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子供の心を理解できないのはなぜか?

私自身の経験から演繹できる問題かどうか定かではありませんが、巷でもよく言われていることであり、また、よく他の親子を眺めて感じることでもあり、一般化して考えることもそう無理なことではないと感じています。 なぜ親は子供の心を理解できないことが多いのか?特に幼児から学童でしょうか。 たとえば、私自身の経験で、幼児のころ(6、7歳か)あまり親が頻繁に遊んでくれなかったりしたので、親の持ち物を壊したりして怒られたり、あるいは、極端な例では、旅行中、宿泊先の隣室の留守に忍び込んで、所持品を窓から捨てていたということもあります。 つまるところ、なにかさびしさからそういう行為に及んだのだと感じていますが、「お前さびしいのか」というような声はかけてもらったことがありません。世の一般の親も、子の問題行動に関して、その心の本質と向き合ったような対処をすることはまれなのではないでしょうか。乱暴ならそれだけを戒め、背後にある心の叫びのようなものを感知できない。あるいは、そういう対処対話ができない親なので子供が問題化するという実態もあるのかもしれない(これは親を変えるより出口がないですね)そこまで極端にならずとも、なぜ一般的に、かつて子供であったくせに、自分の子供の心にぴんと来ない親が多いのかといぶかしがっております。こういう洗練度というか、翻訳能力が、なぜもっと一般的になれないのか、単純なことなのにと思うのですが、どうしてなんでしょうか?また、これが人間の不幸のようにも感じます。 しかし、もしかすると、この能力をもし獲得したら、人間界全体を考えるともっと大きな不幸がくるでしょうか?

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  • hakobulu
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回答No.12

いわゆる超自我性を会得させることが親の義務であるということと、その超自我性に関して明確な指針を人類が未だ持ちえていない、ということだと思います。 つまり、絶対的な善、あるいは絶対的な悪とは何かということについての解が出ていないから。 狼少年の例(事実か否かは別問題として)のように、生まれてから一度も人の手をかけないで育った子供に超自我はおそらく育たないものと思われます。 超自我を育むためには(本能あるいは自我に対する)何らかの禁制・規制が必要になります。 ただ、子供の欲するままに答えていたり、逆に締め付けのみであったり、あるいは放任(放棄)するままでったりすると適正な超自我は育たない。 超自我の実体はわかりませんが、基本的にはこのように言うことができると思います。 この禁制・規制を与える役目は親が担うのが通常でしょう。 幼い子供の心(正確には脳神経作用、または記憶と言っても良いでしょうが)は柔軟な粘土のようなもので、如何ようにも変わり得ます。 (無論、ある程度の限界はあるでしょうが) 親も同じように様々な禁制を受けることによりそれぞれの超自我を確立してきたはずで、それが俗に言う価値観の違いといったことになるでしょう。 そうすると、子供に対する超自我の育成(くだけた話が躾ということですが)も、親自らの超自我性に基づいて行なわれることになります。 親は自ら受けた禁制を(どんな形にせよ)乗り越えて(糧にして)現在の超自我を保持しているわけなので、「子供の不幸」はあくまで「子供としての通過儀礼」にすぎない、という認識に立つ場合が多いのではないでしょうか。 つまり、忘れているわけではなく、過ぎ去れば大したことのない事案に過ぎない、と考える(あるいは感じる)ということでしょう。 しかし、全てがそうではなく、「大したことのある」場合も非常に多いというのが実際のところ。 泣いて涙を流す体験が必ずしも良くないとは言えないでしょうが、客観的な理不尽さに基づいて繰り返されるようであれば重大な結果を招くことになるのは容易に想像できます。 この場合も、親の超自我性に基づいてそういった状況が作り出されているわけで、ここで要求されるのは、自らを疑ってみる勇気ということが言えるでしょう。 子に対する虐待事件で、「躾のつもりだった」という親のコメントが記事になることがありますが、これは言い訳というよりは本心である場合が多いのではないか、と私は考えています。 >子の問題行動に関して、その心の本質と向き合ったような対処をすることはまれなのではないでしょうか。 :「問題行動」が起きるのは普段の親の接触姿勢に問題があるからに相違ないわけで、「心の本質と向き合ったような対処」をするためには、親と自分自身と向き合う必要が出てきます。 それが辛かったり、あるいは忙しかったり、などでおろそかにされがちだ、ということではないかという気がします。 ただ、結果的に「子の本質」と向き合えなくても、「子」と向き合おうとすることは親自身が変革の余地を自ら前提としていることになり、それが子にとっての大いなる励みとして記憶されることはあり得ると思われます。 変革するには勇気が必要ですし、それを自分のために行使しようとしてくれたということにいつか気づくこともあるでしょうから。 >もしかすると、この能力をもし獲得したら、人間界全体を考えるともっと大きな不幸がくるでしょうか? :現段階では理想的結果より思い浮かびません。 ただ、程度問題ではあるのですが、本能レベルで、理解してもらえないことへの抵抗力が弱体化する可能性はあるかもしれません。 その場合は、自我レベル、あるいは超自我レベルでそれを解決できるような脳の仕組みになれるか、といったあたりが焦点になりそうですが。  

