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日本の領土について

北方領土で問題になっているが、北の日本の最大領土というか カムチャッカ半島やアラスカ付近まであったかも知れぬが 戦争で失った時期やその経過が知りたいです。  

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  • mat983
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回答No.2

下記サイトを参考にしてください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E9%A0%98%E5%9C%9F#.E5.8C.97.E6.96.B9.E9.A0.98.E5.9C.9F.E9.96.A2.E4.BF.82.E5.8F.B2 北方領土関係史 日本政府は、「日本はロシアより早くから北方領土の統治を行っており、ロシアが得撫島より南を支配したことは、太平洋戦争(大東亜戦争)以前は一度もない」と主張しているが、実際には、1760年代にロシア人のイワン・チョールヌイが、択捉島でアイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てたという記録が残されている。また、最上徳内が日本人探検家として最初に択捉島を訪れた1780年代には、択捉島には3名のロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが知られており、同時期、既にロシア人の足跡があったことも知られているので厳密に言えば、日本政府の説明は正しいとはいえない。 1855年 日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。 1869年 蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。 1875年 日本とロシアは樺太・千島交換条約を結び、「それまでロシア領だった千島諸島のグループ(le groupe des îles dites Kouriles qu'elle possède actuellement)」を日本領、日本とロシアの共同統治としながらも、両国民の紛争の絶えなかった樺太をロシア領とした。この条約はフランス語が正文であったので、日本語訳が作られたが、この翻訳は不正確なものだった。不正確な日本語訳に基づいて、得撫島以北が千島列島であるとの解釈がなされたことがある。 条約締結後、当時の行政区分で「千島国」と定められていた国後島・択捉島に、得撫島以北を編入し、国後島から占守島までが千島国になった。 (1904年-1905年 日露戦争。ポーツマス条約により南樺太が日本に割譲された。) (1917年-1918年 ロシア革命) (1918年-1922年 シベリア出兵) (1931年 満州事変勃発) (1937年 日中戦争勃発) (1941年 日米開戦) 1943年 10月、モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる(モスクワ会談)。この席上、米国はソ連に対して、南樺太と千島列島をソ連に与える見返りに、対日参戦することを求めた。続いて11月末、イランのテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれる(テヘラン会談)。この時も米国のローズベルト大統領が南樺太と千島列島をソ連領とする見返りに、ドイツ降伏後の対日参戦を求めた。 テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰する為に戦争をしていること、日本の無条件降伏を求めることが宣言された(カイロ宣言)。カイロ宣言では、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。 1945年2月 ソ連のヤルタで米・英・ソ首脳が会談(ヤルタ会談)。ここで、戦勝国間で、いずれ敗戦する戦勝権益の分割が話し合われた。日本を早期に敗北に追い込むため、ドイツ降伏の2ないし3か月後にソ連が対日参戦する見返りとして、日本の敗北後、南樺太をソ連に返還し、千島列島をソ連に引き渡すべきとした。(ヤルタ協定)。 1945年8月~9月 8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告。8月14日、御前会議にて、米・英・中・ソの共同宣言(ポツダム宣言)の受諾を決定、連合国にポツダム宣言受諾を通告。9月2日、日本は連合国が作成した降伏文書に調印した。同時に一般命令第一号(陸、海軍)では、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太・千島諸島に在る日本国先任指揮官ならびに一切の陸上、海上、航空及補助部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏すべきこととした。 トルーマンの「一般命令第一号」原案では、千島列島の日本軍がソ連に降伏するとされていなかったため、スターリンは、ヤルタ協定に基づき、ソ連軍に対し降伏させるようトルーマンに要求。トルーマンはスターリンの要求を受け入れた。しかし、同時にスターリンが要求した、北海道東北部の占領要求は、ヤルタ協定になかったので拒否した。他方、米国側はソ連に対し、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させるよう要求したが、スターリンに拒否された。 8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻したソ連第二極東軍部隊は、8月25日に南樺太を占領。すでに、千島列島をソ連が占領することを、トルーマンと合意が取れていたので、8月28日から9月1日までに、北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領した。なお、8月18日にカムチャツカ半島方面より千島列島に侵入した第一極東軍部隊は、8月31日までに得撫島以北の北千島を占領している。 1946年~1949年 1946年1月29日、GHQ指令第677号により、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権が中止された。国後、択捉両島は千島の中に含まれるものとして、日本政府の政治上、行政上の権力行使の外におかれることになった。2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入した。 北方領土には日本人は約1万7千人住んでいたが、占領当初は、日本人の本国帰還は認められなかった。1946年12月、GHQとソ連との間で日本人全員の引き上げが合意されると、1949年7月までにほぼ全員の日本人が帰国した。しかし、GHQ指令によって日本国籍を離脱していた朝鮮人はその後も帰還することができず、多くはサハリン(樺太)に移住した。 1951年 サンフランシスコ講和条約で、日本は千島列島を放棄する。平和条約国会で、政府は、日本が放棄した千島列島の範囲に、国後島・択捉島が含まれると説明している。(この説明は1956年2月に変更された。) 1956年 日ソ共同宣言(昭和31年条約第20号)で日ソ間の外交関係が回復。領土についてはじめ日本は南樺太・全千島の返還を要求したが、当然それは認められず、譲歩を重ねた末、歯舞諸島・色丹両島の返還で平和条約締結に合意しようとした。そのとき、米国が介入、国後・択捉の返還を要求しないならば沖縄をグアムと同じような米国の属領にすると恫喝し、合意を阻止。結局日ソ平和条約は締結されず、締結後に歯舞諸島・色丹島をソ連が日本に引き渡すと記載された条文を盛り込んだ共同宣言で決着した。 1957年 ソ連国境警備隊が貝殻島に上陸。日本は日米安保条約下にあったが、このとき米軍は一切出動しなかった。 1960年 岸信介内閣が日米安全保障条約改定を行った事に対してソビエトが反発。ソ連は、歯舞諸島と色丹島の引き渡しは「両国間の友好関係に基づいた、本来ソビエト領である同地域の引き渡し」とし、引き渡しに条件(外国軍隊の日本からの撤退)を付けることを主張する。日本政府は、共同宣言調印時には既に日米安保があったとして反論。 1973年 田中・ブレジネフ会談。日ソ間の諸問題を解決した後、平和条約を締結することが合意された。(日ソ共同声明)

