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それでも尚、エゴだとわかったとき、どうしますか?

そうではないと思いつつも、それでも尚、エゴだとわかったとき、どうしますか? 自己自身の場合。 他者の場合。 社会の中での問題。 正しいと言われてはいるけれど、その成れの果て。または、その精神起源。 どうしますか?

みんなの回答

noname#51508
noname#51508
回答No.7

ANo.6です。 自分の回答について質問的な内容があったので、少し補足することにしました。 ただ、あくまで回答者自身の経験と認識の内容に過ぎないこともご了承下さい。 >戦いが起こったなら、自己は前者に食らい付いていくべきであり、決して後者を「揺るぎない現実」だと結論付けてはならない。 何故でしょう。 まず、「感情が前を向いている状態」については「自分の信念を貫く」とか「心を開く」とかいう、自分を発揮するというか、主体的に生きるならこの条件が必要になるだろうということで書きました。そしてこの認識をした背景には、「現時点での自分にとっては、それ以外のやり方では何の可能性もない」というものがありました。自分にはそれが何の可能性もないように思えるようになった背景には、それを選択したら別のものの可能性が失われるとか、以前自分がそれを選択した場合の結果はそうなる他なかったとか、要はそれまでやってきたやり方は全て上手く行かなかったことなどがありました。 そうして「前向き」に生きようと思った時から、この「過去から引きずっているような自己認識」が常に問題化してくると思います。その場合、自分が思うことは、「多少後ろ向きなものが見えても、それにはほとんど注意を払わないで、前向きの方に注意を払うようにする」とか、「この後ろ向きなるものの実態をはっきりさせるべく観察する」ということになるのですが、後者だと観察するはずがそれにとらわれる事態に往々にしておちいると思います。おそらくは、少なくともこの時点では前者を優先するべきだと思うし、この状況での「立ち止まる」は、イコール「後ろ向きなものにとらわれる」だと、過去の経験からそう思います。ただ、自分も浮き沈みはありますので、沈んだ時には「前向きを見失う」こともあります。無理をしても上手く行かないときは無理はしないですが、自分を捨ててしまうこともしないようにしたいとも思っています。 >正当な手順 噛み砕かれるとどんな内容になりますか? 基本的には、自分一人だけで済む内容でなければ、相手への問いかけと承諾を必要とするという意味ですが、実際には相手を見てそこから段取りを進めていき、自分が始めたことで自然と生じる責任は果たしつつ、何かをしてくれた相手へは正当な評価をするとか、そういった内容になると思います。 たぶんこの説明では噛み砕かれていないかもしれませんね。 以上です。

corkwood
質問者

お礼

ありがとうございます。 >主体的に生きるならこの条件が必要になる >それ以外のやり方では何の可能性もない >少なくともこの時点では前者を優先するべきだ 兎にも角にも、初めての打開の試みには、それに心底成り切らないと実態が目の前にビジョンとして打ち出されないと言うことでしょうね。真の姿を観るにはそれが必要であるということと思いました。 >無理をしても上手く行かないときは無理はしないですが、自分を捨ててしまうこともしないようにしたい なるほどね。経験も大切だけど命あってこそ。ダイビングには呼びのパラシュートも必要ですね。 ありがとうございます。

