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烏帽子親と烏帽子子について

烏帽子親について、辞書で元服親、後見人、といったニュアンスの説明を見たのですが、 実父が健在でも成人後別に烏帽子親を持つのは普通だったのでしょうか? (どのような場合烏帽子親をもつのでしょうか?) また、烏帽子親と烏帽子子との関係はどういったものなんでしょうか? (元服後も関わりがあるのでしょうか?) など、いろいろと気になり質問させてもらいました。 もしかしたらその時代時代で変わってしまうかもしれませんが、 所謂、戦国時代あたりで烏帽子親と烏帽子子について教えてください。 よろしくお願いします。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mapato
  • ベストアンサー率69% (493/705)
回答No.4

こんにちは。 烏帽子親と言いましても「育ての親」になる訳ではありませんので実父の有無とはまったく関係がないのです。 これは中世以降広く行われた慣習で、武家社会だけでなく貴族の間でも「引入(ひきいれ)」と呼ばれる烏帽子親に当たる存在がありましたし、室町中期以降は庶民の間にも普及していったと言われます。 戦国時代の武家同士で婚姻によって同盟関係を築いていたことは御存知かと思いますが、「一族の娘を妻という名の人質としてとる」という一面があると共に、やはりそれによって「親族」になることが大きい訳です。 烏帽子親・烏帽子子の関係にしてもそのような面があったという訳で、主従間であれば絆はより強固なものとなり、異なる武士団の間であれば一種の同盟関係が結ばれるような効果もありました。 烏帽子親は基本的に一族とは別なところから選ばれるというのもそうしたことがあるからで、また有力者に烏帽子親になってもらうことは将来的な発展としても有利という面がありますし、ある種「箔がつく」というところもあったでしょう。 また特に庶民などの間では現代でいう「保証人」という意味合いも強かったと思います。 つまり烏帽子子に何かあったら烏帽子親にも累が及ぶという訳で、そういう「責任」をも追うことで連帯感を強めると同時に無軌道な行動を抑制するような面もあり、これを同族から選出しないことにもそういった場合のことが念頭にあるのでしょう。 現に鎌倉の慣習法では訴訟事に際して烏帽子親は「身内」扱いで退座の対象であったそうです。 戦国のような「いつ誰が敵となるかわからない」時代であれば尚のこと、そのような一種の「契約」関係が重宝したというような面もあったのではないかと思います。

akir224
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いろいろと名前だけは聞くのですが、実際どういった関係なのか、 よくわからなかったのですが、有事の際一緒くたに身内扱いされるくらいには 親族に近い関係になるんですね。 (ちょっと思っていた以上に重大な関わりのようで驚きました) 気になっていたことがわかり、すっきりしました。 とても丁寧な説明、本当にありがとうございます。

その他の回答 (4)

