• ベストアンサー

「九州」という呼び名はいつだれが始めたのか

[「九州」という呼び名はいつ誰が始めたのでしょうか。中国的には「九」が全世界を表す、というような感覚があった時代でしょうか。その北の海を「玄海」と呼ぶことと関係があるでしょうか。「州」という行政区画の中国での最初は隋王朝とされると思いますがそれとも関係があるのでしょうか。]

  • 歴史
  • 回答数6
  • ありがとう数10

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • code1134
  • ベストアンサー率20% (703/3370)
回答No.3

http://kyuusyu.moonblend.com/ (⇒9/13の項) 「誰によって?」に関しては具体的に例えば後平成(仮名)天皇の指示でと言う事ではなく、何時については上掲URLでの五畿七道(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%95%BF%E4%B8%83%E9%81%93 )の1つの西海道に属する筑前,筑後,肥前、肥後,豊前、豊後、日向、大隈、薩摩の、計9国の総称で、律令制度下の名称の名残と言った感じでしょうか? 尚、http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/cult/cultc6.htmでは大和朝廷の九州王朝が(当時の)シナに倣って呼んだ旨の古田(武彦)学説に触れてはいます。

waraeruyam
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 後段の、元信州大学の理系の中野先生のHPがとても面白いものだと思いました。私も「信濃」に住んでいますので、何か奇遇を感じます。今は古代学にのめりこんでいらっしゃるようにも読めました。 大宝律令以前が「評」という行政区画であり、その設置主体があいまいでもあることと、「九州」という呼び名の起源のあいまいであることが、どこかで関連しているように思うのです。

その他の回答 (5)

noname#58790
noname#58790
回答No.6

#5様の通りだと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E8%A5%BF%E6%8E%A2%E9%A1%8C 結局、鎮西探題の執筆者か、九州探題の執筆者のどちらかが間違った解釈をしているので「分からないのです。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%8E%A2%E9%A1%8C 9国になったのは824年です。 私も、大宰府関係から九州の言葉が出るのを期待します。

waraeruyam
質問者

お礼

「9国になったのは824年です。」 ありがとうございます。こうした具体的な確認は重要なことです。 それで、気になることが一つあります。 「大宰府」とお書きですが、「太宰府」と、現地では書き続けていると思います。 この表記については、どのような状況があるのでしょうか。

回答No.5

以前「西海道」についての質問があり、「九州」という呼び名についてちょっと文献を調べたことがありますが、結局分かりませんでした。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3491448.html 国語辞典で「九州」を引くと、「古くは日本全土のことを指す」とあり、『凌雲集』や『経国集』の例を挙げて比較的詳しく解説されていますが、九州地方を「九州」と呼ぶのは「九ヵ国」であったから、と説明されているだけです。 「九州」の初出がいつなのか、再度、『記紀』『続日本紀』『日本後記』を調べてみましたが「九州」の名を見つけることはできませんでした。多分、ないと思います。 今の九州は、正式名称の「西海道」と書いてあります。 それどころか「国」を「州」と呼ぶ例もこれらの書物には、私がざっと目を通したところではありませんでした。 日本は、隋唐に倣って「道州制」を敷きましたが、「州」には馴染めず、卑弥呼の時代から慣れ親しんでいる「くに」と呼び、「国」と書きたかったと想像しています。 しかし、会話では「九国」(クコク、キュウコク)は話しにくいですから、きっと「キュウシュウ」と言ったと思います。 最近は、何万、何十万という木簡が、各地で出土しています。 「九州」と書かれた奈良・平安時代のものが出土することを期待しています。 「玄海」は、創拓社『日本地名ルーツ辞典』によれば、諸説あるが、生死の分かれ目となるような危険な場所・立場を意味する「玄クロの海」だろうと推定されています。 古代中国の宇宙感の色から「北は黒」、あるいは「玄亀」から「玄海」という説ではなさそうです。