garcon2000
質問者

お礼

たいへんよくわかります。 抵抗のないところ筋力はつきませんからね。 世の中矛盾で成り立っているというのは事実で、でもそれで上手く機能しているのです。 が、もちろんその中でも有害なものもあって、これらはシステム上廃棄され除外される。しかし、もしかすると根本的な問題がなおざりになれているのではないだろうか、あるいは、人間には解決不可能なことなのではないだろうかというのが、この問題です。つまり、 「心がわからなくたって、生物的に親になれる」 「結婚の届けをしなくたって、両親になれる」 「殺人罪に問われなくたって人を殺せる」 ・・・ 法というものの限界性、人間(ホモ・サピエンス)への適用限界と適用範囲の検証というものを分けて考えないといけないのでしょう。 しかし、所詮法は法で、それだけです。人間に迫っているところなどわずかです。心を豊かな生物として社会的存在になれるかというところで、歴史上一度も成功していない。つまりそれをユートピアというのではないかと。

その他の回答 (14)

noname#47518
noname#47518
回答No.4

的確な回答ではないかもしれませんが、親子の間にも相性というものがあります。 「似ていたら相性がいい」というわけではないのでしょうが、私の次男は性格が私の子供の頃と瓜二つで、次男が何を考えているかは手に取るようにわかります。 良いところだけでなく、悪いところも似ていて一緒にいてイヤになることもありますが、次男も「母親にウソはつけない」と諦めてなんでも話してくれます。 こういう場合は親はさほど努力することなく子供の気持ちがわかりますよね。 質問者の親御さんは日常的に忙しくて、質問者さんとキチンと向き合うことをしなかったのだと思います。「子供の気持ちを理解する」ということを重要だと思っていなかったのかもしれません。私の親だってそんなものですし、今は共稼ぎも多くて、ゆっくり子供と向き合う時間もなかなか持てません。それでも親子関係の良い家族はいます。 翻訳能力、の話をすれば、親から見て子供の側もわかりやすい子供もいれば、わかりにくい子供もいます。 私の長男は「自閉症」なので、子供の気持ちを理解するのに専門書を読んだり、医師や専門家の指導を受けたり親も勉強が必要です。 次男はだから逆にかまうヒマもなかったわけですが、「お母さんは忙しいから言いたいことがあればはっきり分かりやすく話してちょうだい」とお願いしていました。 私は結論のない話をだらだらされるのが嫌いで、そんな私にみっちり仕込まれた息子は、幼い頃から自分の曖昧な感情すら説明することができるようになりました。 (それは学校でも役に立ちました。立派な発表ができるし、作文も賞をもらったりします) だから、質問者様がまた親の立場になったら違うかなぁ、と思います。(まだ子供の立場でお話しているようなので) 子供も親に理解してもらうための表現力を持っていたほうが得だと思うのです。所持品を窓から捨てても、親は子供の気持ちなど分からないでしょう。親は完璧な人間ではないし、超能力者でもありません。 親の立場を理解する、ということも必要なのではないでしょうか。これだけ立派な文章が書けるのですから、一面からでなく、もっといろいろな角度から物事を考えることができると思います。

garcon2000
質問者

お礼

私自身親になるかどうかわかりませんが、なったとたんこういう妄想状態が解消するのだろうかという意味も込めて質問しております。ご経験談、たいへん納得できますね。特に「相性」ですね、なんとめぐり合わせの悪いことかというような事態が起こるのか、全くろくでもない世の中だと感じることもあります。想像性の限界というものは常について回る。次男は理解できるが長男はという実感。ラグビー嫌いなのに無理してやっても上手くなりませんからね。好きなゴルフなら大丈夫でも。 言語化の問題ですが、それの得意な人も言えれば、言語感覚両方とも苦手な人もいて、困ったものです。しかし、論理化し言語化するに越したたことはありませんから(以心伝心の方が通じることはないだろう)ただ、恐ろしく難しい作業ですよ。おそらく「相性」のいい次男だからわかるのではないでしょうか?子供の言語能力は幼児学童前期はかなり厳しいですから。 親の立場を理解できる余裕と感情的つながりが養われれば、万々歳でしょうかね。

