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首実検について
首実検では凶相などの場合何か呪術的なことをして災いをさけていたのでしょうか。 また、討ち取った敵将の首はその後、相手の元へ返したりしたのでしょうか。
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その辺のところは津本陽氏の小説でどこかに記述がありました。 参考のところに詳しく書いてありますのでお読みください。
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- fumkum
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首実験についての系統的な話はかけませんが、思い付く事柄を。 1、首実検は当然のことに呪術的な側面があり、作法が煩雑であった。そのため、軍配者もしくは軍師と呼ばれた人物(修験者などが多かった)が運営することが多い。 2、身分により対応が違い、総大将クラスの首には「対面」と言った。 3、首を置く台等にも違いがあった。首には名前を書いた札をつけた。 4、大将が首を見るとき扇子越しに左目で見た。また刀は抜きかけて右手を柄に添えた。 5、首実験前に化粧や鉄漿をつけ、身分ある首のように見せた。(「おあむ物語」に記述があったと思います。) 敵将の首の実験後のあつかいについて。 送り返すのが一般的でしょうが、近くの寺に葬るなどケ-スバイケ-スだとは思います。 桶狭間の合戦後の今川義元の首は送り届けています。参考までに「信長公記」の関連の記述を。 「義元のさされたる鞭、ゆがけ持ちたる同朋、下方九郎左衛門と申す者生捕に仕り、-略- 義元前後の始末申し上げ、頸ども一々誰々と見知り申す、名字を書き付けさせられ、彼の同朋には、のし付の大刀わきざし下され、其の上、十人の僧衆を御仕立候て、義元の頸同朋に相添へ、駿河に送り遣はされ候なり。」
お礼
軍師は呪術、方位や吉凶を占ったので首実検にも必要なのですね。 対面、や首台への名札は扱いが丁寧であったとの証明ですね。 今川義元ぐらいの大大名になると僧侶を十人もつけて送っていたのですか。おはぐろも改めて塗り、死化粧していた。以上の事柄からよほど災いを恐れる気持ちを多く含んでいたのでしょうね。 「おあむ物語」は興味があるので探して見ます。 回答ありがとうございました。
お礼
取り捨て、とはなんだか粗末にしてそうな呼び名ですが、実際はお払いや返却をしていた訳ですね。吉凶を占うとありますが、家運のことでしょうか?今後の戦運のことでしょうか? 首実検に臨む際の儀礼のこともよく分かりました。 回答ありがとうございました。