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日本人がなくしたもの。

戦後、50年といつだか区切られましたが、 確かに、あの時代を経験している人と、私達(私は31歳です。)は 一本筋の強さが違う気がします。 中国人の友達に言われました。 「日本の男性は世界で一番人気が無いよ。浮気ばかりする、奥さんを大事にしない  家事を手伝わない、一番人気が無いよ。」って言われました。 まあ、それは何でもそうですが、一概にひっくるめては言えませんので、置いといて。。。。 50歳前後を境目に、それ以上の年代の方は強いなあと、感心させられます。 自己責任の強さを持っておられる気がします。そして、自分の祖母にも 思い当たりますが、泣き言を言いません。 一本強い 心意気を持っているような気がします。 最近、韓国や上海の方が元気ですが、負けたくないですね。 チオビタドリンクのCMの台詞も、よく解るけれど、何か切ないです。締めくくりが。 「ちぢみっぱなしの。。。。。」私達の得意分野や、良い傾向性って なんだったのですかね。文化は消えてしまうのでしょうか。 日本人が元々持っていた気質はなんでしょう? 又、近来日本人が無くしたものはなんでしょう? 何か普段感じていらっしゃる事があれば 教えて下さい。 (まあ、なに人 って国分けして考える事自体おかしいかも知れませんが。〔苦笑〕)

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  • ベストアンサー
  • muratyu
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回答No.15

こんにちは、同世代のものです。 まず戦後の頃の方に対するイメージとしては ・生真面目、目標を目指す、発想と工夫、清貧、頑固、硬派、その他 でしょうか。 その後の経済成長と民主化を伴うに当たり、次第に個人が「自由」と「裕福さ」を得ていったように思います。 人の3大欲求(物欲・食欲・性欲)が満たされ、グラフが右肩上がりになるにつれてそれに反比例し下がってきたものがpapapikoさんの言う「近来日本人がなくしたもの」と思います。 以下は小生の勤め人時代の上司に教わったことです。 戦国時代の群雄割拠の時代、武家の子供は元服した際に初めに教わること・・・はて何でしょう? それは腹の切り方です。(テクニック的なことでは無い) つまりまず元服(成人)して大人としての責任の取り方を教わったそうです。文字通り腹を切れば死んでしまうわけで、責任を命がけで全うしなければならない心意気が感じられます。 これに対し、近頃の元服(成人式)はどうでしょう?もうおわかりですよね。 今時の若集に失いかけているものは「戦国時代で言う侍魂、大戦中で言う大和魂」と嘆いておられました。 (個人的にイチローはこれを持ってるなと感じます) まあ昔は昔で「今の若い者は・・・」なんて事があったでしょうが、それと同様のことを自分は感じるときがあります。これらからすると今の今も「無くしてしまったもの」は完了形でなくまだ過渡期と捉えるのが妥当かな?なんて思っちゃったりしてます。 さて、長くなったので結論といきましょう。 ・近来日本人がなくしたもの =責任感、モラル、やさしさ、リーダーシップ、個性、開拓精神、ガッツ そして足りないものが「危機管理能力」と思います。 食品表示偽装、原発問題、拉致・・・個人に降りかかる危機ってホント多いですよね(笑)

papapiko
質問者

お礼

muratyuさん ご回答ありがとうございます。かなり、同感でかなり納得しました。 もう、意見がほとんど同じです。 気持ちよいくらい感じている事を、文面にしていただきました。あー、すうっとしました。 過渡期ですか、新しい状態は切り開けますかね。 >・近来日本人がなくしたもの >=責任感、モラル、やさしさ、リーダーシップ、個性、開拓精神、ガッツ そうですね。とても大切な物を落としてきた気がします。 後、私が思うのは 我慢と 奥ゆかしさ。 後は、他の方の上げて下さる物も 同感します。 >食品表示偽装、原発問題、拉致・・・個人に降りかかる危機ってホント多いですよね(笑) ええ、基本的に 人を小馬鹿にした気持ちから起こってる気がします。 ありがとうございました。

その他の回答 (30)

