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天皇にはむかった?歴史人物

いわゆる「錦の御旗」に向かって攻撃すると逆賊になると言われますよね?長い歴史の中でさまざまな合戦・戦争が行なわれましたが、大抵の人物(武士)は天皇を自分の味方につけて「己こそが正しい・正規軍である」ことを主張することに力を注いだと聞きます。では、天皇そのものに始めから異を唱えて天皇や朝廷を「打倒」しようとした人物はいないのでしょうか?平将門がそうである・・というようなことも聞きましたが本当でしょうか?

  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • reny
  • ベストアンサー率32% (81/252)
回答No.8

天皇家は室町初期までは、膨大な荘園からの税収に支えられ、十分な力を所有していました。 また土地所有権の認証権を朝廷が握っていましたので(鎌倉以降武士の土地所有権の認証権は実質幕府に移行しますが)、朝廷に反抗すると土地所有権の正当性を失い、周囲の武力集団から狙われやすくなります。 ようするに天皇家に刃向かうことは生産手段である土地を失うことに直結していたので、その流れが天皇家への尊敬と恐れにつながっています。 奈良時代の末から江戸時代の初期(家光あたり)までは、この土地の所有権・支配権の争い(相続争い)と、その権利を認める「権威」が天皇家・公家から将軍家・武家に移り変わる流れとして理解すると分かりやすいですよ。 そういう意味で天皇家の権威に刃向かった人としては、平将門や、鎌倉幕府の北条執権家、室町幕府の足利義満、織田信長、徳川家康・秀忠・家光などが挙げられます。

EU2004
質問者

お礼

土地所有の認証権ですか・・。 奈良の末から家光までとは、長い長い戦いですね・・。(戦いというよりは、まあ、ある程度は半自然的な流れだったのでしょうけれど) 権利の移行はすぐ出来ても「権威」が移行するには、それだけ長い年月が必要である・・ということでもあるのでしょうか・・? ありがとうございました。

その他の回答 (8)

  • fuwaraido
  • ベストアンサー率37% (19/51)
回答No.9

個人的には、平将門が「天皇打倒」を目指していたかと言えば”No”じゃないかと思ってます。 というのも彼は「坂東八カ国の独立」を主張して自ら「新皇」を名乗っていますが、自分の身分 の正統性を「桓武天皇五世の孫」であることに置いていますし、皇室の系統そのものは尊重 していたと思います。 それまで日本の首長に当たる称号が「天皇」しかなかったので、坂東独立国の首長の称号と して「新皇」を名乗ったに過ぎず、京都の天皇家覆滅までは考えていなかったのではないで しょうか。 もちろん、将門の行動が歴史上画期的なものであったのは間違いないことですが。 天皇制の権威に反抗、というよりそれを無用のものとみなしていた点では、天下人ではあり ませんが、足利尊氏の執事・高師直がそういう存在になると思います。実際「そんなに天皇 なんていうものが必要なら木か金かでこしらえて、実物は佐渡にでも流してしまえばいい」 と公言していたそうです。彼にすれば、南北朝の動乱をもたらした皇室の存在が腹に据えか ねるものだったのでしょうね。 主家の足利家が皇室を尊重したこと、彼自身が足利家の内紛の犠牲になったことから実現は しませんでしたが、もし足利家の内紛に勝ち残っていたらその信念を実行に移したかもしれ ません。 ここまで堂々と天皇否定をしたのはこの人くらいでしょう。足利義満は自分の息子を天皇に、 自分は上皇になろうとしただけで天皇制そのものを否定したわけではありません。織田信長 が天皇制の廃止を考えていたという人もいるようですが、仮にそうだったとしても、実際の 行動なり言動なりでそれを直接表明してはいません(時期的にできなかったのかもしれま せんが)ので、表に表れた点だけ見るなら、高師直だけだと私は思います。 まあ、ここまではっきりと口にしたものだから、後世の評判は悪くなりますよね。忠臣蔵の 悪役にされてしまったのは、好色だっ たという伝説のほかにも、こんなところが影響しているのかもしれません。

EU2004
質問者

お礼

わかりやすい回答をありがとうございます。 歴史にIFはありませんが、それでも「もし、将門が鎮圧されなかったら、どこまで自分の国を広げたか」興味ありますね。坂東だけで済んでいたのかな・・。 高師直の言葉も凄いですね。この人のことを知らない・・・(悲  自分が不勉強なのが良くわかります(反省

