子・皇女を生んだ女御・更衣を指す場合もあります. 「六条の御息所」は「前の東宮妃=皇太子妃」であり,子供(後の秋好中宮)も生まれていますので「御息所」と呼んで差し支えないと思います. ちなみに源氏物語の登場人物の通称(光源氏・頭中将・紫の上・夕顔・六条の御息所など)はすべて後世の人が分かりやすいように帖の名前などにちなんで便宜上そう呼んでいるだけで,紫式部が「この人は明石の上,この人は夕霧」と決めていたわけではありません. 御匣殿(みくしげどの)は装束を調える(お裁縫です)ところで,衣装係の女官たちの長官(御匣殿別当)のことも御匣殿と呼びます. 尚侍はあくまで公式の役目ですので,寝所にはべっていても正式な妻ではありません. 参考URLは天皇の后についてわかりやすく記述されていますので,ご参照ください.
お礼
こんにちは!お返事どうもありがとうございます。御匣殿って装束を調えるところでその長官が御匣殿なんですね。そうすると、御匣殿で働く普通の女の人はなんて呼ばれたのですか?すいません、ちょっと気になりました。紹介していただいたページはわかりやすかったです。奇しくもNO,1の方と同じページでしたね。ブックマークに入れておきます。
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お礼
どうもお返事ありがとうございました!わかりやすいご説明で疑問をきっぱりと解決することができました。紹介していていただいたページもよくまとまっていてわかりやすいですね。またよろしくお願いします。