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聖書の疑問(カインとアベルについて)

hiyoko16の回答

  • hiyoko16
  • ベストアンサー率26% (18/68)
回答No.5

2つの説があるようです。 1 「時を経て、カインは土の実りを主のもとに捧げ物として持ってきた」 「アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持ってきた」 (新共同訳)とあります。 これにより、肥えた初子と言えば最上の捧げ物だから、単に「土の実り」を捧げたカインとは違うことが判ります。 そして、「羊の群れの中から肥えた初子」の部分のヘブライ語を直訳すると、「彼の羊の初子を、そして肥えたものを」となります。 ここでの「そして」を「しかも」の意味にとり、「彼の羊の初子を、しかも肥えたものを」と理解すれば、 神がアベルに眼を留めたのは、最上の捧げ物を捧げたからだ、と説明することが出来ます。 2 「アベル」という名前の為。ヘブライ語ではアベルは「ヘベル」であり、 「息、はかなさ、無価値」と言う意味の言葉です。 古代では名前がその人の本質を示すとされ、アベルは「無価値なもの、弱くはかないもの」と見られていたのであり、 神はそのような小さい者に目を留めたと言う解釈です。 ご参考までに。

007yuuki
質問者

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