回答No.31

再回答をしようと思ってやってきましたところ、無念にも締め切られておりま したので(T_T)、管理人さんにお願いして、「追加回答」という形にしていただ きました。駄文ではありますが、お読みいただければ幸いです。    前回私は経済的側面からのアプローチを試みましたが、仕事の都合で、中途半 端に終わってしまいました。そこで、その続きから・・・  いくらか話の間口を広げ過ぎかもしれませんので(笑)、少々照準を絞り込みま しょうね。  仮にpapapikoさんが「50歳前後を境目に、それ以上の年代の方は強いなあ と、感心させられます」とお思いなのであれば、それは貧乏を知ってるか否かの 差も影響しているような気がするのです。 papapikoさんのおっしゃる「強い」 という言葉には「価値観の確立がしっかりしていて、少々のことには動じない」 という意味も含まれていると勝手に解釈しているのですが(間違っていれば遠慮 なくご指摘ください)、貧乏な時代を経験しているのとしていないのとではかな り大きな差がありますからね。つまり貧乏(生活)が怖いのとそうでないのとでは 価値観の確立の仕方が違います。  もともとモノや金がないのが当たり前の時代や生活を知っていますから、それ らに引き摺り回されるような価値観は持っていないのです(こういう書き方をす ると必ず「そんな人ばかりじゃないよ」という類の反論を受けますが(笑)、当た り前です。これからの話も含めて、全て「相対的な割合、比較の問題」としてご 理解ください)。「濡れ手に粟」のようなあぶく銭を手にした俄か成金はこの限 りではありませんが、額に汗して働き、僅かずつでも日々の糧を得ながら徐々に 財産を形成していったようなかつての日本人の多くは(何と言っても殆ど農民 だったわけですからね。「額に汗して」しか手にはできなかったのです)やはり お金に振り回されたりはいたしませんでした。モノのない時代を生きてきていま すから、人間の生活に本当に必要なモノをきちんと理解しているのですね。    つまり「華美・贅沢」ではなく「質素・倹約」を無理なく実行できるというこ とです。こうした生活の延長上に価値観というものが形成されてゆくとするな ら、papapikoさんはどちらがよりブレの少ない、確固たる価値観を持てると思わ れますか? 華美・贅沢は、しようと思えばキリがありません(笑)。際限なく華 美・贅沢に溺れてしまうものなのです。そりゃそうですよね。200万の車に乗っ た後には300万の車に乗りたくなる。300万の車に乗った後には400万の車 に・・・  今でこそ景気が悪くてそういう贅沢も考え直されるようになりましたが(笑)か つての日本は一時期そうしたバブリィさに浮かれていました。「消費は美徳だ」 とばかりに・・・    しかし、確かに400万のくるまより800万の車に、800万の車より1000万の車に 乗った方が快適でしょうが、はっきり言って「同じ時間で移動できさえする」な ら5万円の中古車でも充分なわけです(笑)。実用性という面から考えるなら、快 適さなど二の次、三の次で構わないのです。しかし、この快適さを求めて人間は 次から次へと新商品を開発し、売り手の巧みな宣伝に乗せられ、消費者は本来不 必要なものまでも購買意欲を掻き立てられ、ひたすら贅沢な方へと突っ走ってき ました。その結果私たちの身の周りには生活に必要ではないモノで溢れ返り、何 が必要で何が不必要なのかさえ分からなくなってきているのが実状です。私たち は辛うじてその反省ができる世代ですが、今の10代、20代の方々は、余程自覚的 意識的でない限り、そうしたことを振り返ることは難しいのではないでしょう か。つまりは貧乏な生活、時代を知らずに育ってきた世代なのです。「振り返 れ」という方が酷だ(笑)。  こうした観点に立って考えるなら、やはりpapapikoさんがお考えになるよう に、『50歳前後を境目に、それ以上の年代の方は強い』でしょう。言い方を換 えるなら、価値観を確立するのに余計なことは考えなくて済んでいるわけです (笑)。素朴に「生きるに当たって最低限必要なモノは何か」と考えるだけでいい (笑)。しかし、今の若い世代はそういうわけにはいきませんね。「生きるに当 たって快適であればあるほどいいモノとは何か」と模索し続けている。片や諦め の心境、片や諦めきれない心境(笑)。どちらがより潔い人生観、価値観を持てる かは一目瞭然ですよね(笑)。  恐らくpapapikoさんの感じていらっしゃる「強い」という印象はその辺りの、 《素朴にして簡明率直なる価値観》を指してのことだと思うのです。ですのでそ れであるなら、私に言わせると、それは「時代の生んだ僥倖か」と・・・  決 して古い世代の人間と若い世代の人間の、その人間性の差ではないと思うのです (当たり前ですが)。今仮りに本当に貧乏のどん底で喘がなければならないような 時代が来るとすれば(かなり無理のある設定ですが(笑))、今の若い世代も案外 やってくれるんじゃないかと、実は密かに期待したりなんかするんですね(その 為にはものすごい価値観の転換が必要ですが)。昨今「景気が悪い」「所得が下 がった」「暫くこの不況が長引きそうだ」等々言われていますが、日本はまだま だ豊かです。  さて次へ移ります。  「やせ我慢の思想」・・・(戦後の)日本人が失ったものがあるとすれば、この 「やせ我慢」というのもそのうちのひとつに挙げられるような気がしています。 これ所謂「もののふ」の精神ですね。「武士は食わねど高楊枝」。この精神は私 たち親の世代(papapikoさんにとっては祖父母の世代でしょうか)が私たち子供の 世代に口を酸っぱくして、そして身を以って教えてくれた精神でもありました。 極貧の時代、私は母が物を食べたそうにしていた姿を見たことがありません。い つもニコニコと私たち子供の満腹そうな姿(現代ほど美味しいものを心ゆくまで 満喫できたわけではありませんが、それでも貧しいなりに満足感があったわけで す(笑))を見て微笑んでいました。でもその実、お腹をすかしていたんですね。 子供心に今も焼き付いている母の姿があります。  少しばかり汚れのひどい川で子供の私は鮒を釣ってきました。かなり大きな鮒 でした。これを食べる食べないで少しもめたのですね(笑)。あまり衛生的にはよ くないという理由で母は私にそれを食べさせようとはしませんでした。その夜、 目覚めてふとトイレに立った私の目に、その鮒を焼いて食べていた母の姿が飛び 込んできたのでした。私がまだ5、6歳の頃の記憶です。そんなに幼かったにも 関わらず、一瞬にして私の中で何かが了解、得心できたのでした。「この精神は 何だ」と。「このやせ我慢は何でだ」と。勿論5、6歳の私がそんな言葉を知っ ているはずもないですからこういう言葉で考えたはずもありませんが、今になっ て振り返るとやはりそういう思いで当時の母を眺めていたことは間違いありませ ん。早くに夫を亡くし、子供を4人抱えての極貧の時代でしたからそうしたエピ ソードには実は事欠かないのです(笑)。  母は恐らく「やせ我慢」の人だったろうと思います。泣き顔を見たことがない のです。そして寝ていた時の顔すら幼児期には見た記憶がありません(一緒に寝 てもらった時は別ですよ。寝床で童話を読んでもらっているときなど、私より先 にウトウトし始める母を突付いては目覚めさせ、本の続きを読んでもらっていた 記憶があります・・・笑)。いつ寝て、いつ起きてるのかすら、まるで分かりま せんでした。今振り返っても、「俺なら大泣きをするところだな」というシーン でも、愚痴ひとつ、涙ひとしずくさえこぼさなかったのです(『そして、自分の 祖母にも思い当たりますが、泣き言を言いません。 一本強い 心意気を持って いるような気がします』とpapapikoさんも質問文で書いていらっしゃいますが、 そうした意味ではまさに「時代の精神」を体現していたのでしょうネ)。その日 その日を生活していくのに一所懸命で、泣く暇さえもなかったのかもしれません が(そう言えば随分後になって母はそういうことを話しておりました)、腹を据え た人生だったような気がしております。  そして日本がまだ貧しかった時代、多くの大人たち、親たちはそういう生き方 をしていた(余儀なくされていた?(笑))と思うのです。極貧の母子家庭に贈与さ れていた真新しい文房具類も1、2回受け取っただけで早々に断ってしまいまし た(何でクラスの数人しか貰えないものを私が貰えるのか、実はよく分からな かったのです。成績優秀、品行方正、眉目秀麗(ぉぃ)ゆえかなとも感じていたの ですが、 m(_ _)m それなりに晴れがましく受け取っていたものですから(笑)、 それを母が断った時には何だかとっても悲しくなりました。今振り返っても受け 取るに充分な貧乏家庭だったのに(笑))。  翻って現代。《たとえタダで手に入ろうともそれを受け取ることは誇りが許さ ない。私は物乞いではないのだから》という「建前主義」から《くれるものは何 でも受け取ろう》という「本音主義」に移行してしまいました。極々卑近な例え で申し訳ないのですが、例えばここに援助交際をしてお金を稼いでる女子高生が いるとします。そしてそれを嗜める親友がいるとしますね。すると今の子たちは (勿論その割合が高いとは決して思いませんが)「何よ、自分だけいい格好して。 ホントはあなたもお金が欲しいくせに」という発想をしてしまう(ような気がす る)のです。「私は本音で人生を生きてるの。あなたみたいに嘘臭い建前なんか で生きてはいないのよ」・・・ プロフェッショナルでもない、ごく普通の女子 高生の言葉としてはやはり異常ですよね。言葉だけがひとり歩きしている。   どうしてここまで「建前」は嘘臭いものになってしまったのでしょう(笑)。