noname#51508
noname#51508
回答No.6

まず最初に「自我(エゴ)」についての自分の考えを整理してみて、その後、ごく簡単になってしまったのですが、ご質問への回答とさせて頂こうと思います。 ・「自我(エゴ)」(辞書での説明) 総括→「これが自分」という意識を持っている私。 (1)他者や外界とは違った存在として意識される私。 (2)欲望や行動に関する、自分自身の意識・認識。特に、自分自身の欲望に執着する気持ち。 (3)個としての意識を持ち行為をする主体としての私。 ・「エゴイスト」(辞書での説明) 自己の快楽や利益だけを追求し、他人や社会全般の利害など考えようとしない、思考や行動の様式。 ・自分は、自我(3)の「行為をする主体」自体を「自我」とは見ない。なぜなら、「行為する主体」は「これが自分」という意識は持っていないと思うから。 ・「自我」とは「善悪」等の概念の作用そのものである。 ・その他では、家庭環境等における人間関係的な自分の位置に「自我」を見出すかもしれない。 ・それ以外では、欲望の対象を求める「自我」があるが、おそらくその「自我」は欲望の対象を認識すると同時に生じるものに過ぎなく、何らかの理由で欲望が消滅すると、その「自我」も消滅する。 ・自己を認識することは、基本的には自己限定である。逆に言うと、「一つの自我の終わり」は意識の拡大(本人が意識できないくらいの小さなものかもしれないが)をもたらす。但しこれは、基本的には本人の発達によってそれを捨てなければならなくなった場合の「一つの自我の終わり」のことである。 ・以上の「自我」は、総括すると、「自己が内に閉じている現象」と定義され得る。 ・では、外に開いている状態とはどのようなものであるかというと、「感情が前を向いていること」が条件になると思われる。つまり、自分の中で前向きな形での何らかの方向性を持たなければ、そうした自我にきちんとした状態で対峙することはできないと思う。そうでなければ、「自我が自我を批判する」ような認識から離れることができないと思えるからである。そうした「感情が前を向いている状態」と「自己が内に閉じている状態」は、基本的には全く別の対立する状態である。おそらくは前者は前者でどうするべきかを知っており、後者は後者で別の考えを持っていると思われる。もしも、この両者の戦いが起こったなら、自己は前者に食らい付いていくべきであり、決して後者を「揺るぎない現実」だと結論付けてはならない。そしておそらくは、ここの所が「自己変革」という意味での実質的変革であり、そしてそれは、自分の方向性が「自己実現」であろうと、「人類の幸せ」であろうと、そうした自己変革が実質的実現への要であることには変わりがないと思う。 ・個人の欲望の満足は、公の利害と常に対立するものなのか。 「自我」が何故まずいものなのかというと、自分と他者との関係において、自分に都合の良い方を取れば、他者は都合の悪い方を取らなければならなくなるという場合においてまずいことだと思う。つまり、他者や公の利害に盲目である限りにおいて、個人の欲望の満足は公の利害と対立する。盲目でないなら、正当な手順を踏んで個人の欲望を満足させようとするはずであり、それであれば少なくとも相手との対立はない。そして、他者・公に対して前向きな関心の程度に従って、その人にとっての「世界」は違って見え、また、個人的に求めるものも自ずと変わっていくと思う。 それで、ご質問についての回答ですが、「自分自身の場合」と「他者の場合」のみについてだけにさせて下さい。 ・もしもある時、自分の行っていることがエゴに過ぎないと思えた場合、どうしますか? 反省します。なぜなら、エゴの満足によるものでないと思ってやっていたことが、実際にはエゴの満足だったのなら、おそらくは自分がやろうとしていたことについて、実質的には為されていないことになるからです。そして自分は今の状況についてどうしたいのかということについて考えます。 ・他者の行っていることがエゴに過ぎないと思えた場合は? 他者の精神状態がどのようなものであろうと、自分自身の基本的な方向性は変わらないと思います。基本的な方向性を持っていれば、そうしようと思えばですが、どうしたら良いかは自ずと見えてくるように思えます。 以上となります。

corkwood
質問者

お礼

ありがとうございます。 >「行為する主体」は「これが自分」という意識は持っていない そうですね。純粋意識というか。 >家庭環境等における人間関係的な自分の位置に「自我」を見出すかも 様々な人間関係や立場などにより自己をそういうものだと認識する手立てにしているのかもしれません。その自我は、そういった周囲在ってこそ出来上がった自分。依存ならしめるものも在るかとも思います。 >欲望の対象を求める「自我」があるが、おそらくその「自我」は欲望の対象を認識すると同時に生じるものに過ぎなく、何らかの理由で欲望が消滅すると、その「自我」も消滅する。 心の動きを把握されていますね。凄いです。 >本人の発達によってそれを捨てなければならなくなった場合の「一つの自我の終わり」 成長による人生の節目のような。 >外に開いている状態とはどのようなものであるかというと、「感情が前を向いていること」が条件 >対峙 >「自我が自我を批判する」ような認識から離れることができない >要 洞察されていますね。本当に参考になります。 >戦いが起こったなら、自己は前者に食らい付いていくべきであり、決して後者を「揺るぎない現実」だと結論付けてはならない。 何故でしょう。 >「自我」が何故まずいものなのかというと、自分と他者との関係において、自分に都合の良い方を取れば、他者は都合の悪い方を取らなければならなくなるという場合においてまずいことだと思う。 世の、中には、これが蔓延しています。 >正当な手順 噛み砕かれるとどんな内容になりますか? >他者・公に対して前向きな関心の程度に従って、その人にとっての「世界」は違って見え、また、個人的に求めるものも自ずと変わっていく ふむふむ。柔軟な頭を持たれている方は動きが早そうです。 >そして自分は今の状況についてどうしたいのかということについて考えます。 今置かれている自己の正体と対峙し、自らに、価値は何かと問う。と云うこと。ですね。 >基本的な方向性を持っていれば、そうしようと思えばですが、どうしたら良いかは自ずと見えてくるように思えます。 自身の中に揺ぎ無い価値や方向性、信念を感じられる裏付があってこそのことですね。 そういった価値の日々の発見は本当に必要で大切なことと感じます。 ありがとうございます。

