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関が原の秀忠の遅参は家康の陰謀?

imp-dscの回答

  • imp-dsc
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回答No.3

珍説だと思います。 メリットが無いですから。 秀忠は確かに家康のような軍事的な資質はありません。これは家康が言っています。関ヶ原直前に「倅(信長の命令で殺した信康)さえ居たら・・・(ワシはここまで来なくて済んだのに)」とさえ言っています。単純に軍事的な資質ではその当時では後継者候補の中では最も劣っていただろうと思われるのです。真田攻めにしても部下の老将の誰かが「相手は少ないから抑えの部隊を置いて主力は先を急ぐべきだ」とでも意見具申くらいはしたでしょう。本多政信は確かに家康の腹心ですが彼はどちらかというと外交や謀略担当ですから適切な助言ができたか疑問です。 それから関ヶ原は両軍併せて約20万近くの戦力が集まった戦いであり秀忠の部隊だけで約4万人が参戦するか否かでバランスは一気に動きます。戦闘でのセオリーでは戦力差が10%越えると負け易くなります。簡単に説明すると10人vs9人で戦えば1対1×8と1対2が1組が成立します。最後の組はさっさと相手を倒してから他の組の加勢に加わる事を繰り返しで・・・と言うわけです。もっとも地形や天候、将兵の錬度等でいくらでも覆りますけども全く同じ条件ならばこういう結果になり易いのです。 特に関ヶ原は家康が天下を取るか否か?の決戦。当時の状況では負けたら味方内にも動揺が走り裏切りが横行して再起不能となる可能性さえあります。だからこそ家康は西軍に対して切り崩しの謀略を用いています。しかしそれはあくまでも現場でしか結果を確認できません。仮に裏切りを約束していても家康が不利だったら西から東に寝返りする確率が落ちます。その為の保険(謀略)の保険が秀忠軍だった訳です。そこで秀忠軍を温存していてもあまり意味が無いと思うんです。  宇都宮の秀康軍は別です。上杉が江戸に近い為江戸が落とされたならば同じように部隊の動揺を招く事になります。それから後方からの追撃をされたら挟み撃ちされる事になりその為に戦力をあらためて引き裂いたり作戦的にも心理的にも拘束されるでしょう。 豊臣系の武将は確かに消耗しました。しかしここは何が何でも徳川の家臣が活躍する必要があります。でなければ「徳川は自力で天下は取れなかった。取れたのは元豊臣家臣の力があったからだ」と言われ侮りを受け他の野望家は燻り続くでしょう。それでは意味が無いのです。

noname#49020
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