私 は「建前」は極めて重要でかつ大切なものだと思っています。これを「亡き者」 にしようとするのであれば(笑)、人間は皆己れのだけの孤独な世界に向かわざる を得なくなるような、換言すれば、《社会生活》というものが営めなくなってし まうような気がします。建前があるから社会が存在し得る。不用意に本音を垂れ 流さないからこそ《あなたがたと私》が生きていける。  ・・・やはり《本音》って人間臭いんですね。それに対して《建前》と言われ るもののよそよそしさ、しらじらしさ。いいかっこしい(笑)。それでもやはり 《本音》と《建前》は使い分けられなければならないと私は思うのです。本音を 言うべきところで建前を言うから混乱を招く。或いはその逆で、建前を通さなく てならないところで本音を語り合おうとするから渾沌としてくる。この境界線を 明確に意識し得る《知性》が弱まってきているような気もしています。  かつての日本人はその境界線を明確に引けていた、或いはそれが褒め過ぎなら ば、少なくともその境界線を引こうとしてやせ我慢をしていた。・・・「恥の文 化」が明確に存立し得た時代です。言い換えるなら今はかつてのような「恥の文 化」が痩せ衰えた時代だと考えられます。平気で他人のものをひったくる。力の ない弱者に容赦ない攻撃を加えようとする(これはホームレスの人たちに対する バカガキどもの情けなくなるような短絡的暴力行為を考えて下さっても結構です し、女性、お年寄り、子供だけを狙った数多くの犯罪を想起してくださっても結 構です)。これを投稿する直前、皆さんのご意見に目を通させて戴いたのです が、No.10でkonkon0421さんも言及していらっしゃるようですね。話題として挙 げられているようなテレビは私も一切見ません。秋元やすし氏ととんねるずの組 み合わせはさすがに知らないのですが、その手の番組は見るに耐えません。中に は反吐が出そうな愚劣な番組もあるようですが、そんなときはすぐにテレビを消 しています。本当に「恥も外聞もなく」といった印象ですね(笑)。  でもやはり私は思ってしまうのです。このような思慮の浅い、愚かな子供たち を生んでしまったのは私たち親の世代の責任以外の何ものでもないのだと・・・   即ち、彼らの家庭が壊れてしまっているのです。それはひいては彼らの本音 を心ゆくまで聞いてやる場所が失われているということなのです。「家庭」とい う《本音を語れる場所》がないのなら、《本音を語り合える仲間》を求めて新し い集団、(擬似)家族を築こうとするのは、言わば人間の本能と言ってもいいもの です。まことに残念ながら、今、日本の家庭は壊れつつあるようです。みんなが 自分の幸福を追い求めようとした結果かもしれません。自分の幸福を追い求める こと自体が悪いことであるはずもない。でも、いかんせん、自分の幸福の追求の 度が過ぎたようです。「青い鳥」はどこへ行ったのでしょうか。    かつて日本の家庭には「嫁」に犠牲を強いる時代がありました。女性にとって は受難の時代だったと、現代から振り返り見てもそれを実感いたします。今はそ の点、嫁が不幸ならいつでも離縁状を突きつけられる時代になりました。生活 力、経済力を女性が身につけてきたことは、皮肉でも何でもなく、本当に素晴ら しいことだし、これからもそういう方向で時代が進んで欲しいと思うのです。嫁 が犠牲を強いられていた時代、その犠牲にすら気づかず、バカな大黒柱はのうの うと、またのんべんだらりと生きていたわけです。現代はまさしくその時代を 知っている女性たちの逆襲が始まった時代なのかもしれません(笑)。  さて、この構図を現代に置き換えてみましょう。今の時代、家庭の中で一番我 慢をしているのは誰だとpapapikoさんは思われます? 父親? 母親? 子供た ち?・・・・・・??? それとも全員が少しずつ? はたまた誰も我慢なぞし ていない?(笑)  一般的に言えば、現代の家庭は渾沌としてきています。大家族から核家族へと 移行していく中で、誰を中心として動けばいいのかのスタンスを、子供たちは見 失った。子供たちはこうした状況の中で何を思っているのでしょうか。子供たち は《行動基準》を学びたがっているのだと私は思うのです。でもその行動基準を 学べる確固たる相手がいない、分からない・・・    誰が家では一番偉いのか、次に偉いのは誰なのか。これは一見愚かしい順位付 け、権威付けのように感じられるかもしれませんが、物事に中心があり、それを 取り囲むようにして諸々のものがあるのだと知ることは極めて大切なことかと思 います。え? 「それじゃあ犬や狼の社会と一緒だよ」「封建社会のにおいがす るよ」って?(笑) でもそれが真実なんです。命は常に秩序の在り処を求めま す。心臓が心臓の場所にあり、肝臓が肝臓の場所にあり、腸が腸の場所に位置し て初めて有機体としてのこの体が生き生きと動き始めるように、全てのものに中 心があり、存在すべき位置があり、それを取り囲むものがあります。子供たちは 「我が家では誰が一番偉いのか」と取るに足らない順位付けをしながらも、同時 にそのすべての人たちが掛け替えのない存在だと、本能的に気づいています。取 り敢えず彼らは言ってみるだけです。「ボクンチではお父さんが一番偉 いっ!」って・・・(笑) (実質の伴わない「父の偉さ」でしたが(笑)、その 「偉さ」を支えていた「母の偉大さ」たるや、ただものではない?(笑)。)   でもこれは子供という、未だ未熟な存在からすれば極めて重要な事柄に属しま す。《秩序》というものが乱れれば家庭が乱れ、地域が乱れ、社会が乱れて、国 家が乱れます。かつての日本人は現代の日本人に較べても「秩序」というものを 重んじていたように思います。秩序が保たれて初めて自由という概念も理解でき るのですが、秩序は無視して自由だけを享受しようとしたものですからおかしな ことになってしまったのでした。(笑)。  「誇り」も戦後の日本人が失ったもののひとつでしょう。戦後の教育を、誇り を奪われた教員たちが担ってきたのですから、その教え子たちが「誇り」を失っ ても何の不思議もないかと(笑)。「日本人としての誇り」と言ってもいいのです が、こんな言い方をするとすぐに「右翼か?」と鼻白む人たちもいるようで (笑)、そういう誤解を避ける意味で、「人間として」と言い換えても構いませ ん。「人間としての誇り」を失っていることを一番よく窺えるのが「性」に関す る世界でしょうか。話が舞い戻るようですが、「援助交際」を初めとする、その 他様々のそうした類の「性モラルの低下」はやはり相当なものでしょう。いえ、 「フリーセックス」が悪いというのではないのです。「フリーセックス」なる言 葉はもはや数十年以上も前の言葉で、何も昨日や今日言われ始めた「性のあり 方」ではありません(笑)。私がここで「モラルの低下」と言っているのは、そう したフリーセックスを強調してきたあまり、性の世界だけが何だか別の世界の生 き物のように誇大宣伝され、拡大解釈されてきたということです。その結果「性 に対するいびつな欲望」だけが異常に膨れ上がり、性を「売り物」にした犯罪が 横行するようになってしまったということです。もしもこれを「性のモラルの低 下」だと感じないのなら、戦後57年をかけて、何かが功を奏して(?)、知らず知 らずのうちに私たちの性に対する感受性が鈍化してきた(鈍化させられてきた) ということでしょう。  何故人間としての、或いは日本人としての誇りをここまで失ってしまったので しょう。「本音を垂れ流すことがより人間らしい」という価値観が流布したせい でしょうか。「性」を売り物にして街を徘徊する少女たち。それを求めて同じく 街を徘徊する、欲望に取り憑かれた大人たち・・・ こういう風景のどこに人間 としての誇りや矜持があるのでしょう。《知性を持った人間としての行為》とは 程遠い、《動物的行為》に堕してしまっているのです。それともその「《動物的 行為》をするのが人間らしくて素晴らしい」と戦後すぐの日教組は教えてきたの でしょうか(笑)。(これもNo.14でanser2002さんが話題に・・・)  そんなはずはありません。そんなはずはないのに、結果的にそうなってしまっ た。ここ(戦後すぐの日本)には相当に深い《価値観の喪失》を見る思いがしま す。そりゃそうでしょう、勝つと信じて戦った大東亜戦争に敗れた。一部の人間 だけがその鋭い知性で「負ける戦争だ」と分かってはいましたが、多くの日本人 はやはりこの戦争に勝てると信じて銃後の守りを固めていたのです。情報が正確 に伝わらなかった(伝えられなかった)為の悲劇と呼べるのかもしれませんが、そ れはともかくも《大和魂》は玉砕しました。  そして《アメリカ的民主主義》の押しつけ(笑)。ここで我が日本は衝撃的な価 値観の転換を強制させられました。天皇NO、日本的家族の在り方NO、国防NO、そ れまでの一切の価値観NO(笑)。こうした衝撃は日本人全体を覆ったのですが、中 でも特にこの価値観の転換に衝撃を受けたのは、所謂エリートと呼ばれた層でし た。腹の据わったエリートこそ軽挙妄動を慎みましたが、腹の据わらない、頭 デッカチの、蒼白い顔をした線の細いエリートたちは烈しく衝撃を受けたのでし た。これを理解するのは少しも困難なことではありません。今の外務省。この姿 こそ戦後のエリートたちの腑抜けぶりを示して間然するところがありません。今 は北朝鮮の拉致問題で右往左往していますが、実に腹の据わらない外交ぶりで す。日本という国家の主権というものを一体どう考えているのか、理解に苦しむ 対応です。「いや、そうは言われても、これでなかなか北朝鮮問題は大変なので す」と弁解するでしょう。私に言わせるならそうした弁解のある時点でもう信ず るに値しない省だと思える。