• ベストアンサー

心とは?

mmkyの回答

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

[それでも私は「心とは脳の働きから生まれる物理現象である」 と考えるのが合理的な気がするのですが、やはり間違いなんで しょうか?] 間違いでしょうね。 私もかって若い時分に剣道をやっていて「身体が勝手に動いた」で勝った経験があります。脳で考えてはいませんでしたね。更に、「真空無双」という状態も体験しましたが、脳で考えるという状態ではなかったですね。打ち込まれる瞬間の0.3秒の世界が絶対の静寂のなかの永遠に長い時間のように感じましたね。気がついたときは勝っていましたが、体がどのように動いて勝ったのかは記憶がなく、その代わり腕が硬直してなかなか戻らなかったことを覚えています。 その後、長い経験を経て、はっきりいえますね。肉体の自分と心の自分は違うものだとね。熱い、寒い、いたいなどは皮膚の感覚が脳に伝わって生じる事は間違いがありませんが、心でそれを置き換えることも可能なことなのですね。「心頭滅却すれば火もまた涼し」とね。

siniti009
質問者

お礼

ありがとうございます。 確かにそういう武道の世界や禅の世界の話を 聞くと心身二言論で考えても納得出来てしまいますね。

関連するQ&A

  • 心は社会的現象だと思うのですが、どうでしょうか?

    私は以下のように考えて「心は社会的現象」と思っています。皆様、いかがでしょうか。 一般的な理解では、心は脳内現象(デカルトの心身二元論:「私」=身体+心)。でも、ようく考えてみると心は単なる神経細胞脳細胞の反応ではない。我々の心の大部分は記号(言語、美術、音楽その他)によって枠組みが形成されているからである(俺の言うところの記号世界)。 そして、記号とは社会的規約(将棋の駒=記号の意味は将棋におけるその使用規則と使用例)である。とすると、心は社会的現象ということになる。つまり、  「私」=身体(物理的化学的現象)+心(社会的現象) という等式が成立する。換言すれば「心は身体内に生じている社会的現象」である。 だから、宗教において、心を無化する(仏教)とか神に帰依する(キリスト教)などという教えも成立する。脳内現象ではなくて社会的現象だからこそ、心を無とか神とかの記号に結びつけられるのである。もっと端的な別の例を挙げると人々の心の相互理解・相互影響も心が社会的現象であることの証左となる。 こんな単純なことに到達するのに西洋哲学はプラトン以来二千数百年を要した(聡明で健気な貴女に捧げる哲学史(5)自然に帰れ参照)。

  • 人間の意思について

    人間が何かをしようと体を動かすための信号は脳から送られてくるわけですが、脳の働きも結局は物理現象なので、人間には意思はない(外部からの刺激に対してただ反応してる物質)という話がありますが、どう思いますか?

  •  感・理・意・・・など、心の仕組み(?)について。

     人の心は、理性、感性、意志、と言う言葉で表す三つの働きがあるとされていますが、「記憶」と言う働きはどのような位置づけになるのかと、時々考えたりしています。  今日、思ったことは理性、感性、意志、の“性や志”を取り除いて“理・感・意”とした場合、どうなるかと云う事です。  「感」には感覚と感情という言葉がありますが、感覚は物理的な反応としました。  感情は精神的な反応、でよいと思いますがその内容は物理的な“感覚”に反応して起こる「情」と精神的な“刺激(好悪など)”を受けて起こる「情」とがあるように思います。  また、感覚は生理的に、感情は心理的に、とも受け止めてみました。  「理」についてはどうなんでしょう。  理性、と言う言葉に対して理解という言葉を当てるのは適当でしょうか。  理解とは物事を解釈し判断すること、でよいかと思いますが、理性とはそうした能力(働き)の事を言っているように思います。  そう思うと、理性とは物事を理解する働き、と受け止める事になるのですが、これで良いでしょうか。  「意」については辞書では“思い”とありますが、これに「志」が付くと“力(ちから)”を感じます。  この“力”は言い換えれば行動する、と言うことだと思います。今、能動という言葉を思い出しました。     「感」を受動、とすれば「意」は能動、であると。  そして、「記憶」という心の持つ能力です。  生物すべてにあると思われる「記憶」という心の働き、“心”はこの「記憶」を土台にして成り立っているのではないのだろうか・・・・・  なんてことを考えてみましたが“回答”いただけますでしょうか。  よろしくお願いいたします。        