waraeruyam
質問者

お礼

「再度、『記紀』『続日本紀』『日本後記』を調べてみましたが「九州」の名を見つけることはできませんでした。多分、ないと思います。 」 お手を煩わせてすみません。でも本当にご確認ありがとうございます。 私は、中国側から何か記事がないか調べています。 魏志倭人伝では「国」が出てきますが、みな、「統治権外」の地域にある政治権力(そう位置づけられるとすればですが)を指していると読めます。南朝劉宋の『宋書』でも、「東は毛人を征すること五十五国…」です。 王安石の『宋史』にいたって、「畿内には山城…すべて五州があり、」として西海道「九州」という言葉を使っています。しかしこれらはすべて中国側からそう呼んだものと解すべきだと思います。 最後の論点「玄海」についての「生死の分かれ目…」説は、魏志倭人伝などの記事にある漁業を得意とする点から、海への懼れは感じますが、特にこの海についてなぜ「生死の分かれ目…」という認識になるのか、今一つうなずけないものを感じます。すみません。

  • buchi-dog
  • ベストアンサー率42% (757/1772)
回答No.4

「『州』という行政区画の中国での最初は隋王朝とされると思いますが」 漢和字典を見ると、小さな行政区画としてはシナ文明の始まりとも言える周の制度にあり、漢の時代には「郡」や「国」(いずれも日本人の感覚からは違和感があります)を束ねる13の「州」が全国に置かれました。その制度が魏・呉・蜀の3国に引き継がれました。三国志の劉備が益州を制して「蜀漢皇帝(前主)」に即位したのはご存じかと思います。その後長い年月と南北朝の分裂・戦乱を経て、隋や唐の「州」は漢や三国の「州」とは別の概念になったようです。 日本でいつ「九州」と呼ぶようになったのか良く分かりませんが、今で言う九州が「九州」になったのは律令制度下には違いありません。それがいつかというと、良く分かりません。 「尚、​http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/cult/cultc6.htm​では大和朝廷の九州王朝が(当時の)シナに倣って呼んだ旨の古田(武彦)学説に触れてはいます。」 というご指摘は興味深いですね。

waraeruyam
質問者

お礼

すみません。質問の意図は、「今で言う九州が「九州」になったのは律令制度下には違いありません」が、 それはともかく「日本でいつ「九州」と呼ぶようになったのか」知りたい、というものでした。 700年以前について、明晰な説明をしているのは「古田学説」ということでしょうか。

  • go_go_v7
  • ベストアンサー率41% (49/117)
回答No.2

「州」は、「国名」の別称だと思いますよ。 「信濃」→「信州」 「遠江」→「遠州」 「甲斐」→「甲州」

waraeruyam
質問者

お礼

ビックリしました。回答が速いんですもの。 初めて質問したので、そのすばやさにまずお礼を言います。ありがとうございました。 内容についてです。これは私の質問の仕方が悪かったと反省しているのですが、「回答1」と合わせて、一応、九つの「国」がある状況は踏まえたつもりなのです。すみません。

  • go_go_v7
  • ベストアンサー率41% (49/117)
回答No.1

筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国 ・大隅国・薩摩国の9国の総称です。 現在は、七県です。 ちなみに、「四国」は、旧国も県の数も「4」です。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E

関連するQ&A

  • "四海九州"

    歴史小説を読んでいたら "四海九州" という字句に目が触れますが、どこの海と州を指すものなんですか?ネットで調べたら、日本のことも指すようですが、私が見たのは中国前漢が設定舞台の小説でした。そこでは比ゆ的に「あまねく、広く」と使われているのでしょうか?

  • 山口県は九州の一員?それとも中国地方の一員?

    山口県は中国地方ではありますが、九州との結びつきが俗に「九州山口」と一括りにされる様です。 特に山口県・九州・中国地方の方に伺いたいのですが、皆さんの感覚からすると山口県は九州圏の一員でしょうか?中国地方の一員でしょうか? その理由もお願い致します。 もし道州制が導入された場合、山口県は九州(州都:福岡市)に加わるべきでしょうか?それとも中四国州(州都:広島市)に加わるべきでしょうか?