尤も、我が国には北朝鮮とつるんで利益を得ようと している輩もいるようですから(笑)、北朝鮮のみを責めるわけにもいかないので しょうが・・・  今でこそ外務省は獅子奮迅の活躍をしているかに見えますが、その実自分たち の犯してきた失点を取り戻そうとしているに過ぎません。拉致された家族の方々 の悲憤慷慨を他人事として拱手傍観してきたからこそ今回のような悲劇を招来し たことを、役人も国会議員も銘記すべきでしょう・・・  「役人の保身」とい うものは実に手のつけられないものではあります。  こうしたところにも戦後の日本人が失ってきた民族としての誇り(私は決して 右翼ではありません。私が右翼なら全体がかなり左に寄ってしまっているという に過ぎません・・・笑)、国家としての主権を思わざるを得ません。  「中庸の徳」・・・アリストテレスと儒教の思想・概念がありますが、そうし た難しいことはともかく、ここはごく凡庸に解釈しておきましょう(笑)。つまり 「すべてほどほどのところに幸せを見出だす」。これを「より上を目指す向上心 はほどほどに」と理解するのは誤解だと思います。これは「向上心の否定」を 言っているのではなく「足ることを知れ」と言っているのだと思うのです。しか し戦後の日本はひたすら経済成長を志向し物質的繁栄に酔い痴れてきた(これら を悪いと言っているのではないのですよ。物事を「善悪の価値基準」で単純に一 刀両断してしまうことは愚かなことです)。その過程で、さらによいモノを、さ らに快適なモノを、という習慣も身に付けてしまいました(笑)。世界に冠たる技 術立国日本の面目躍如です。しかし、カネのない人間たちまでもが錯覚をしてよ りよいモノ、高価なモノを所有するようになった。あるいは所有したいと思うよ うになった。「貧乏人はムギを食え」などと言うつもりはありませんが(笑)、こ うした錯覚が銀行を唯我独尊にさせ、消費者金融に殷賑を極めさせ、あの悪名高 いバブル狂騒をもたらした原因であることを肝に銘じたいですね(飽くまで一要 因であって、全ての原因では勿論ありません。念の為)。  なぜ金もない学生が300万もするような高級車に乗る必要があるでしょう。な ぜ年収5、6百万のサラリーマンが7、8千万もするようなマンションを購入する 必要があるでしょう。人が持っているから? 他人が住んでいるから? 私たち の親の世代には(大正生まれ)そうした錯覚を持つ人々は少なかったように思いま す。つまりは「分際」を弁えていました。そして「確かな幸せの価値観」を他に たくさん持っていました。決してモノやカネに執着していませんでした。小金を 貯めても、決してそれを無駄な消費に回そうとしない。生活に必要なものは買う が、そうでない贅沢品は買わない。買ってもムダに性能のよい高価なものは買わ ない。この性能さえあれば充分、という安価なものを買っていた(笑)。しかし日 本は一気に金持ち国家になって、みんな錯覚してしまいましたね、「私も金持ち なんだ」と。「だから高級車にのり、高級マンションに住むのだ」と・・・ 結 果はご覧のとおりです。  「ほどほど」ということを知っていれば迂闊に他人の物真似などしなかったは ずです。あるいは「分際を知る」という智慧があったら(・・・とっとっ と。。。これもNo.13でhatuhatuさんが触れていらっしゃるようです。案外考え ることは皆同じだったりなんかして^-^;)、ここまで借金で苦しまずに済んだわ けです。「上昇志向」が悪いはずもありませんが、身の程を弁えない、足ること を知らない、ということになれば、欲だけが膨らんで空回りを始めるだけです。 貧乏な時代を知らない今の若者たちはどうもこの落とし穴に容易にはまってしま うような気もします。「カネがなけりゃ借りればいい」・・・この発想は人間を だらしなくさせてしまいます。「カネがないから辛抱しよう」こう考えることが 当然だし、その結果、精神(心)を引き締めもします。papapikoさんが若い世代と 50歳前後から上の世代を比較されてみて、「どうも何かが違う」とお感じになる ことがあるとすれば、こうした考え方ができるのか否かという点も大きいのでは ないかと思うのですが・・・  さて、話が延々と続き、まことに申し訳ありません。そろそろ終わりにしま しょうね。  で、最後に今話題の北朝鮮拉致事件。それに加わったとされるよど号ハイ ジャック犯の面々。そして浅間山荘事件を起こした連合赤軍の面々。その数年前 に(昭和45年11月25日)自らの命を賭した衝撃的な事件を目の当たりにしている私 とすれば「何と生ぬるい、自分勝手なことを言いたい放題に言い散らかして責任 を取らない腑抜け野郎たちだろう」と・・・(連中は殆ど50代ですが、どういう 家庭環境に育ったのか知りたいものです。恐らく経済的には豊かな層だったので はないかと思いますが。)  そして同時に私たちの親の世代があのように情けない口調で「○○ちゃん、出 てきなさい。もういい加減にして。皆さんに迷惑をかけないで・・・」と訴えて いる姿が不思議ですらありました。彼らがブルジョア層だと言えばそのとおりな のでしょうが、20歳を優に越えた自分たちの息子に向かって「○○ちゃん、もう 出てきなさい」だとは・・・ (・・?)  そして誰一人自らの命を絶つことな く(自裁することイコール事件の責任を取ることだとは勿論考えていませんが)ぬ けぬけと全員投降。北朝鮮にこの世の浄土を夢見て飛び立ったはずの連中もやり たい放題のことをした挙句、日本に帰国したいと。そこには「何らかの美学に基 づく行動原理」というものが感じられません。即ち、行き当たりばったりの出た とこ勝負。自分に都合が悪くなれば尻尾を巻いて逃げ出してくる。「責任の取り 方」というものを知らない。ここでも「恥の文化」はものの見事にして破壊され てしまっています。「恥を知れ」とはまさにこのようなことかと思うのです が・・・    そして、これもNo.15でmuratyuさんが触れられているようですね。「腹の切り 方」と・・・まさにそのとおりです。無論「腹を切ること」そのものが目的であ るはずはありません。「道を過たばいつでも《腹を切る》」との覚悟がその人の 生き方を潔いものとし、責任感溢れる行動を取らせるのだと思うのです。  あれだけの迷惑行為を我が息子が為すのであれば、私は警察に頼み込んで自ら 「狙撃手」を買って出ます(笑)。自らの思想・行動に信念があるのなら、なぜそ れなりの覚悟をして事に臨まないのか・・・  papapikoさんの提示された「日本人の失ったもの」という壮大なテーマに思わ ずあれやこれやと考えてしまいました。「無駄に言辞を弄しすぎたかな」とも反 省しております(汗)。まだまだ考えればたくさん出てきそうですが、今回はこの 辺りでやめておきましょう。キリがありません(笑)。    「日本人が失ったもの」・・・「人間としての誇り」「日本人としての誇り」 「弱者をいたわる思い遣り」「お年寄りや目上の人に対する敬愛と礼節」「赤 ちゃんたち(次世代の若者たち)に託す夢と希望」「恥を知る心」「やせ我慢の思 想」。そして自分を生んでくれたもの(直接的には両親であり、祖先であり、ま た間接的には創造主でしょうか)に対する畏敬、敬愛、親愛・・・  権利ばか りを主張して義務を果たすことを知らない日本人が増えてくるなら、日本が滅ん でしまうのは時間の問題かもしれません。  あれやこれやと書いて参りましたが、しかしながら私は「かつての日本、そし て日本人はよかった」的な詠嘆調の懐古趣味は持っておりません。事実、日本が これだけ物質的経済的に豊かになったのは無条件にいいことだと思っております し、家族や社会における嫁、或いは女性の立場が向上したのも幸いだったと思っ ています。物事にはすべて光の部分と影の部分があります。物質的繁栄、女性 (or嫁)の立場の向上等々を光の部分だとすれば、影の部分は以上述べてきたよう なことになるのでしょうが、歩むべくしてこの道を歩んできたのだと思います し、行き着いた先がこの有様だとするなら(いろいろな意味で)、これもまた私た ち日本人に様々な思いや感慨(反省も含めた)をもたらすという側面もあると思う からです。そしてそれを基点とすることができるなら、これから先(いつ頃にな るかは分かりませんが)、素晴らしい、魅力的な日本人、日本国が再生される可 能性もあるわけです。(^-^) (勿論その逆もあり得ます。どう向かうかはそれこ そ日本の指導者次第、または日本人一人ひとりにかかっているのでしょう。)  どこぞの国の指導者が「あと百年もすれば日本という国はなくなっているだろ う」などとノストラダムスばりの予言を得意げにしていたようですが、日本人独 特の精神・思考のしなやかさ、やわらかさ、そしてしたたかさを回復することが できるなら、決して悲観することはないと私は信じています。  いや、長々と、大変失礼致しました。急いで書いたものですから推敲も充分で なく、読みづらい箇所もいくつか(たくさん?^-^;)ありそうですが、何卒ご容赦 ください。ひとつひとつのテーマに関しては充分論じきれていませんし、全てが 中途半端に終わってしまった感じもするのですが、それらは各自が将来に亘って 考え続けていかなければならない問題として捉えて頂けると幸いです。(^-^;  長々とお読みいただき、有難うございました。またどこかでお会いしましょ う。(‘ー‘)/~~ (・・・え? もう関わりあいたくない? そっ、そんな ~っ!) ※追記:文章を書き終わって初めてここに寄せられた多数の回答を読ませて頂い たのですが、あちこちで重複している意見が少なくないようですねえ。同じよう なことを考えている人が少なからずいるということでしょう。その意味では意を 強くしますね(笑)。

