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友達に歴史の問題を出されてまったくわからないので歴史に詳しい方お願いし

友達に歴史の問題を出されてまったくわからないので歴史に詳しい方お願いします。 関ケ原の戦い後、徳川家康は、息子・秀忠の関ケ原遅参の最大要因となった、真田昌幸・信繁(のちの真田幸村)親子を死罪にしようとしたが、昌幸の長男・信幸の舅であった、徳川家家臣・本多忠勝は、信幸と共に昌幸・信繁両名の助命嘆願を行った。 しかし家康や秀忠は、この嘆願に対し、いい返事をしようとはせず、あくまでも昌幸・信繁に死罪を申し渡そうとしたので、忠勝はある方法で家康に迫り、昌幸・信繁親子の減刑を勝ち取った。 問題です 忠勝が家康に迫った方法を答えよ。

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回答No.2

 まず、最初にその友達に下のように指摘してあげてください 忠勝が縁戚関係によって”真田家”を残そうとしただけであって、 昌幸・信繁親子の擁護などは行っていない  巷説で有名な下記の話は、史実ではない可能性が高い。 関ヶ原の戦後処理の際、石田三成ら西軍に荷担した上田の真田昌幸・幸村父子の助命を真田信之と共に家康に願い出る。理由は、忠勝の娘(小松姫)は、真田信之に嫁いでおり、娘婿の父と弟を殺すのに忍びなかったためだろう。 しかし、家康は真田父子には2度も敗退して苦杯をなめているため、頑として聞き入れなかったが、忠勝は、「ならば殿と一戦も辞さぬ」と家康に向かって啖呵を切る  実際に徳川家に関する正統な歴史文献にしてもそのような記述はない。 真田家に関しては歴史文学の部類の巷説によって認知されている話が体勢であるから、本件もその部類の話を勘違いしている可能性が高い。  要は、史実でもない話を史実だと思って言いふらしている話(創作話)である。 なお、当時の家康・忠勝の関係からして、このような啖呵を切らずとも我を押し通すことは可能だっただろう。 というのも、松平家そのものは緩やかな豪族同盟の性質であって、家康に大きな権力が存在したわけではない。  実際に、家康が権現(=神)のように取り扱われるのは後世であって、関ヶ原当時の家臣団は中央集権的なものではない。 つまり、巷説のような話なしに、忠勝は真田一門を擁護しえた可能性は高い。 真田家を惜しんだ可能性はあるにしても、証拠もない話から問題を作る友達に、 「その話の証拠って何?」 とでも逆質問してあげるといいだろう。 実は、史実性のない書物の受け売りだろう

robogon
質問者

お礼

とても詳しくありがとうございます! 友達にも言っておきます!

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  • danke3
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回答No.1

「ならば、それがしが殿と一戦仕る(つかまつる)」と迫った

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