  • 州と県の違い

    アメリカは州、中国は省、日本は(都道府)県ですが、 タイは県、インドネシアはジャカルタ特別州があったりします。 それぞれの国での一級行政区画だと思いますが、 州と県の違いについて詳しく教えてください。

  • 小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋に行ってどうして生きて帰ってこれたのでしょうか?

    小野妹子は聖徳太子の国書を持って隋にいって、どうして生きて帰ってこれたのでしょうか? 聖徳太子の国書は「日出る処の天子,書を,日没する処の天子に致す。恙なきや。」で始まっていますが、中華思想の強い中国の王朝では非常に無礼なものと考えられたと思います。特に強大な力をもった統一王朝の隋に行って、対等な関係を示す「天子」を持った国書差し出せば無礼者としてその場で殺されてしまうような気がします。 ところが現実には裴世清を伴い帰国し、聖徳太子の対等外交政策は一応成功しました。高句麗の脅威に対抗するため倭国と手を結ぶ必要があった等の説明を聞きますが、どうもそれだけでは「天子」という言葉の記載のある対等の国書を受け取った上裴世清まで使者として送った理由としては、彼らの中華思想の強さや何百年かぶりの統一王朝の隋の登場といった背景を考えると、説得力がやや弱いと思います。 聖徳太子や小野妹子は隋王朝内部にコネがあったり、彼らの弱みを握っていたのでしょうか? あるいは朝鮮半島出身ではなく、大陸出身の渡来人がブレーンとしていたのでしょうか?

  • 昔の中国の形は現在と違って「τ」の形をしているのは何故ですか?

    昔の中国の王朝、漢・隋・唐・明の国土は現在の中華人民共和国と違って西北部が尻尾のように細長く伸びていて、丁度ギリシャ文字の「τ」の様な形をしています。現在のような岐阜県の形になったのは清時代からのようです。 昔の中国が現在と違いこんな形をしていたのは何故でしょうか?理由を詳しく御存知の方はどなたか教えて下さい。

  • 朝鮮・中国

    ( ̄~ ̄;)どうしても朝鮮や中国と日本の関係みたいな日本が**時代のとき中国では**とかなんか 王朝の順番とかいい覚え方ないですかねぇ?

  • 隋・唐長安城と同じような都市

     隋・唐期の長安城は都市全体が牆壁で囲まれていたそうですが、同時代の中国で同様の形態の都市は存在していたのでしょうか?  また他の時代、他の国ではどうでしょう。それなりの規模の都市がまるまる壁で囲われているケースはあったのでしょうか?  さらに長安城は外周だけでなく、各区画(坊)も高い壁で仕切られていたそうですが、こういう形態はどうでしょう?他の時代や国で例はあるのでしょうか? よろしくお願いします。

  • 戦争に関するきねん館、博物館について

    第一次世界大戦以降の、世界各国の戦争に関する博物館について調べています。特定のイデオロギー集団が作ったものではなく、国家や、州や県といった行政区画がつくったものが対象です。それを通して、見学者に何を伝えようとしているのかが知りたいのです。実際に行った事のある方の感想、意見を知りたいです。また、そのようなことが書かれている参考文献や、参考ホームページなどがありましたら、教えてください。

  • 【中国史】子安貝は古代中国殷王朝で使われた世界最古

    【中国史】子安貝は古代中国殷王朝で使われた世界最古の貨幣だそうですが、子安貝は海に行けば拾えたわけですよね? 海で拾った子安貝も貨幣として使えたのですか? それとも貨幣の子安貝にはなにか追加のデザインや刻印がなされて自然界にある子安貝と見極められるようにしていたのでしょうか?

  • 四国は何州?

    神代の時代、国つくりで 淡路島・四国・隠岐の島・九州・壱岐の島・対馬・佐渡島・本州(=大倭豊秋津嶋) と州がつくられましたが 四国は讃州などといった四国の名前でなく 九州のように、本来は何州といっていたのでしょう 最近、いわれているような、関西州、中国州、四国州などというよな、つまらない州の名前でなく (国と州などのように、意味が二つ重なるようなどうしようもない名称でなく) お教えください