papapiko
質問者

お礼

masatoshi-m さんへ 質問を締めきりましたのに、一番熱い、情熱的なご回答を頂きまして、感謝しており ます。 私の胸につかえていた物がキレイに80%近く、すうっと流れ落ちた感じです。 お母様のお話、感動しました。 素敵な女性にmasatoshi-m さんは育てて頂いたの ですね。 切腹のお話ですが、そうなのです。私も感動致しました。腹を切る事にではありませ ん。 成人した者に、自分の始末のつけ方を教える、厳しさに感動しました。 私自信、育ての母に昔手紙で頂いた文章がありまして、20才になった頃、仕事を辞 めた時です。 電話などではだましていても、親やきっとご神仏は、生きかたを問うてくれる存在で あり 目を見たら、何もかもお見通しなのでしょうね。 その時分、私は世の中を恨んでました。口ではだましていても、心の中では、自分の 環境を再度恨んでました。そして、とても刹那的な生きかたを1人暮しでしてまし た。 何かの拍子で、育ての母が私の(死んだ魚の目)異変に気付いた時、しかりの手紙を 頂いたのです。 切腹ほどは厳しくはありませんが、自分の尻は自分で拭う事を教えてくれました。 又、育ての母自身が、私にはマネが出来ない様に、常に責任や、腹をくくる事と背中 合わせで 生きた人だから、言える事で。。。母が叱ってくれた事は私の中の宝です。 二十歳に成れば自分の賄いは自分でしなければいけない、自分が頑張らなければ誰も 助けてはくれない、しっかりしなさい!!って、教えてくれたんですけどね。 戦後までに、そして戦後の狭間で生きて来た人は強いです。 masatoshi-m さんのご回答には、うなずく事ばかりそして、教わる部分が多くあり ました。 家族の柱についてもそうですよね。大切な事なんですよ。 >あちこちで重複している意見が少なくないようですねえ。同じよう >なことを考えている人が少なからずいるということでしょう。その意味では意を >強くしますね(笑)。 これも全く同感です。私は、このような意気込みも含め 今回の疑問をあげました。 諦めたくないです。  >またどこかでお会いしましょ う。 >(‘ー‘)/~~ (・・・え? もう関わりあいたくない? そっ、そんな ~っ!) クククッ。心配しないで下さい。関わりたいです喜んで。 こんなに沢山のご回答をして頂いて、本当にありがとうございます。 時折、読み返したいと思います。 >どこぞの国の指導者が「あと百年もすれば日本という国はなくなっているだろ >う」などとノストラダムスばりの予言を得意げにしていたようですが ふざけんなあ!って感じですよね。私はこの四季に包まれた日本が大好きです。 日本食も大好きです。 黒い瞳も、黒い目も、肌色の艶も、日本語も、大好きです。 100年たっても無くしたくないです。勝手なこと言うなって、反発したくなりま す。 おかしいですかね?負けたくないですよ!色んな意味で、世界とひるまずこれからも 日本は戦って欲しいですね。 >日本人独特の精神・思考のしなやかさ、やわらかさ、そしてしたたかさを回復する ことが >できるなら、決して悲観することはないと私は信じています。 はい、賛成です。(^▽^)!! 諦めたら終わりですよね。 >そして同時に私たちの親の世代があのように情けない口調で「○○ちゃん、出 >てきなさい。もういい加減にして。皆さんに迷惑をかけないで・・・」と訴えて >いる姿が不思議ですらありました。 笑いますよね。 働く小学生をしていた私にしたら、鼻息でぶっ飛ばしたい感じで笑っちゃいました。 ○○ちゃん なんて、親に言われた事無いよ。。。。 さて、私も自分が今まで出会ってきた、先人に見習い頑張ってゆきます。 ありがとうございました。 P・S 私自身も少々 時間に追われていたので、ゆっくり読ませていただきまし た。 大切に読み返します。大切なお時間を分けて下さり、感謝してます。 これから寒くなりますので、お体ご自愛なさって下さいね。 

