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神を信じる人の心理について

tumaritouoの回答

回答No.15

永遠と自我の対立の解消が、いつか私にも訪れることを望みます。 貴方に、その対立の解消のメカニズムを説明します。但し是は単なる理屈です。その道に至るには貴方が自分で直接体験する以外ありません。教えると言っても、本当は、教えられないものを、お話します。貴方がその事に気ずく日が来る事を願って。 「悩みと悟り」 悩みと悟りはその両極端の処に在ります。悩みは自我と仏性の対立です、矛盾です。悟りとは自我と仏性の出会いです。 人生最大の悩みとは、死んでゆく自分が存在して、今生きていることです。その時にそれを悩みと感じるのは、「仏性」のせいなのです。それは、不死性を持っているからです。言い方を替えれば「永遠の命」を持っていて、自我に「永遠の命」に対して憧れを抱かせているからです。人間が「普遍の真理、変わらないもの」に憧れるのは、全て「仏性」のせいなのです。それは「二元論」として顕れます。悩みとは「死んでゆく事」対「永遠の命」の対立です。 死にたくないのに死んでゆかかなければならない事、この矛盾です。この矛盾を自我が悩み、として受け取っています。その悩みこそ仏性が起こさせています。それは仏性が「永遠」そのものだからです。それが分かっているから、苦しんでいる「自我」に助けを申し込んでいるのです。ところが、自我が我が強くてそれを、信じられないのです。その一連のやりとりが人間苦、悩みなのです。 悩みの解消は禅の中に有ります。「禅問答」が解ければ、悩みの解消になります。はっきりと解ければ「見性」又は「悟りを開いた事」になります。その時の心は苦しんでいる、自我が仏性の永遠性に触れる事によって、もたらせられます。その事で自分そのものが永遠のものであったと気が付くからです。「肉体というもの」の死は本当のものではないと知るからです。自分の肉体が死んでも自分は死なない、と云う事が分かるからです。その事で矛盾が解消されます。その矛盾を悩みとして感じていたのですから、悩みの解消になります。完全解消です。その事によって、「絶対の安心」が手に入ります。その事を「涅槃」と言います。 どうして「禅問答」が難しいのか?この事を説明するには、人間の脳を知る必要があります。それは左脳と右脳の機能が違う事と左脳に一人の人格が在って、又右脳にも別の人格があってその人格は全く別なものである。従って、一人の人には二つの人格が在る。と言う事があるからです。左脳の機能は言葉を持っていること、論理的に考える事、順序だてて緻密に計算してゆく事等。それに対して、右脳の機能は言葉が無い事、直観的、喜怒哀楽、無意識の中に在る事等。 それでは「禅問答」ですが、これを解く鍵は命掛けの努力を必要とします。自分の全存在を賭けて解こうとすることです。その時に、自我が自分には出来ないと分かる時が有ります。その時は我が降参した時です。我が死んだ時です。「大死一番」した時です。その時に自我の代わりに仏性が出てきて、その問題を解決してくれます。その時が「悟りを開く」時です。お釈迦様の教えは、宗教ではありません。宗教を退けた訳は、ここに在ります。これは精神療法なのです。あまり理解している人がいませんので、認知されてはいませんが。これは心の究極の癒しの心理学なのです。

noname#52670
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 個人的に禅はあまり知る機会がなかったので 良い参考となりました。大死一番ですか。 どうやら私も命がけで解く必要があるようです。

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