rando34
質問者

お礼

 ありがとうございました。 義務教育時代においてかなり、北方まで領地があったことは記憶しております。カムチャッカ半島のすぐ脇までとそれより東に少しあったと教科書に地図があったのを記憶しています。過去においては、その土地に早く住み着いたらその国のものだという1部の主張もあったですね。 仮にこのwikipedeiaに記述が少しは本当だとすれば、それ以後の領地において 1875年5月7日の樺太・千島交換条約 1943年モスクワでの密談の2件は、日本において大きな説目であったと思われます。  アメリカについては、モスクワの密談でアメリカの暴挙は指摘されてしかりである。戦後、アメリカは、ソ連のホップ領土は否定したそうであるが。

rando34
質問者

補足

 (回答からの続き) アメリカは、しょせんゲルマン民族やイギリスの難民で渡った流れを組んだ民族で漂流国家みたいなものではないかと思う。ワシントンの北側の領地で独立運動が高まったそうであるが、なし崩しにC●Aなどが、そんな運動をつぶしたのであろうか??   どうも教科書的には、日本にとってという視点からしか世界の歴史は普通一般の日本人は(私もであるが)アメリカの歴史とかヨーロッパの歴史を感じていない。  日本は、多くの領土が、あったのにどれだけ損失をしたのであろうか。過去の政治責任が問われてもいいと思う。ヨーロッパでは陸続きなので国境は かなり変わっている。  イギリス、スペイン、オランダ他の植民地政策でアフリカ・アジアは、大迷惑をしている。日本にとってソ連も第2次世界大戦後は特にである。  平和ぼけをしていそうな日本は、過去の世界各国のやった行ないは、あちらさんからすべてけしかけてきたことであるから、これから常に忘れないことが肝心だと思う。日本においては中国への侵略とかが問われているが、それはヨーロッパやアメリカが押しかけてきて押し返そうとする動きからそうなって(陸軍が天皇統帥権をたてにとり誤った行動をしたのが大きいのであると思う)いるのであり、根底の誘発原因はヨーロッパの西側に位置する国とアメリカである。  しかし現在、経済政策上、西側についているだけで本当は友好的には、アジアと仲良くしたいのはヤマヤマであるが、やはり日本の国益ではやむを得ないでありましょう。アメリカは、つけこむ民族集合体である。ヨーロッパ各国も似たようなものですね。ソ連と中国は対外国にたいしてはアメリカほどえげつないのでは、ないか。 もとに領土を戻したらどうか。ヨーロッパとアジアを含めて、アメリカは移民国家なのでどうなのかなぁ?  あと太陽が、50億年しかないらしいが、アメリカにおいては横暴なことをするよりそのくらいの研究をしろといいたい。地球上で馬鹿な戦争をする暇があったら惑星に住めるかどうかも研究したらぁ・・・。  以上、単なるぼやきであるが、最近、中国と韓国の日本に対する暴挙が ある。これは、絶対ほっておけない。過去からどれだけ削減されたかを肝に銘じ、領土をむしばまれないよう国をあげて対処すべきだ。 とまぁ、一個人の気持ちです。表立ってはいえないけど、(現在、中国の1部の人間が日本を批判してネットで書いているのと同じレベルと思われるのかな。トホホ・・・)回答者の方、失礼しました。

回答No.1

> カムチャッカ半島やアラスカ付近まであったかも知れぬが 何れの場所も日本統治下にあったことはありませんが? 近代日本政府が統治した最北は占守島と樺太(サハリン)です。

rando34
質問者

お礼

正しくは、カムチャッカ半島付近の島やアラスカ付近の島と書こうと思いました。ありがとうございました。

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