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数学における内容的真理?と構文について

再質問になります、ご容赦ください。 数学の質問になっていないかもしれません、自分としては真剣なのですが、単なる言葉遊びと見えてしまったら申し訳ありません。 ゲーデルの定理の解釈の文脈などで数学における内容的真理は構文的な公理と推論規則だけでは表現しきれないと言われることがあると思います。 しかし、フォーマル(数理論理の立場)には数学は記号変形のみを対象とするのではないでしょうか? つまり、記号変形のみを対象とするのであれば、どうして内容的真理があるということや内容的真理と構文論間のギャップがあるとわかるのでしょう。 これらはどの視点、観点から言えることなのでしょうか、恐らく、上でいうような内容的真理というものも異なる構文規則によって指定された文字列のことと思っているのですが、ならばどうやってその間の関係を考えることができるのでしょうか?(つまり、ただの文字列で内容は副次的なものとするとそれが表していること同士の関係を考えることなどできないのではないでしょうか) 厳密な数学の議論を日常言語に引っ張られて行ったせいで発生した擬似問題だと思うのですが、結構悩んでいるのでこの分野に詳しい方、教えて頂けるとありがたいです。

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noname#221368

>・・・フォーマル(数理論理の立場)には数学は記号変形のみを対象とする・・・ は正しいです。しかし現実には数学には公理がありますので、最初に公理の扱いはどうしようか?というところが、じつは出発点になります。で、ここはけっこういい加減(?)なのです(^^;)。  構文的な推論規則だけを用いて公理を一から(つまり無仮定で)証明するのは土台無理だと最初からわかっていたので、ある公理があったとき、その条件をより基本的な語彙や条件に分解し、大概の人が「自明だ」と感じるようになったら、そこまでで良いじゃかというコンセンサスが、そこにはあります。  どうやって「自明だ」と感じるかと言えば、その意味(内容)からです。つまり内容的真理がある事は、最初から前提なんですよ。フォーマルな立場が問題にするのは、その後です。  公理は全て真な時に、構文的な推論規則だけを用いて真な命題を全て発見できるか?、です。もしそれが可能なら、真な命題からは真な結論しか得られず、それ以外には真なものはないという意味で、構文論によって真理性を定義できる事になります(事によったら、意味も構文=文法で定義可能かも知れない)。それはデカルトとライプニッツが夢見た普遍言語であり、解析機関であり、数学の究極目標の一つですよね?。内容を何一つ知らなくても、記号変形のみに注意していれば、自動的に正しい答えが出るという仕掛けです。  自分は普段使用する数値計算やコンパイラーを思い出します。実際それは、じつは何にも考えてないコンピューターにもやらす事ができます。そうすると基本的な公理さえ与えてコンピューターを回し続ければ、(原理的には)いつかは全ての数学的定理が出力されるか、「矛盾したので、公理のどれかが誤り」という答えが返って来る次第です。  本職の数学者でもあるルディー・ラッカーは、(かなり楽しんで)「無限と心」の中でそのような状況を書きました。かれは超ハード数学SFという孤高のジャンルを一人で確立し、一人でやってたマニアックな作家でもありました(^^;)。  ゲーデルは有限個の対象を扱っている限りでは、構文論的推論は完全かつ無矛盾である事を示します(完全性定理)。全ての真な命題を発見できるし、真な命題からは真な結論しか得られないという事です。  ここで「有限個の対象を扱う」とは、意味論的には個々の命題は有限個の対象なり関係についての意味を負わされているという事であり、構文論的には個々の対象に関する有限個の原子命題なり関係によって、全ての命題が組み立てられているという事です。意味論と構文論の結果は、たぶん問題なく一致します。ただこの場合の有限は任意有限なので、これだけでも驚くべき結果だと思います。それをゲーデルは有限手続きで証明しました。  ところが「無限個の対象を扱い出すとそうはいかない」が、不完全性定理です。そこでは、構文論的に真偽を決定できない命題のある事が示されます。それをゲーデルは有限手続きで証明しました。  構文論には決定不可能命題があるので、それを完全とすると矛盾し、矛盾しないとすると不完全という事になります。そういう場合は、無限に関する意味を負わされた命題の内容によって、真偽を判定するしかなくなります(できるかどうか、知りませんが(^^;))。内容的真理と構文論間のギャップとは、言ってしまえばこの程度(?)の事です。  以上の話は#1さんの仰るように、記号変形のみを対象とするフォーマルな立場では成文化できません。でもゲーデルは完全にフォーマルな立場の技術を駆使して結果を導き、そこに非フォーマルな立場でのしかも有用なメタ数学的意味を見出します。その証明はフォーマルの境界(限界)に位置すると思います。

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質問者からのお礼

回答ありがとうございます、大変参考になりました。 最後の部分(フォーマルな立場で成文化できないものをフォーマルな立場の技術を駆使して結果を導く)ということが具体的にどういうことなのか、もう少し勉強していきたいと思います。 本当にありがとうございました。

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  • 回答No.1
  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3455/9588)

『しかし、フォーマル(数理論理の立場)には数学は記号変形のみを対象とするのではないでしょうか?』 この時点で、この「自然言語」で記述された質問じたいに答えることは不可能なのです。つまり、引用部の前後にある、 『ゲーデルの定理の解釈の文脈などで数学における内容的真理は構文的な公理と推論規則だけでは表現しきれないと言われることがあると思います。』 『つまり、記号変形のみを対象とするのであれば、どうして内容的真理があるということや内容的真理と構文論間のギャップがあるとわかるのでしょう。』 が『フォーマル』ではない、とご自身が定義される以上、この疑問は『フォーマル』には記述されていないのです。

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質問者からのお礼

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