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和歌を詠んで
歴史カテゴリーでいいか分からないんですけど…。 元寇のときに朝廷では、和歌を詠んで敵の撤退を祈った貴族や祈祷師が重賞されて、実際に戦った武士は報われなかったため、武士の不満がたまって…という歴史記述がありますが、こうした戦争のときに和歌を詠む、という風習とそれを重賞する、ということはいつごろまで行われていたんでしょうか? 例えば、東京大空襲のときにもやはり和歌を詠んでいたのか、あるいは京都は空襲を受けなかった、それは詠んだ和歌のデキが良かったからだ、と重賞されたとか、そういうきろくご存知の方がいらしたら教えてください。
- minatoyato
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現代まで連綿と受け継がれています 一番判り易いのは 「憲法9条遵守 戦争反対」叫んでいれば 侵略を受けることも 戦争に巻き込まれることも無い 思っている方々です 三権の長を勤めた方にもいらっしゃいます
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