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直観の分析について

tumaritouoの回答

回答No.1

貴方は「神経症」を知っていますか。「直感」とは正反対の事をやっている「症状」が続く事です。例えば結婚をする時にそれを決めるのは、正に直感です。その人と一緒になったら「幸せになれるか?」を論理的に納得してから、好きになりますか? その論理的に納得しないと動きが取れないと言う人や、論理を納得で来ても、今度は感情が納得できなくて、やっぱり動きが取れない「症状」の事です。 その対極に在るのが、「禅」です。プロゴルファーがここ一番と言う時に「平常心」を保たれるためにこれを、学ぶ人が居るようです。 沢庵和尚に剣豪と言われる人がその極意を聴きに来るという事も同じ事です。人間は「意識」する時には自分が「自由」になりません。プロゴルファーがあと一打で優勝と言う時に「意識」する時には体が自由になりません。 直感の話とこの話とどうつながっているかと、お思いでしようが。つながっています。「神経症」の治りとその「禅」が関係しているからです。「禅」の極意は「心をどこにもおくな」ということです。心が滞る事が、「神経症」なのです。或いは迷いと言っても、悩みと云ってもいいのですが。 心が滞るとは何かと言えば、思考、分別なのです。塚原卜伝に弟子入りした人の話が小説の中でのっていました。免許皆伝のときは「思わず、後ろから打ち込まれた時によけた事」その思わずにやれるようになる事がその極意だということです。 そこで、今度は神経症の話です。「神経症」を起こしているものは「意識」です。それも「二つの意識です。」心が二つに分かれてしまって、動きが取れなくなってしまう事です。その事を完全に解消するためには、二つに分かれたものを「幼子」のように一つにしないとだめなのです。 その事を説明するのに「禅問答」を引き合いに出せば、分かりやすいと思います。 禅問答は普通では解けません。是が解ければ「神経症」は解決します。 その訳は、脳の機能に在ります。普通の意識では解けないからです。 「分別を捨てろ」と言います。分別を捨てる事が出来たら、解ける問題なのです。 ところが、分別を捨てるという意味が分かりません。是は脳の機能を説明すれば分かります。今の意識は論理的に物事を処理する機能を持っています。その論理では解けない問題が「人生」には、在るということです。「禅問答」を本当に解く時には、命がけの取り組みが必要になります。命掛けで取り組む時心が降参せざるを得ない事が分かります。 心が「我」といったほうが良いかも知れません。「我」がどうしようもなくなって。本当にギブアップした時に「大死一番」と云って「我」が一度死んだ時にもう一つの意識「仏性」が出てきてその問題を解いてくれると言うわけです。 そこで脳の機能の話しに戻りますが。「現意識」は左脳の意識です「仏性」は右脳にある無意識の中の意識です。右脳は分別出来ないことを扱っています。喜怒哀楽とか、他の人達との連帯感とか、大悲、大智とか、結婚したいとかの直観力です。あの人はなんとなく嫌いだとか好きだとか、その他無意識でやっている時の自分を統率するとか。まだ数え上げたらきりがありません。 その意識は、感動している時などには分かりやすいと思いますが。世界中の人達とつながっている事が感じられます。人間が考えてない時に直感、或いは、閃きで一瞬にして答えを出せるのは。自分には意識でき難いものですが、右脳の意識が自分の知らない間に考えていてくれているからです。右脳と左脳は1,980年代の「分離脳」の研究の成果を踏まえたものです。 その結論だけを二点挙げておきます。 1-左脳に一つの人格、或いは意識が在る。右脳にまた一つの人格が在る。左脳の人格と右脳の人格はそれぞれ違うものである。 2-左脳の機能と右脳の機能は分化の過程を過ぎた時は固定されて、それぞれが違う役割を担っている。

sheep67
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 とても興味深く読ませてもらいました。 久しぶりに聞いた話でした。 左右の脳に別の人格があるというのは全く初めての話で驚きました。 脳の科学的解明にはいつも興味を持っていますが、現在のところ、解明からはまだ遠いところにいると判断しています。

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