  • takatozu
  • ベストアンサー率26% (69/258)
回答No.30

 はじめまして。  そうですね。日本人はいろいろなものを無くしてきたようです。  義務感・礼節・信仰心・・・等々  私は、戦後教育で「誤った自由」が刷り込まれてしまったのと、拝金主義が蔓延してしまったのが主な原因だと思っています。  本来日本人は、「八百万の神」という言葉からもわかるように、生活の中のあらゆるところに神を持っていました。  それは、自然への畏敬の念と人としての良心を、神という形で表現し自己の行動に反映させるものだったと思います。  神という心の中の規範なしで「個人の自由」が優先されれば、とんでもない社会になってしまいますよね。  加えて、その自由と対をなす「義務」があまりにもおろそかにされています。  戦後日本には復興という現実の問題がありました。  ですから神なんてことは二の次だったでしょうし、その時を生きていた人は「もっと豊かに」と純粋に頑張ったのだと思います。  しかし神不在の中「もっと・・・」という心は次第に欲に変わり、拝金主義が蔓延していったのでしょう。  以上2点が主な原因と思いますが、その他の要素も複雑に絡んでいる気がします。  日本はどうなってしまうのでしょうね・・・  お互い頑張って生きていきましょう。

papapiko
質問者

お礼

takatozuさん こんにちは、ご回答ありがとうございました。 >「誤った自由」が刷り込まれてしまったのと、拝金主義が蔓延してしまったのが主な原因 私もそう思います。刷り込まれて、自分の能力で考えて意見を言う事を、置き去りにしている気もします。 >「八百万の神」 こちらの意見も賛成です。敬意を表す、感受する事が鈍りすぎたと思います。 生かされている存在だと、理解している人が減りすぎたそう思います。 takatozuさんのおっしゃる要所は、ほぼ同意権です。そしてそれを思うと イライラしてしまいます。(苦笑 なんでかな?って。何で、こんなに自分勝手ばかりで、敬意を失ったのかな。 このままかな?って。 >日本はどうなってしまうのでしょうね・・・ >お互い頑張って生きていきましょう。 はい、今回沢山の方のご意見を聞いて、尚、しっかり自分の立ち位置から 考え直してゆきたいと思いました。 頑張りましょう。 大体、昔の方のいい所、(日本人らしい)と言われる部分も、まだ少ないでしょうが ポイントが見え隠れして、皆さんのおかげで尻尾がつかめそうです。 そういう日本人らしい、良いところを 見習いたいと思います。 志と、心意気は高く持っていなければいけませんね。 自分も、自由と自分勝手と、はきちがえないように、がんばります。 ありがとうございました。

  • ssiinn
  • ベストアンサー率31% (22/70)
回答No.29

二度目の回答です。papapikoさんの質問とその回答を楽しんで拝見しております。 勝手に私なりに、整理しますと、 まず、現代の私達(日本人)が有する、抽象的(かつ普遍的、一般性があると思われる)人間性と、先祖が有した抽象的な人間性を比較して、 その両者の差異が有る場合に、その差異が「失われたモノ」とするか、 単なる「差異」であるとするかであると思う。(またここの「差異」自体が存在しないと言う人もいると思われる。) 次に、差異が有るということを前提として、その抽象的な概念の差異は様々に有るとおもわる。その様々な概念は個々に繋がりがある場合があるであろうが、あえて個々に区切って考えたる必要もあるであろう。 そして差異を比べた場合に、その個々の「差異」は、日本特有の時代の変化により生じたものであるか?、 世界的な流れとしての、現代化として生じたものであるか?両方入り混じっての結果であるか?という問題もある様に思われる。 発展国の現代社会は世界の歴史的にも、過去にもないほど時代の流れは急速に変化急速に発展)している。そのような中で世代間のギャップ(差異)が生じるのは否めない。 また、日本は、過去には東洋的な価値観、規範、を背景にしていたが、明治から変化して、更には戦後は急速にこれが強まり、西洋の学問を庶民に至るまで摂取して西洋の規範や学問を受け入れて、(豊か、便利な)利器を享受しているのは事実である。 {グローバル}と言われる現代だが、本当に価値基準が多様化しているのは事実であるが、我々の国はこの多様化を二つに考えて考えることができる。 一つは前述の世界的な時代の発展に伴う世代間の差異。 もう一つは東洋と西洋の入り混じっている社会での価値観的な差異。(これも発展に比例するように、東洋的価値観は薄くなりつつある。)というふうに言えるであろうかと思われる。 補足として(いや質問の主旨には、こちらが本題に沿うと思われるが。) 我々が如何に東洋的なものを失いつつあるかの例えとして一つ。思いつくままなので拙いのですが…。 山形有朋、北原白秋、この二人の名前の由来は東洋的な知識で考えられます。 「有朋」は『論語』の学而篇に文章が見える。原文に{有朋}とあり、訓読する場合は{朋有り}。友達が訪ねて来たという意味。 また「白秋」は、中国の陰陽五行なんかの方位の知識で、秋の色は白と決まっている。 また関連所では「青春」という語句も同じ理屈で春の色が青だから。 春は時間の概念でも{春夏秋冬}のように初めに来る、つまりまだ未成熟の時期を指している。「春」も「青」も未成熟の事であり、あわせて並列して、熟語ができたのですね。決して「青い春」の意味では無いのです。 昔はごく一部が知識人であったが、今は昔と比べて一般の人でも多くは大学に進学する。日本の教育水準はきわめて高いと言われる。しかし、昔の知識人の多くが有していた知識は、今や専門知識であり、特殊な知識となっている。 (だからといって、今の日本人の知識の傾向を否定するわけではない。むしろ今の大学の形態も、知識も西洋的なものを基準としているし、現代化の上では、ごく自然の事であるかと。) スミマセン、知識の押し売りとなってしまいまして…。 ただ思うのは、昔のインテリ的の感覚はこのようなのをお洒落な名前だとしたのかなと感じるのですよ、今の感覚だと西洋的な音に漢字あてたりよくしますよね。 そのへんは、確かに違うなって感じます。そうゆうのって学問的には下らない事だけど、人々の価値観を測るのには意味なく無いとおもうんですよね。

papapiko
質問者

お礼

ssiinnさん 再度ありがとうございました。 >山形有朋、北原白秋、この二人の名前の由来は東洋的な知識で考えられます。ここちらのお話も、楽しく拝見させて頂きました。 >昔の知識人の多くが有していた知識は、今や専門知識であり、特殊な知識となっている。 そうかも知れませんね。 きっと聞いてもさっぱり解らないかもしれませんね。 纏めて下さってありがとうございました。

