- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
山名氏の紋は二つ引両紋といいますが、山名氏は新田氏流なので、大中黒の中黒の真ん中を横に細く白線を入れたものです。それに、桐紋の右下、左下にに笹を配した紋があります。 細川氏は九耀紋を使っていますが、後の熊本藩主家が戦国時代に使い始めたとの説がありますので、応仁の乱までさかのぼれるかは不明です。室町管領家の細川氏は松笠菱が家紋ですが、もともと足利氏流ですので、二引両もしくはその変形紋を用いた可能性はあります。ただ、鎌倉時代の細川氏は、足利氏流の中では家格の低い方でしたので、可能性は低いかも知れません。 以上参考までに。
その他の回答 (2)
- fumkum
- ベストアンサー率66% (504/763)
NO1です。直接の回答にはならないのですが、気がついたことがありますので。 建武の新政ご足利尊氏と新田義貞が総大将となって戦ったいくさ(中先代の乱の後か、京都の市街戦のときか記憶があいまいですが)の時に、負けた足利方の千葉氏などが新田氏に降伏し、足利の二引両の旗印の真ん中を墨で塗りつぶし、新田の大中黒の旗印に変えたとの記述をみた記憶がありますから、総大将の旗印を使う習慣はあったように思います。 ちなみに、足利の二引両は○の中に「二」を書いたようなもので、大中黒は○の中に「一」を太く書いたようなものです。ですから「二」の中を塗るつぶすと、「一」の太いもの、つまり大中黒になるということです。なお、千葉氏の紋は妙見紋(三日月に星)なので違います。
- fumkum
- ベストアンサー率66% (504/763)
細川勝元が将軍足利義政に要請し、将軍の象徴である「牙旗」をかかげたとの記述を見ましたが、東軍・西軍の旗印は解りません。
補足
山名は九曜紋をつかっていたでしょうか?
関連するQ&A
- 応仁の乱の東西両軍の呼称について。
応仁の乱の当時の東軍、西軍の呼称を教えて下さい。 関ヶ原の戦いでも、東軍は内府衆、内府方。 西軍は奉行方、秀頼様衆と呼ばれてみたいです。 応仁の乱の当時の両軍の呼称は何でしょうか? 回答、お願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 応仁の乱、義視は東軍から西軍?義尚は西軍から東軍?
応仁の乱について教えてください。義視は当初は東軍、義尚は西軍です。しかし、途中で義視が西軍、義尚が東軍になったいきさつをわかりやすく教えてください。
- 締切済み
- 歴史
- 京都人にとっての応仁の乱ってどういう歴史認識なので
京都人にとっての応仁の乱ってどういう歴史認識なのでしょうか? 京都の人はこの前の戦いと言うと第二次世界大戦じゃなくて応仁の乱のことを指すそうです。 応仁の乱って京都で起こった戦なの?誰と誰の戦いで京都人はどっちに勝って欲しかったの? この前の戦いってことは京都の人が勝って欲しかった武将が負けたってことですよね?
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
ありがとうございます。 マンガの依頼でしたが応仁の乱の両軍をかかねばならなかったため、ここでストップしていました。