  • mapato
  • ベストアンサー率69% (493/705)
回答No.5

#4です。 「どのような場合」というところに触れていませんでしたね、失礼致しました。 烏帽子親は「元服」という通過儀礼を行うに当たって「当然」必要とされるものでした。 その後も勿論前述したような関わりを持つことになる訳ですが、ともかく元服の儀を「烏帽子着」などとも称したように、烏帽子を被せる役の「仮親」がいないことにははじまらないと考えられていました。 現代では二十歳になると自動的に誰でも「成人」と認められますが、昔は元服して大人の仲間入りをするということはずっと重い責任を負うということにもなりましたから、「誰でも」「自動的に」などということはなかった訳です。 例えば何かの際には家を継ぐことや結婚することが出来る訳ですし、また何かあれば「一人前」として裁かれたり罪を負うようなこともあります。 しかし現実問題として元服したからと言ってそれらすべてを背負い切れるものではありません。 その為の「担保」としても烏帽子親のようなある種の「身元保証人」を用意しなければ社会の構成員とは認められなかった訳です。 勿論通常「烏帽子親を用意出来ない」などということは有り得ないのですが、一部の賎民階層に属する人々などは一生を「童名」で過ごしていることなどからもわかるように、「元服」が事実上認められていないようなこともあったと言われます。 元服すると「諱」を用いるようになりますが、烏帽子親の諱から一文字もらって烏帽子子の諱とするということも広く行われました。 これは「偏諱頂戴」などとも呼ばれる烏帽子親・子関係という「契約」をより明確に強調する為のもので、例えば徳川家康などは駿府で元服した際今川義元から「元」の一字をもらって「元信」という諱を名乗っています。 偏諱頂戴は元服の際に必ず行われるということではなく、また別な機会に偏諱を拝領するようなこともあるのですが、特に烏帽子親・子が主従関係である場合などに広く行われていました。 これもまた一種の「担保」というべきもので、現に家康なども義元没後今川家と決別する際には「元」の字を返上して諱を「家康」と改めています。 またよく知られているように源義経などは京から奥州平泉へ向かう最中、尾張もしくは近江で太刀を毘沙門天・脇差を八幡神に見立てて自ら烏帽子を被って元服したと言われていますが、これが事実だとしても通常そのような「間に合わせ」のやり方は認められませんし、そんなことをしては「何一つ社会的に保証してくれるものがない」訳ですから、一人前のまともな構成員として誰も扱ってはくれなかったでしょう。 義経は多くの伝説に彩られていますから真偽のほどはともかく、「大事な元服の儀さえそのように済ますしかなかった」ということでその境遇が強調されているのだと思います。 ですからもし事実であったとしても「例外中の例外」ということが言えるでしょう。

akir224
質問者

お礼

再度回答ありがとうございます。 ..烏帽子親がいないと元服自体出来ないなんて想像もしていなかったです。 でも、確か当時は凄い若いうちに元服できたみたいですよね。 前回教えていただいた関係や新しく教えてくださった回答で、 いろいろ気になっていたことがわかりました。 二度とも分かりやすく、 とても詳しく教えてくださって、本当にどうもありがとうございます。

  • ben1151
  • ベストアンサー率22% (153/681)
回答No.3

もうひとつの後ろ盾だと思います。 それぞれの人選を見ると、「うまいこと考えてる」と、感心します。

akir224
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 後ろ盾、ですか。やはり一般的には有力人物に頼むのが多かったんでしょうか。 参考になりました。ありがとうございます。

  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.2

烏帽子親・子の詳細は他に詳しい人の回答を待つとして‥ 日本各地にかつては烏帽子親・子同様の血縁関係を持たない仮親・仮子の制度?が存在しました。 単なる名付けの親程度のものから、共同体の中で日常生活を共有するものまで、その内容はさま ざまで、地域性などのバリエーションも豊かでした。 例えば、寄親・寄子というのは、一般的には戦国時代の軍団システムのことですが、共同体の中で 日常生活を共有するような仮親・仮子の制度を寄親・寄子と称していた地域もありました。 現在にも続いている例としては ・えびすご    http://blog.livedoor.jp/tknmst/archives/51479446.html ・寝屋子(ねやこ) http://www.ymd7.com/trk/tousi-iroha.htm なお、真偽は?ですが、成年に達した男子に縁者の中高年女性が性の手ほどきをする という仮母・仮子関係というものもあったというのを、聞いたこともあります。

akir224
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 まったく知らなかったのですが他にも似たような慣習がいろいろあるんですね。 URLも参考になりました。ありがとうございます。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

それなりの身分・階級であれば成人するときに烏帽子親を頼むのは普通で、烏帽子親がいないほうが異常です。 烏帽子親には主君や先輩を頼む場合が多く、名前の一字をもらうこともありました。

akir224
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 では戦国時代あたりの大名、武将なども烏帽子親が居て当然だったんですね。 気になっていたことがわかりました。ありがとうございます。

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