回答No.5

世の中に正しいものなど、ひとつもないのだとしたら、 あなたの質問は成り立ちますか? 実際は<正しかったり>と<不明だったり>の繰り返し。 波間に浮かぶ木の葉のように。 優しさも強さも、 それがエゴだと分かっても所詮その程度です。 自分の中で答えの出ない問いは後回しにして、 ただ反省して、当たり前に正しく生きるだけです。

corkwood
質問者

お礼

ありがとうございます。 >世の中に正しいものなど、ひとつもないのだとしたら、あなたの質問は成り立ちますか? >当たり前に正しく生きるだけです。 余り良く分かりませんでした。

  • pojipoji
  • ベストアンサー率32% (53/161)
回答No.4

大義名分と本音の問題でしょうか? あることを主張するためには、社会的にとか自分自身対してとか、その考えや行為が正しい又は止むを得ないなど、なにかしら自分の行為等を正当化する必要があります。「太陽がまぶしかったから」という他人には了解不可能な正当化も存在します。 カーネギーも「人を動かす」の中で、人間はどんなに間違っていても自分が悪いとは思いたがらないものだといっています。どんなに間違っていても、ああするしか仕方がなかった等の正当化するための理由を持っています。 どんな態度にも、本人が自覚するかしないかにかかわらず、なにがしかのエゴが含まれるでしょう。マルクスも「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」といっています。つまり、純粋の~というのはないのではないかと思います。 しかし、極端から遠く、多くの人を説得できる大義名分であれば、他の人々もそれを受け入れやすいということであり、大きな害悪を社会に流す危険が少ないものと考えます。

corkwood
質問者

お礼

ありがとうございます。 >自分の行為等を正当化する必要 >人間はどんなに間違っていても自分が悪いとは思いたがらないものだといっています 厳しげによく注意する人は、自分が間違えると笑って誤魔化す者は多いです。 >どんな態度にも、本人が自覚するかしないかにかかわらず、なにがしかのエゴが含まれるでしょう。 自覚するかしないかにかかわらずという所が、そうでしょうね。 ここまで読んできて、そんな気が大分してきた所です。 >極端から遠く、多くの人を説得できる大義名分であれば、他の人々もそれを受け入れやすいということであり、大きな害悪を社会に流す危険が少ない 質の良い?エゴの通し方という所でしょうか。

  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.3

問うている意味がよくわかりませんが、エゴの定義から しないと無意味な問いかけでしかないです。 それから、芥川が「羅生門」で投げかけたようなエゴなのか ドフトエフスキーが「罪と罰」で問題を提起したエゴなのか あるいはまた、メレディスが小説で描いたウィットフォードの エゴは社会的なエゴなのか、などなどエゴは悪でもないし善で もない。またエゴなしで生物は種を保存できない。つまり、定義 のないエゴは無意味ということで。

corkwood
質問者

お礼

ありがとうございます。 >問うている意味がよくわかりませんが >定義のないエゴは無意味 訳の分からないことを申してすみません。ただの凡人なもので。 エゴにも色々あるんですね。 それらの著書を読んだことがあるものもあればないものもある。

noname#80116
noname#80116
回答No.2

Q:《正しいと言われてはいるけれど、その成れの果て。または、その精神起源》として 《それでも尚、エゴだとわかったとき、どうしますか?》 という問いでしょうか。 A:問題は その文章・発言の妥当性にあります。《エゴ》は それほどの問題ではありません。どれだけのエゴを――人数あるいは社会的なあり方としての質の点で どれだけのエゴを―― 科学的な合理性あるいは 実施する上での現実性 さらにあるいは直観的な妥当性の上から見て 満足させるか こういった内容も 重要だと考えます。対立するエゴの需要を どれだけ 社会的に妥当な方法で 満たすか あるいは 犠牲にするか これらをも含んで 全体として検討します。  エゴはつきものです。 個人のことで 考えが 単なるエゴに発しているに過ぎないと分かった場合 あやまって 訂正します。

corkwood
質問者

お礼

ありがとうございます。 >エゴはつきものです 所詮人間は大半は動物です。 >対立するエゴの需要を どれだけ 社会的に妥当な方法で 満たすか やっぱり犠牲って出るんですよね。しかもそれを始めから知っていて。 犠牲の出ない妥当な方法。ってあるんですかねぇ。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.1