  • akira33
  • ベストアンサー率15% (9/60)
回答No.28

もともと持っていたものって存在するのでしょうか? 50歳前後の方達の子供が今20~30歳前後でこれからの未来を考えるべき年齢であり、 そのまた、子供達がその後を担う訳ですよね。 であれば、活気のある方、優秀な方、昔気質の方達が今の若者を生み出しているのですよね。 と言う事は、決してその方達を否定するわけではありませんが、伝えられていない部分が多いのでは ないでしょうか? 企業において「優秀な人」「普通の人」「無用な人」と分けられて表現される事が よくあります。皆が優秀な人であるわけも無く、普通の人でも良いのですが、無用な人が 増えているのではないのか?って最近会社で思います。(^.^) 社会においては企業とは考えが違うとは思いますが、「愛」のない人に「愛」あるものは 作れないと思っています。自分の立場を、考えをしっかり持って生きている人って少ないでしょう。 (そう言う自分は、どうか?考えると微妙ではありますが、(+_+)) 本当に日本以外のアジアの人達は元気です。 私も30代ですが、今私達の世代が出きる事を考える事では? (もちろん考えだけでは駄目ですが) 日本人に今欠けている物、それは【自分】であり言い方変えると【プライド】って ことでは無いでしょうか?  失礼しました。

papapiko
質問者

お礼

akira33さん ご回答ありがとうございました。 >伝えられていない部分が多いのでは ないでしょうか? それは充分に、ありえますね。No.15の方の元服のお話の厳しさに含まれる 親から子へ伝えるに値する作業が、近来内的部分で、欠けていたのかも知れませんね。 勉強しろ、だけじゃダメですよね。(←私のつぶやきですよ。。。これは) >無用な人が 増えているのではないのか? 仕事に徹していない人、自分の為に仕事をしない方と言う意味でしょうか? ごめんなさい。無用と言う言葉は、個人的に人の価値に対して使いたくはありません。 でも、akira33さんが伝えようとされていらっしゃる内容は、とても参考になります。 >「愛」のない人に「愛」あるものは 作れないと思っています。 全く持ってそうですね。大切な事だと思います。 >本当に日本以外のアジアの人達は元気です。 負けたくないですね。 元気で居たいです。 >今私達の世代が出きる事を考える事では? そうですよ。 地に足をつける意味でも、私達が怠ってきた事を 知るべきです。自分なりに現在たたされている場所を知らないと 進む時、又、おざなりになるんです。だから、内面的に継承したい事を 認識しようと思いました。大切な事だと思うので。 >【自分】であり言い方変えると【プライド】 そうかも知れません、私も30代、上記の2つを身に付けて 頑張らないといけませんね。 akira33さんも30代なのですね。年齢が近い方のご回答、どうもありがとう ございました。

noname#2339
noname#2339
回答No.27

正解書いちゃっていいんですかね? 正解は「美意識」です!(ドン!) いままでの回答で挙げられたもののほとんどが、この「美意識」を持つことで取り戻すことが出来ます。(ひとつひとつ説明するのはめんどくさいですので各自お願いしますm(_ _)m) 日本人の持っていた古き良きモノは美意識が根本となっています。 そしてそれは今の人たちにはないものでもあると思います。 とはいえ私も誰かの受け売りですケドね。

papapiko
質問者

お礼

sakuradさん ご回答ありがとうございました。 美意識、そういわれればそうですね。 美意識を行う事を、心の美徳としていたのでしょうね。 ありがとうございました。

  • UKIKUSA2
  • ベストアンサー率14% (82/562)
回答No.26

こんにちは。 「愛」、「正義」、「情熱」などではないでしょうか。 抽象的、概念的な表現ですが、私はこれがピンと来ました。これらの言葉を実際の日常の生活にあてはめて自分なりに解釈すれば良いと思います。 例えば、子育てを例にした場合、自然や友達やお年寄りを慈しみ感謝する心を「愛」として子供たちに教えてあげることができる親が減ってきました。また、幼稚園、小学生、・・・大学生と成長していく中で、正義をもって集団の中で自分の役割を果たすことを教える教師が減ってきました。そして、本人自身、何事にも情熱を持って取り組む精神が減ってきました。 子育ては一つの例ですが、他の事象も同じ事が当てはまると思います。そう考えると、「日本人が失ったもの」というよりは、「現代の人が失ったもの」ということではないでしょうか。特に日本人は、昔から「~魂」「~スピリッツ」等と、精神論的な考え方や教育をする際、「抑圧」「ストレス」を前提にしていたため、そのタガが外れたとき、開放感だけが先に立ち、肝心の「魂」までも失っているものと想像できます。従って、今の日本人は大和魂を失った、ぬるま湯・・・、等という類の意見があるのでしょう。これは本人のみのせいではなく、社会全体の風潮の結果として受け止め、これから本当にしなければならないことは何かを考える必要があると思います。そこで、愛と正義と情熱を取り戻すにはどうしたらよいか、今の私には具体的な方策などは分かりません。分からないので毎日悶々としています。答えにならないですが勘弁して下さい。 papapikoさんの出されたテーマは、私も自分の身に置き換えて常々考えていることでもありました。自分の成長の過程で、愛、正義、情熱をどのように解釈するかは異なってきます。今は私は壮年期に入り、名実ともに自立していかなければならないときです。しかし現状は、苦しい現実からの逃避の毎日です。なんとかせねばと悶々としています。 良くなろうと思い努力する毎日から、必ず明日は開けると思います。 日本人はきっと「昔のように」良くなると思いますよ。

papapiko
質問者

お礼

UKIKUSA2さん ご回答ありがとうございます。 >良くなろうと思い努力する毎日から、必ず明日は開けると思います。 >日本人はきっと「昔のように」良くなると思いますよ。 そうですよ、その為に私もこのテーマを、片言みたいな文章で悪いと思いつつ あげさせて頂きました。 後ろを見るのではないんです。今現在のことをそれなりに、理解し見極めたかったんです。 自分なりにですが。 沢山の方の意見も絶対に聞きたかったのです。 UKIKUSA2さんの、おっしゃる内容も、とても共感いたしました。 精神性を重んじる、国であり教育を昔は受けていたんですね。きっと今より。 昔の方は、心の(内面)の美徳を知っていらっしゃると思います。 >答えにならないですが勘弁して下さい。 一緒に毎日、宝探しですね。がんばりましょうね。 ありがとうございました。 愛 正義 情熱 ですね。 情熱はいつも持っていたいですね。 では。

