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二つの真理
ヨーロッパにおける、啓示による真理と理性による真理の話で、‘なぜ真理は相対的なのか’という質問がだされました。この質問(相対的という意味も含めて)を一体どのように解釈したらよいか困ってます。何かアドバイスがあればよろしくお願いします。
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質問者が選んだベストアンサー
絶対的な真理というのは、神そのもののことです。神は、属性として、真理、善、そして存在を持ちます。完全な真理、完全な善、完全な存在は、神において実現されています。 従って、地上の人間世界にある真理、善、存在は、いずれも、神の属性の分有ということになります。神は存在そのものですから、不死不滅、永遠ですが、人間の存在は、エッセ(存在)の分有で不完全なので、人間は死の定めを持ちます。 理性の真理は、理性とは完全な理性=ロゴスは神の属性で、人間は、神のロゴスを、うちなる神の霊によって分有しているので、ある程度の真理に理性で達することができても、その真理は、絶対なものではありません。 従って、理性の真理は相対的なのです。 啓示の真理は、神の言葉(ロゴス)または語ったこと(レーマ)ですから、神から発せられたものとして、それは完全な真理です。しかし、それをどう解釈するかという問題で、人間の側で、絶対的な神の真理を相対化してしまいます。 完全で絶対な真理、善、存在に人間の霊が出会えるのは、死後、永遠の命を得て、神との親密な関係を復活させ、「神と顔と顔を会わせて出会うとき」であると、聖トマスは言います。これを、「至福直観」と言い、このとき、初めて、人間は、「完全な真理、絶対の真理」を知ることになります。 つまり、この世の真理は、啓示の真理も、理性の真理も、両方とも、相対的でしかないのです。 聖トマスの論法では、「理性」によっても、また、人間は,「啓示の真理」を真理として認識できるとされます。啓示の真理の方が、優先するのです。 (教え方では、啓示の真理は神の言葉であるので、絶対的な真理であるが、理性の真理は、その模倣=神の霊の分有としての人間の理性の神の英知の部分的発動であるが故,相対的であるという説明もあるかも知れません)。 どういう文脈での「真理の相対性」か、質問者の問いだけでは、よく分からないので、以上に、想定して書きましたが、分からないものを、分かったような言葉で書くことは、慎まねばならないでしょう。……そう書きながら、分かったようなことを書いてしまいましたが。
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- cse_ri2
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個人的には「真理は絶対である(=相対的ではない)」と 考えていますが、学校の勉強か何かでしょうから、ヒント になるようなことを書きます。 古代ギリシャで哲学が盛んになった頃、ソフィストという 人たちが出てきますが、この人たちは絶対的な真理という のを否定したんですね。 その代表者がプロタゴラスという人で、こんな言葉が有名です。 「人間は万物の尺度である」 こういうこと言ったら、立場によって考え方や価値観が違う のだから、真理は絶対ではなく人によって相対的であると いうことになりますね。 そういうソフィストの思想に反対して、絶対的真理を追求 したのがソクラテスなのが、この先は自分でいろいろと調べて みてください。 啓示による真理というから、たぶん中世キリスト教社会あ たりの話かと思いますので、ちょっと外れているかもしれ ません。ご参考まで。
お礼
ありがとうございます! 今日提出のレポートだったので、私は結局「絶対的な真理と言うものはない。ゆえに相対的であるといえる」といった感じで提出したのですが、cse_ri2さんとは正反対ですね・・・ これは私の意見ではなく、アリストテレスやデカルト、ニュートン、ユークリッド等の時代の流れを追っていってまとめたものなのですが、自分では真理というものをどうとらえたらよいか今ひとつつかみかねています。 cse_ri2さんはどのような理由で真理は絶対であるとお考えなのでしょうか??
お礼
うーんなるほど。そうすると、人間にはわからないというか、完全には理解しがたいということになりますよね?(生きてる間は) 一体真理とは何か気になってきます!これはキリスト教的な真理のとらえ方なんですよね。仏教ではどうとらえているのかも気になります。長い回答をどうもありがとうございました!