  • aminouchi
  • ベストアンサー率46% (376/804)
回答No.7

「錦の御旗」に向かって攻撃すると逆賊になると言われるようになったのは江戸時代末期のことでしかありません。この江戸末期から明治にかけての時代は、天皇に新たな利用価値ができただけのことですが、当初は「天皇は稲荷大明神より偉い」ということを宣伝しなければならないほど民衆には知られていない対象でした。一部の武士知識階級にだけ天皇は知られていたのです。まあ、問題は15代将軍徳川慶喜が知識人で「天皇は偉い。」と知っていて「逆賊とされては大変だ」と思っていたことなんですね。幕末維新の志士たちも大名の多くも天皇なんて勝つ方につく(ついた方が勝つのではなく)と認識していたはずです。ただし、維新に成功した薩長連合政府は自分たちを正統づけるためにそして、西欧列強に伍する近代国家とするために天皇を中心とする立憲制の中央集権国家とするために天皇の権威を高めようとしていって戦前の体制ができたのです。 ですから、歴史的に見ると「錦の御旗」(これ自体明治維新以前にあったかどうか疑わしい)に刃向かった例はいくつもあります。平将門はその一例ですがその他にも 天皇に対して謀反をおこしたのではなく「天皇が謀反を起こした」として兵を集めて上京し天皇方を武力で圧倒したものがあります。 当該事件は「承久の乱」で、鎌倉幕府に対して後鳥羽上皇らが倒幕の兵をあげたのに対して北条政子が御家人を集めて演説したときの 言葉が上の言葉です。この乱の結果、朝廷方は大敗し幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の3人を配流し、京都に朝廷監視のための六波羅探題を設置するなどして、鎌倉幕府の権力を朝廷に優越するものとして確立させました。 また、鎌倉幕府末期の中先代の乱から始まり後醍醐天皇政権の成立となる建武の中興は幕府に対する朝廷方の反攻ですが結局のところ多くの武士の支持を得られず失敗します。この時、足利尊氏は自分に都合の良い天皇を擁立させて南北朝時代となるのですが、これだって見方によっては(後醍醐)天皇に異を唱えて「自分が正しい」として「南朝」を打倒しようとしたわけです。のちに足利義満が南北朝を統一させるのですが、この時には朝廷は権力的には有名無実なものとして一般に認識されているわけです。 上のような経緯から考えて、室町後期以後では天皇制は自分に都合の良いどうにでもなるものという感覚ができあがります。つまり、天皇や朝廷はすでに強力なものではなくなっていますから格別に反対したり打倒すべき対象とはなっておりません。 分かり易く言い換えると、それに勝てば世界チャンピオンなら挑戦もするでしょうしがんばりますが、何代も前の元世界チャンピオンに勝っても威張れませんしそれがどうしたと言われるのが落ちですから、せめてその権威だけでも利用しようということになります。

EU2004
質問者

お礼

なるほど・・そうなのですか。 >一部の武士知識階級にだけ天皇は知られていたのです ⇒これには驚きです。「天子様?何それ?」という人のほうが多かったということですよね?民衆はおろか、武士の中にも天皇を知らない人がいた。でも、それならば「逆賊になるのを恐れる」こともないような・・・。だってほとんどの人が知らないならば、恐れることは無いわけですよね?どんなに薩長が宣伝しても人々の中に自覚がないなら責められることはない・・。単純すぎます?(笑 >「天皇が謀反を起こした」 ⇒これは凄いですね。結果も含め、いかに鎌倉幕府が強大だったかが分かります。天皇や朝廷の力が衰退し始めたのはやはり鎌倉幕府の樹立によるところが大きいのでしょうか? なんかさらなる質問をしてしまいました(汗 すみません・・・。