  • 「魂」寄生論みたいな考えはあるのでしょうか

    生物の体特に脳は、魂が寄生して、高度な動物になると「心」を生じるというような考え方は、唯物的でも唯心的でもなく折衷だと思うのですが、こういう考えを言った哲学者はあるのでしょうか。 というのも、最近の脳研究などを垣間見ると、物質的な働きはわかるけれども、精神的な働きまではわからないようではないですか。だから、「魂」を別に考えておいて、そういう霊的なものが物質的脳に宿っていると考えれば、すんなり説明がつくことのように思えます。

  • 「心」って何ですか。

    「心」って何ですか。 脳ですか。体の一部ですか。 体から離れることのできる「心」が、別のところにあるのですか。 「我思う ゆえに 我あり」の「思う」をしているのは、どこですか。 うれしい悲しい淋しいと「感じる」ことをしているのは、どこですか。

  • 心と身体

    哲学の授業で心と身体(mind&body)について学んでいるのですが、考えがよくまとまりません。 心と身体は、別々のものなんでしょうか?それとも、同一のものなんでしょうか? Dualism(二元論)も学びました。 どなたか詳しいことをご存知の方アドバイスをください。宜しくお願いします。

  • 思考も有機体の生化学反応なる物理現象に他ならない

        人間の行うあらゆる精神活動、哲学を含めあらゆる形の思考も有機体の生化学反応なる物理現象に他ならない。 このよーに考えて良いのではないか。    

  • 心って、どうやって鍛えるの?

    こんにちは 体って、筋トレやジョギングなどで鍛えられますよね。 脳も、勉強したり、様々なことを体験したりして、鍛えることができますよね。 でも心って、どうやって鍛えるのでしょうか? 私だけかもしれませんが、嫌な事を言われたりやられたりして、何度心が傷ついても耐性が付かず、どうしても心が強くなってくれません。 何を言われようがやられようが、びくともしない、堅牢な心を作りたいのですが、それって無理なのでしょうか・・・

  • 心は脳が作り出しているから死んだら全て消える?

    心は脳が作り出していますか? (つまり死んだら心も全て消滅する) それとも心と脳は別であり、 人の寿命が来て脳が死んでも心は生きていますか? (つまり死後の世界がある) 私は迷っています。 中国唐代の禅匠である 黄檗希運禅師の言葉を引用すると 感知されたものは感知するものではありえない。 われわれはいろいろなものを見ることができるが 見るものを見ることができない。 感じるものを感じることはできず、触れるものを触れることはできず、 嗅ぐものを嗅ぐことはできない。 そのように知るもの(心)を知ることはできない。 知る心はさまざまなものを対象的に知ることはできるが、 知る心を対象化して知ることはできない。 だから知るものである心を脳と同じような対象的な存在として扱い、 それを脳と関連づけて〈心は脳の働きだ〉というのは 正確な理解とはいえない。 とあります。 この考えは理解できるのですが、 であれば何故、薬物などを摂取すると (大麻、覚せい剤、シンナー、コカイン、ヘロインなど) 心まで変わってしまうのでしょうか? それは脳に影響を与えるから 心が変わっているのではないでしょうか? そう考えると、心は脳が作り出したもので 死ぬとすべてが消滅する、 というほうがしっくりくる気がします。 答えの出る問いではありませんが みなさんはどうお考えでしょうか? よろしくお願いいたします。

  • 人間に心は存在しない

    人間に心は存在しません。 脳に感情を司る部分があり、目や耳等から刺激を受けた時に、化学物質が生成され、血液中に放出され、身体に様々な影響をおこすだけだと思います。 どうでしょう。