別にエゴ自体は悪く無いと思います。 問題なのは、他人の利益を奪ってまで、自分の利益を希求していまう事。 そうするとエゴイストとか言われる。 他人がいるから分け合ったりすることで集団で生活をして、お互いケンカしなくてすむ。 ですが、例えば被災して自分の家が助かって食料品がたんまりあって、他の人が少し分けて欲しいと言ってきたとき。 「いつ救助が来るかわからないからやらない」と棒をふりまわして追い払ったら、確かに食料の所有権はその人にありますが、助け合うことでなりたつ社会という側面からすれば、自分の利益しか省みないエゴイストってことになります。 戦時中は蛍の墓とか見ると、誰も悪いわけではないが、弱者が餓死するという自体が起こっていたと思います。 主人公の男の子も私からみればバカです。 彼の頑固さゆえ妹が餓死してしまったわけですから。 大人に助けてもらわなくても、妹を自分だけで育てるつもりで、人の畑から盗みを行ったりして、自分を愛しすぎたため盲目となり、妹が餓死してしまったわけで、本当のバカです。 架空の物語ですが、大人が冷たかったのではなく、彼の頑固さ 利己的すぎたせいで、妹も自分も餓死してしまった。 彼からすれば正しい生き方かもしれないが、私からすればエゴイスト。 妹が関わっていなければ、共同体と交わるのを拒絶して窮地に勝手に陥ってしまったのだから自業自得だと言えるのですが、妹までまき沿いにすると、エゴイストってことになり、彼のエゴは残酷さをはらんでいます。 結局 他人に迷惑をかけないでいれば、何をやってもいいと思います。 しかし、他人と全く関わらないということは現代社会を生きる上では不可能。 アルプスの少女ハイジのおじいさんも、他人と関わらず生きることは不可能でしたし。 彼がハイジを他の人たちと交流することを阻害したら、それは彼のエゴでハイジから他者と交流するという自由を奪ったことになる。 ロッテンマイヤーさんだったと思いますが、彼女は間違えてはいない。 ただ、彼女が長年かかって築き上げたルールがあり、それを超えることをされると、パニックに陥ってしまい、境界線を勝手に踏み越えてしまうハイジを自分のルールに従うよう、また 踏み越える無礼を直すようしつけることで、安息を得ようとしたわけですよね。 それもエゴかというと、うーーん 間違えではない。 お互い利得を希求するのは自由だが、他人の権利や自由を奪ってしまうと、エゴイストと批判的に言われてしまうわけです。 で、利益を主張するのは悪くないんですが、あれもこれもそれも全部自分のだ ってやってしまうと、いいかげんにしろ ってお目玉くらうわけです。 子供がケーキを独り占めして、他の子にやらないとしようとすると、お母さんは 他の子にも分けてあげなさいって諭しますよね。 そして他の子に分けてあげるとどういう得があるかを教えるわけですよね。 確かに自分が食べるものは減ったが、その代償に感謝されるというか、信頼関係というか、仲良くなり 生きやすくなるというお徳がついてくる。 だから、自腹を切ってそれより大きな得を得るってのもありで、それも結局自得のためと言われれば、、、、そうですね。 でも 悪いことじゃない。

corkwood
質問者

お礼

ありがとうございます。 >エゴ自体は悪く無いと思います。 人間も動物ですからね。所詮。 >他人の利益を奪ってまで、自分の利益を希求していまう事 自分さえ都合よくなれば後は無関心。だったり。自分の都合よくするために、他者の命や時間まで知っていて利用したり。 >助が来るかわからないからやらない 被災地ですと眼に見えやすくなりますが、実際の社会生活や仕事では、眼に見えないかたちにもっていって、まかり通らせている不届きな搾取はよくありますね。頭の良い、そんな人は、顔をいくつも持っていて、使い分けてまんまとそうします。

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