  • Vwiyoonn
  • ベストアンサー率35% (162/455)
回答No.3

 まず、三歳頃までヒトは自己と他者(環境)の区別のない世界に生きている訳です。それが発達とともに自己と他者が弁別され、さらには四足歩行するもの総てが「わんわん」だったのが犬や象と区別されてゆくように、他者もまた細分化され、さらに成長することによって自己と他者、他者同士を結ぶ意味というややこしいものまでヒトは獲得します。  で──、幼児の行動はどれだけ自覚的なものなのか? といえば、彼らは意味を、それ以前に十分な語彙を、それどころかわたしたち同様の自己すら獲得している訳ではないので、自分が知覚(認識ではなく)している状況を論理的に表現することはできない訳です。つまり、幼児の「心」は言語や意味を獲得してしまったわたしたちの「心」とは同じものではない、ということになります。カエルとオタマジャクシの関係のようなもので一度カエルになるとエラ呼吸には戻れなくなるようなものですね。  ですから、同じ行動を幼児がとったとしても、解釈する者によって幼児の「心」はそのつど作りだされ、その解釈に基づいて大人は抱きしめたり乳を与えたり遊んでやったりという行動を起こし、時にはそれが当たり機嫌を良くし、時には外れて大泣きされて首をかしげるということが繰り返されるのです。  そこであなたは幼児の「心」に寂しさという(多分に自己の状況を投影した)解釈を与えた訳です。もしかしたらほかの人は退屈や空腹という解釈をしたかも知れませんが、これもまた正しいのかどうかはむずがりが解消されるまでは当の幼児さえも分からないというものではないでしょうか。  で──、幼児のように世界を感じる能力の獲得を、自己や他者、言語や意味の喪失を意味していると考えれば、人類総凶悪犯罪者ですね。幼児は小さくて無力ですから可愛く感じられますが、大人の大きさと腕力そして道具を使う能力を有した幼児なんてものを想定すると──B級ホラーの世界ですね。  大人であるってことはそう悪いものではないのですよ。

garcon2000
質問者

お礼

確かに、幼児は動物と人間の中間存在でしょうね。しかし、なにか「犬」に対しての素直な接し方じゃないものを、人間にしてしまっているのではないかという危惧があります。もちろん責任感が違いますけど。妄想といえばそれまでなんですが、すごく泣き叫んでいる子供を見ると「悲惨だなぁ」と感じますね。あの子は、大人から見ると些細なことが、どんなにか悲しく苦しいんだろうと。

  • mojitto
  • ベストアンサー率21% (945/4353)
回答No.2

確かに大人は以前は子どもだったはずです。 親子は付き合った時間が長いので、赤の他人同士よりは分かりあえるでしょう。 でも『同じ子ども』ではありません。 生まれ育った環境も違います。経験した出来事も違えば、心身の成長だって異なります。 ただ単に昔は子どもだったから、親子であるから、という理由だけで心を理解できるとは思えません。 特に物心つく前の子ども相手だと、自分にその当時の記憶がないので経験による対処もできないですしね。 >なぜもっと一般的になれないのか これの云わんとしているところがよく分かりませんが、本質と向き合うというのは個々との対面なので、一般概念が持ち出せる様なものではないと思います。 では質問を変えて見ましょうか。 「人間の心を理解できないのはなぜか?」 『同じ人間』なら人間の心を理解できてもおかしくないと思いませんか? 理由は『同じ人間』ではないからです。

garcon2000
質問者

お礼

確かに、「違う」人間なんですね。しかし、それが理解できないとかしなくてもいいとか想像力の限界とか、そういうこととはまた違うのじゃないかと?つまり、柔軟に自他共に成長するかてなのではと感じるんです。もっとも確かに困難で才能を要するかもしれません。

  • hyakkinman
  • ベストアンサー率16% (738/4426)
回答No.1

「戦争の傷跡」なのかもしれません・・・。 戦後、大人たちは「子供にだけは、辛い思いをさせたくない」と「呪文のように唱えて」生活をしてきました。 同時に、世の中に「便利なもの」がいっぱいできてきて、「障害者」のために作られたものを「健常者」が「楽をするために」使うようになってしまいました。 「教育」の面から見ても、「暗記力を競わせているだけ」の「心が伴わないもの」になってしまっているようです。 これでは、【人間らしさ】(会話をし、笑い、泣き、他人の痛みをわかり、他人を助け、他人と協力し、創造してゆく。)は、育まれないでしょう。 今頃になって、「苦労は、買ってでもしろ。」と、口先だけで言われても、若者は相手にしないでしょう。 たいへんな、「教育問題」だと思いますね 「人を育てられない大人」が、増えてしまいました。 このままだと日本は、「ロボット人間大国」になってしまうでしょう。 国民全員が「考えなければいけないことだと思います。」

garcon2000
質問者

お礼

私も、歴史的(特に日本近現代史)と切り離すことはできないと考えます。そういう意味で、悲劇性をもった歴史です。仮に、違った歴史があって、完全植民地化共産化かわかりませんが、劇的に社会情勢が変わり価値観が変わり、エコノミックアニマルの美徳ではない社会だったら、違うのではないでしょうか。 実際は、豊かさ、便利さ、経済力それを道理とか自衛とか筋の通ったこととかいう事に優先させてきた。もちろん、それは立派な選択だが、一方で死んでゆく価値観もあった。そのひとつが、心の対話なんじゃないでしょうか。ウェットな情緒それをもっと強調する社会が必要でしたね。

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