  • -soh-
  • ベストアンサー率27% (55/201)
回答No.25

再度こんばんわ、sohです いえいえ、貴方の書き方が悪いわけではありませんよ 同じような内容で同じようにタイトル「日本人がなくしたもの」って感じにて よくマスメディアが取り上げていますから 問題はマスメディアの方でしょう みる度ただのジェネレーションギャップを「元々」等と呼び わざと取り違えさせているなぁ、、と感じていたので 今回稚拙ながら参加させて頂いた次第です さて、戦前 戦時 戦後高度成長期 現代物質飽和期と来ますが 高度成長期以降の人間とそれ以前の方々で 一番違うのは、やはりハングリー精神でなかろうかと感じます 後は「国民的な目標」 個人の信念は元々あまり持てない国民性(?)なんで 大した違いはありませんね 泣き言うんぬんに関しては、日本人とか戦後とか関係なく年齢なだけだと思われます papapikoさんは娘や孫に泣き言を言うような親になりたいですか? 年配の方が持っているのは分別であり、これは時代背景ではなくて年齢により得るものと考えます やはり私の感じる時代背景により違っているのは 上であげた通りハングリー精神、国民が目指す目標ですね 現代以外の時代日本は基本的に後進国でしたから ずっと先進国の背中を見てそれを追いかけていればよかったのです それが国民の目標でしたし、当時の国民は西洋の物質文化を手に入れるため躍起になっていました 3種の神器とか言ってね それが自分達の幸せだと信じて疑わない時代でした 話によると当時はそれを信じさせてくれる有能な指導者がいたんでしょうかね? ちょっと指導者には疎いんですけど、、 でも現代の日本には、そういうカリスマ的指導者もいませんし、追いかける背中もなくなってしまいました 道を自分達で造る段階に来ているのです 最近、韓国上海などアジア勢が強いのはそういう理由もあるんだと思いますよ、彼らも日本が作った道をかけ走るだけですからね 道を造るのは困難ですが、造られた道は舗装されてるから簡単に歩けるのです。 米国の人なんてよく言いますから 「日本はサル真似ばっかりだ、車だって始めはうちが造ったんだぞ」 とか でも今じゃ日本の車は壊れにくくてアメリカの車はよくないとかアメリカ本国でも囁かれる事です 車とか日本が誇っている技術力も後ろから追いかけてくる韓国や中国にすぐ追い付かれてしまうかもしれませんね だからこそ、我々近来日本人はとても厳しい位置にきているんだと 私は特に感じますけどね さて最後に、 ジェネレーションギャップって 私は存在する事、良いことだと思います 必要なのはそれらを融和させること 年配の方には年配の方の良い点がある それはいいです でもそれがこれからの時代に必要かどうかは不明です それらを継承する必要があるかどうかも不明です そして私たちが継承せずとも彼らはまだ生きていますし働いてもいます 我々が年配の方たちがいなくなってしまった後世に伝えなければならないもの、それは融和させた後の何か 次の時代に「通じる」何かではないでしょうか? あ、それに分別と冠婚葬祭の司かな ま、私が年配の人に関して思うことはこんなかんじです それではでは(^-^/~~ PS 少々気になっていたので、 >まあ、なに人 って国分けして考える事自体おかしいかも知れませんが。〔苦笑〕 > なに人 って国分けするのは自国の誇りを表すことで また分けられたほうも自分の国を誇りに思うから 別段おかしいことじゃないんですよ 分けた後、差別するのが問題なだけで 分けること自体は愛国心の表れ つまり、「おかしい」と考えるのは愛国心が 近来日本人に無い一つの証拠だと思うのですが いかがでしょう? 気が付いていらっしゃっいましたら 失礼な物言い、申し訳ありませんでした

papapiko
質問者

お礼

-soh-さん 再度ありがとうございます。 >気が付いていらっしゃっいましたら >失礼な物言い、申し訳ありませんでした 大丈夫ですよ。私、文章所々、片言みたいに書いてしまうんですよ。 だからsohさんが書いてくださって、方向が纏まった感じです。 意味合いは同じだと思います。私の中の書こうとした気持ちは。 ぼやぼや~ってしてたのが、出来上がった感じです。 >問題はマスメディアの方でしょう 最近特に、私もなんだかマスメディアに関して、悶々とすることがあります。 >やはり私の感じる時代背景により違っているのは >上であげた通りハングリー精神、国民が目指す目標ですね そうですね。ハングリー精神は、他の方も上げていらっしゃったし 私も思います。 大切に持っておきたいと思います。 ありがとうございました。

回答No.24

何かの参考になれば、 からだの見方/養老孟司/筑摩書房 人間の深層に潜むもの/河合隼雄/大和書房 笑いの構造/梅原猛/角川書店 なんか、絡まったもの解きほぐす手がかりつかめるかも

papapiko
質問者

お礼

>なんか、絡まったもの解きほぐす手がかりつかめるかも 再度、ありがとうございます。 そうなんですか。ありがとうございました。 

回答No.23

お礼のお言葉いただきありがとうございます。 おっと、お題がお題ゆえか少々ネガティブ方向に傾いてきているような、、、 ヨッコラショッ!反対側から支え起こしましょうかねぇ? いえねぇ、根が楽天家なものでわたし。根っこのところでは、「世の中捨てたもんじゃない!」とおもっているんですよ。なんでそうおもうか?うん。人体の不思議かなぁ~。人の身体って不思議がいっぱい詰まってる。何かが失われたらその何かを補う力が内に備わっている。まんまとはいかないかもしれないけれど、内に秘めし力に語りかければ眠ってる内なる力が目覚めて新たな一歩を歩き始めるよ。そそ、腐って落ち込んでやりきれなくなるとわたしのなかのもうひとりのわたしが勇気づけてくれるから。「おぉぉ、、相棒!ありがとう!ギュッ!」へこたれてらんねぇ-って気分一新。だれものなかに内なる力を秘めていると思います。 どんなに腐っても希望の灯は燃えている。 日本人がなくしたもの「記憶」かもしれない。

papapiko
質問者

お礼

littlekissさん 何度もすみません、ありがとうございました。 大丈夫ですよ。確信しないと進めないたちなので、納得していただけですから。 奈落にはおちてませんからね。(^-^) >日本人がなくしたもの「記憶」かもしれない。 ああ、これは最近良く感じますね。特に。 広島の原爆慰霊碑に落書きが起こった時点で、やばいな~って思いました。 象徴的なニュースでした。。。。 >どんなに腐っても希望の灯は燃えている。 勿論ですよ!だから、考えて、学ぼうとしてますから。 心配ないですよ。ありがとうございました。 明るい性格なのですね♪ 羨ましいです。

  • drago
  • ベストアンサー率19% (5/26)
回答No.22

失ったものかどうか、厳密にいうとわからなくなりますが、今、無いもの、そして、たぶん、かつてはあったものということを答えたいと思います。 他者への寛容さ。 自らの心の内に、ライバルや論争相手に通じる弱さや闇があるかもしれないと内省する自己省察の感情。 慈悲心。 共感や同情という感情。 弱者をいたわる優しさ。 ひとを許すという解決法。 これらの感情や生き方は急速に失われつつあり、すべてを訴訟と断罪で解決しようとするかなり非人間的なルールが社会を覆い尽くしています。 内省的な気分を失った場合には、ひとを誹るだけで、自分の非には気づきません。もはや、日本社会は万人にとって万人がオオカミであり、絶対的他者となってしまったようです。 やはり、問題は教育にあります。もう少し、ひとの気持ちの奥底を読みとる文芸などに触れ合う機会を作るべきです。 このまま行けば、訴訟乱発による社会の停滞と人間不信によるコミュニケーションの阻害は避けられないものとなるでしょう。 大阪の商人文化であれ、江戸の町民文化であれ、各地方のムラ長文化であれ、京都や奈良の公家的文化であれ、これほどまでに、自己省察を欠き、他者批判ばかりを繰り広げていた時代はかつて無かったのではないでしょうか。

papapiko
質問者

お礼

dragoさん ありがとうございます。 dragoさんの上げてくださったものは、人間の内面感情、思考として決して 見落としてはいけない物ばかりのような気がします。 最近、よく回りの大人の方から 話の席で、全てにおいて世知辛いとよく耳にします。 自分自身も感じます。 >万人にとって万人がオオカミであり、絶対的他者となってしまったようです。 解りやすい表現ですね。 とても、参考になりました。 dragoさんのおっしゃる側面も、とても大切な事だと思います。 >ひとの気持ちの奥底を読みとる文芸などに触れ合う機会を作るべきです。 素晴らしい意見だと思います。  ありがとうございました。

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