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マヌ法典、聖典と経典の違い

来年度受験予定の高校2年生です。 世界史でどうしてもわからないところを質問させてください。 以前に質問したのですが、解決できなった部分があったので再度お願いします。 古代インドでヒンドゥー教のところなんですが、 「ヒンドゥー教はヴェーダを聖典とした」 とあり、別の箇所には、 「ヒンドゥー教は経典を持たない」 とあります。 色々と調べてみて、wikipediaには、 「聖典(せいてん)とは、神や神的存在、聖人の言行が書かれたもの、または教説がつづられたものの内、それぞれの宗教内で、特に権威ある書物をいう。教典ともいう」 とあったので、何となくは理解したのですが、 それならば「聖典」と「経典」の線引きはどうなっているのでしょうか?何か明確な基準がありますか? 仏教に限っての「経典」の意味は理解しているつもりです。ここでは宗教一般に関して、高校世界史レベルでの「聖典」と「経典」の違いが聞きたいです。 もうひとつ、 「マヌ法典」は「聖典」ではないのでしょうか? ユダヤ教でいうところの「十戒」やイスラームの「シャリーア」みたいなものでしょうか? すいませんが詳しい方、よろしくお願いします。

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みんなの回答

  • poccuru5
  • ベストアンサー率22% (61/276)
回答No.2

仏教での経典という言い方が定着してしまっていて、そんなに違いがあるとは思いませんが…。 ヒンドゥー教の聖典は、かなりあいまいな印象を受けます。なんでもかんでも聖典として扱ってしまっているような印象です。たとえば叙事詩の『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』でも、人によっては聖典と呼んでいるのでは。『ギータ・ゴーヴィンタ』も厳密には宗教詩で、内容はややエロティックな描写も含んでいますが、やはり聖典として扱われているようです(→平凡社東洋文庫)。そういう、なんでもかんでも聖典として扱う気風を見れば、仏教の各宗派の信仰の典拠となっている厳密な意味での経典はないのかもしれませんが…。 よくはわかりませんが、『マヌ法典』が聖典と呼ぶことに差し支えはないと思います(自信無さげな回答でスミマセン)。

8yukicchi8
質問者

お礼

お礼が遅くなってすみません。 そうですね。あいまいな感じがします。 どうしても勉強していると割り切りたくなるので、こうしたあいまいな部分を授業でスルーされるとものすごく混乱するんです。 回答、参考にさせていただきます。 どうもありがとうございました。

回答No.1

 投稿ができないのではないが、受験に関連するならばこれは社会科や世界史の教科書を作ったり、出題・採点する次元(場面)でのことであり、その人たちがどう認識・観念しているかの事です。ですからその人たちに確かめられないなら、科目担当の先生にお尋ねする事です。  そういうわけで、巷(ちまた)のおじいさんが参考までに自分の考えをつたえているのだと思って読んでください。高校はもう55年以上も前で、どんなことばで、どんな話し方をしたらいいかわかりませんが、おじいさんの使っている日本語で書きます。  はっきり言えば、聖典は敬称がついた本のことでしょうし、経典も当然含むでしょう。  でもご質問に合わして、その中での区別をするとなると、以下の通りにも考えられます、という回答です。  つまり質問の文章での使い分けを解釈すれば、ということです。    “典”とは本とか書いてあるものだと存じます。“典拠”根拠とする書いてあるもの。  “聖典”は聖なる、つまり宗教上や信仰上の書いてあるものでしょう。  “ヴェーダ”は確か、信仰上の祈りや行のこと儀式の仕方、或いは唱える文句などを教えていると存じます。四つとかありますね。つまりそういう聖なる本(聖典)でしょう。  “聖”は敬称の意味です。  ヒンドゥ教も教派がたくさんあるのですね。経典ていうのは日本語で言えば、お経の書いてあるものでしょう。  般若心経とか、観音経とか。ヒンドゥでいうとシュードラというものに当たるでしょう。  パタンジャリのヨガ・シュードラとか。  頭のてっぺんからつま先までを書いてあるもの。たていと(経糸)で全部を綴っているもの。  頭は北、性部とか下は南。北から南、横のものも全部通しているもの。これをシュードラといい、日本語の経典に当たると存じます。  ヒンドゥは聖なる本はある。それはそうでしょう。複数あってもいい。  しかし経典は、信仰や宗教のあるべき絶対のことを書いてある。  それは普通、わたしたち(わたしもヒンドゥの教えの一つを精進しています)は先生のお話や、自分の真底での宇宙の根本から教えられるものです。  書いてあるものは聖典でも、信仰の典拠とはならない。  自分が神と先生から教わり、そうだと思うものしか典拠にならない。  わたしの場合はそういう意味だと理解しますが。  書いてあるものは書いてあるもの、聖なるものかもしれないが、聖なるものにも儀式や何かを魔にお願いするものや、神におねだりするものもある。  健康や財産を頂戴、っていうのもある。その仕方を書いてあるのも聖なるやり方で、聖典でしょう。  でもヴェーダンタの会の人はヴェーダを聖典とし、そして典拠の経典にしますが、それはそこに非常に高度な内容のものを読み解いています。これもラージャ(ラージャは王、つまり素晴らしいという意味。内容は体を扱う、つまりストレッチなどの元のハタヨガや叡智のヨガやなんかを全部統合しているという意味)の教えとなります。  そういうヴェーダの教えは、指導者の読み解きによって、典拠となります。  これは指導者の与える経典です。私たちはバガヴァッド・ギータを先生の読み解きで勉強します。  信仰とその精進は自分がやるのです。  マヌは神から一定の段階になってきた存在でした。いえ存在です。  この方も法典を編集しました。  これを聖典とすることには誰も異議はありません。  でも先生がこれを読み解いて、経典にするかどうかは又、別だと存じます。  この文章を、世界史や担当の先生にお見せし、ご批判や訂正、修正を頂いてください。  アクティヴな一ヒンドゥ信仰者としての日本人のおじいさんからの話でした。

8yukicchi8
質問者

お礼

お礼が遅くなってすみません。 詳しい回答ありがとうございます。 頑張って読み進めたのですが、わからないところもあったので、仰るとおりにしてみようと思います。 ただ、学校の勉強では数分で通り過ぎた話にも、深い考えや思想があるんだな、ということは実感しました。 時間があれば、もっと興味を持った内容については深く学んでみたいと思います。 どうもありがとうございました。

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