  • silpheed7
  • ベストアンサー率15% (1086/6908)
回答No.6

ちょっと違うけど朝鮮人の李奉昌。 昭和天皇の馬車に手榴弾2発を投げて、暗殺しようとした。

noname#21649
noname#21649
回答No.5

平安末期に「天皇家を名乗ると殺される」時期がありました。3代ほと家系図が飛んでいる部分です。 奈良時代以前の(名称忘却)の乱は.天皇家の相続争いです。自らが天皇になりたくて.天皇を殺すというクーデーターでした。「天皇制の頂点に誰が立つか」で天皇家の構成員が殺人を繰り返していました。「朝廷を打破しよう」ということではありませんが.天皇を殺そうとする争いは続きました。 平安中期以降になると.天皇の懐がさびしくなって.「天皇の....」という紙一枚をいくらで買うか.というないようが普通になってしまい.地方の武家(地頭を含む)がご指摘のような物事をする時代になりました。 一向一基や寺の戦争(兵僧)は「天皇制を破壊して自らが頂点に立つ」という考えはなく.単に天皇の物を略奪して生活改善にあたるという.単なる盗賊の集団です。が.何回かかなり派手な略奪に有っていると聞いています(文書を読んでいないので疑問)。行政府を否定しているので「天皇制を破壊」した例としてあげます。当時の天皇は支配者というよりも.隣家の主(別の統治を行う)という政治携帯が合う時代です。 ただ.このような略奪の中で.紙1枚で食料を簡単に引き渡す地方の武家の存在は重要でした。 「天皇自ら政治を行う」という制度から.武家(地頭を含む)が自治政府を構築する(遣隋使・遣唐使は朝貢貿易です。この時代の日本が独立国と考えるならば.平安中期以降の各地の武家はそれぞれ独立国となります)時代になりました。 対馬のそう氏は.朝鮮への送付文書を適当に書き換えていました。結果として.江戸幕府は朝鮮の属国という文書が朝鮮に残ることになります。武力での倒幕・倒朝廷こそ行いませんでしたが.朝鮮との外交文書において.幕府を否定し.天皇制も否定した人物です(疑問.文書を読んでいない)。

EU2004
質問者

お礼

む・・・なかなか難しい・・・。勉強します(汗 ありがとうございました。

回答No.4

奥崎謙三。強烈です。歴史的人物です。

  • junt
  • ベストアンサー率38% (97/254)
回答No.3

 長い日本歴史の中で、古代の連合王国時代や中世の南北朝を除いて、この日本に別の独立国家を建設しようとしたのは平将門ただ一人でしょう。  天慶(てんぎょう)2(939)年12月15日、藤原氏の氏の長者忠平(ただひら)に『永く半国ヲ領セン』と独立王国の宣言が送られてきます。送った者は、桓武天皇の5代の孫平将門でした。彼は、自ら『新皇』と名のり、常陸国岩井郷(茨城県岩井市)を王城とし、すでに左右大臣、納言、参議、文武百官を任命し、東国の印(国司であることの証明となるもの)を集めていましたが、わずか3ヶ月で滅ろぼされます。

EU2004
質問者

お礼

新皇・・・はじめに疑問に思ったのが正にこの「新皇」でした。将門以外にこういうはむかい方をしたのがいるのだろうか・・と。回答有難うございます。

  • bunbun04
  • ベストアンサー率13% (77/585)
回答No.2

南北朝時代の南朝の公家武将が軒並みそれに当たりますが。有名どころと言えば新田義貞ですかね。 聞いた話レベルになってしまいますが南北朝の南朝の詳しい歴史が公の舞台に出てきたのは天皇制が変わった戦後だとか聞いたことがあります。

EU2004
質問者

お礼

>南北朝の南朝の詳しい歴史が公の舞台に出てきたのは天皇制が変わった戦後だとか聞いたことがあります これはとても興味深い話をありがとうございます!調べてみます(って、すぐ調べられるのか・・・汗)

  • marutarou
  • ベストアンサー率27% (51/183)
回答No.1

まさしくおっしゃるとおりで、古代を除いて、日本史上、反天皇を掲げたのは平将門のみです。 そのほかは、信長でも朝廷の権威には一目置かざるを得ませんでした。戦国時代は無法時代というイメージがあるかもしれませんが、その時代でも、朝廷は高い権威を持っていたそうです。 また、足利尊氏の北朝・南朝の対立や、江戸幕府初期の紫衣事件など、時の天皇と対立した権力者はいましたが、朝廷の権威を否定したわけではないです。

EU2004
質問者

お礼

ああ、やはりそうなのですか・・・。 将門は反天皇だったのですね・・・。 今でも右翼系の人にとっては、平将門といえば我らが敵・・という考えがあるのでしょうか・・・

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