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仏教聖典に関する疑問

仏教聖典で仏教を勉強しています。 62ページに、「人は不幸を恐れて幸福を望む。しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることがわかる。」という記述があるのですが、なぜそうなるのかがどうしてもわかりません。 どなたか仏教に詳しい方、教えてください。

  • keeps
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  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

[真実の智慧]が何をいわんとしているのかがわかれば解ける問題ですね。 [真実の智慧]とは、人間は本来、霊でありあの世(あるいは天国)の住人なのだ。修行のために地上で肉体を持って生まれ今なら約80年を過ごしているのである。ということですね。 「本来は苦しみも悲しみもないあの世の住人であり、苦しみ悲しみ喜びなどいろんなことを経験するためにのみ地上人生があるのだから、地上での不幸(厳しい人生)はみな魂の向上(=幸福)のためのとぎ石でしかない。」ということですね。だから真実の智慧からみれば不幸も幸福なことなのです。ただ背負いきれないような不幸は誰にも与えられてないことも仏の慈悲ですから。 例えば、仏が入滅した「仏滅の日」はみないやがりますがあの世から見れば仏の帰天日なのであの世の住人は飲め歌えと大喜びしているわけですね。どこに視点を置くかで見方は180度変わるということですね。

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  • tecchan22
  • ベストアンサー率53% (41/76)
回答No.5

浄土真宗の祖師、親鸞聖人の正信偈に 「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」(惑染の凡夫、信心を発こしぬれば、生死すなわち涅槃なりと証知したもう) とあります。 (惑とは煩悩、惑染の凡夫とは、煩悩に染まった人間ということ) またそのことを、煩悩即菩提・転悪成善(苦しみのままが幸せとなる)、とも教えられます。 それを教えた 「渋柿の しぶが そのまま 甘みかな」 という歌もあります。 勉強されてみては?

keeps
質問者

お礼

みなさん、ご回答ありがとうございます。

  • ikinari41
  • ベストアンサー率30% (4/13)
回答No.4

幸、不幸と分別すること自体、人間の迷いです。 なぜそうなるか?と問う立場を消してくるのが、真実の智慧です。

回答No.3

 未熟ながら少しお答えさせていただきます。 >>「人は不幸を恐れて幸福を望む。しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることがわかる。」という記述があるのですが、なぜそうなるのかがどうしてもわかりません。  仏教の世界観に「三界」というものがあります。世界を欲界、色界、無色界という三つの世界に段階的に分ける見方です。  その三つの世界の中で欲界を観てみますと、その頂点は「他化自在天」その次が「化楽天」と続きます。  この「化楽天」は環境を自分にあわせて変えることが出来る世界です。そして、その上の「他化自在天」は逆に自分が環境に合わせることが出来る世界なのだそうです。  つまり仏教的に言えば、自分の思い通りに環境を変えられる者よりも、自分自身が環境に合わせることが出来るようになるほうが上ってことですね。そうなると、不幸であることを消し去り幸福になれる者よりも、不幸な状況にあってもその中で楽しく幸せに生きることが出来るようになるほうが仏教的には幸福ということです。  大金を出して豪華で美味しいものを食べられる人になるよりも、質素な食事でもおいしくいただける人になりましょうって感じですかね。    また、もうすでにご存知かもしれませんが「ダンマパタ(法句経)」にお釈迦様は、 「愚かさを推し量る愚者は、それ故また、賢者である。 賢者であると慢心を抱く者は、それこそ愚者と呼ばれます。」 と説いておられます。つまりお釈迦様にとっては、本当の智慧を付けるということは「愚かさを消して賢くなる知恵」ではなく、「愚かさを背負い、愚かさを省みることが出来る智慧」といえると思うのです。  その智慧は、「吾唯知足(われ ただ 足ることを知る)」という「私はただ、充足することを知る」という言葉につながっていくのではないでしょうか。お釈迦様のような真実の智慧を得た方にとっては、どのような状態であろうとも自分は満ち足りている事を知っているのです。それこそが幸福であり、幸不幸とかいうような相対的な幸福は本当の幸福ではないということになります。お釈迦様の言葉を借りれば「ダンマパタ」には、 「お金の雨によっても、欲望は満たされることはない。賢者は{欲望とは心が晴れることのないもの、苦しみである}とわきまえている」 とおっしゃっています。 >>人は不幸を恐れて幸福を望む。しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることがわかる。 というのを私なりに訳してみますと、 「人の煩悩(欲望)は不幸になりたくない幸せになりたいと望むものです。しかし、煩悩を離れ真実の智慧を得たものが、幸不幸を眺めて見れば、煩悩を持った者にとっての不幸の中においても、そのままの状態で満ち足りていることを知るという本当の幸福の中にいるのです。」 となるのでしょう。  なかなかまとまらぬ文章で、申し訳ありません。文意を読み取っていただきたく思います。  合掌 南無阿弥陀佛

回答No.1

人間は本来ひとつのものを知恵で分けて理解します。 「わかる」という言葉は「わける」が語源です。 これを分別智といいます。 もともと同じものなのに、自分に都合のいいものを 幸福、都合の悪いものを不幸とします。 どんな生き物も生態系にとっては、なくてはならないもの なのに、人間の都合で益虫と害虫に分けてしまいます。 自分のエゴ・我執を捨てて無分別智(智慧)で見れば 幸福も不幸も同じです。 不幸を嫌い幸福を求めるところから苦しみが始まります。 http://www.asahi-net.or.jp/~yi9h-uryu/tera/word/bukkyougo-chie.htm

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