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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ神はイエスをこの世に送ったのか)

なぜ神はイエスをこの世に送ったのか

satoyaekoの回答

回答No.23

peetさんのご質問、とても興味深く読ませていただき、考えさせられました。 zeroforeさんがおっしゃるように「視座をかえる」というお話は、全くその通りであろうと思いました。 peetさんによれば「神はなぜ?」という問いです。 これは「神を理解しようとすること」であろうと思います。 もし人間が神を理解できた、もしくは理解できていたのなら、人間がこんなに神について悩む必要はなかったでしょう。 神と人間。 聖書によれば、神と人間は深い関わりの中にあったにもかかわらず、その関係を崩してきてしまったといいます。 ですから、人間は神の意図、神の思い、神の神であることさえ分からなくなってしまっている、ということのようです。 ですから「神はなぜ?」という問いは、人間が答えることはできないと言えると思います。 聖書はイエスを神の子として表しています。 日本の有名なクリスチャンの一人である内村鑑三という人は聖書について「聖書はイエス・キリストのことが書いてある。だからイエス・キリストを信ぜずして読んでも分からない」といいました。 なるほど、と思いました。 多くの場合、それはキリスト教徒と称している人の多く、ということですが、彼らは聖書から人間としての生き方を学ぼうとします。 「隣人を愛せ」と言われればその通りに、「平和を作り出すものは幸い」といわれば、どうすれば平和を作ることができるのか、一生懸命考えるのです。 これがいわゆる一般的なキリスト教信者でありましょう。 しかしキリスト信者となるとちょっと違います。 キリスト信者は「神はその独り子をお与えになったほどにこの世を愛された。それはみ子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」という言葉をもって、イエス・キリストは神の子救い主であると受け入れ、自分の救いの根拠であると受け入れて、キリストを神として拝むのです。 それはなぜかと言いますと、やはり人間の「罪」ということです。 最近もやたらに事件や事故が報道され、この社会では相当地位のある人と思われるような人でも犯罪に手を染める世の中です。 どなたかもおっしゃるように、キリスト教国と言われるところでも犯罪は蔓延しています。 人は、何かに律されていたとしても、違った環境、律されていない環境の中ではいつでも同じ状況になるということの現れです。 戦争がそうですよね。 今考えれば空恐ろしいことも、そこでは普通になってしまう。 最近の事件などを見聞きしても、とても絵空事とは思えない。 それは「自分にも同じ種がまかれている」という現実を自分の中に見るからではないでしょうか。 そして良い人・悪い人にかかわらず、まさにすべての人が共通に持っている「死」という出来事。 ここから逃れられる人は誰もいないという現実があるわけです。 キリスト教の中で最も信じられない出来事の一つは、イエスの復活です。 クリスチャンであると自称する人たちの中にでさえ、このキリストの復活は「真実ではあっても事実ではない」という人がいます。 しかし、結局のところキリストの復活を信じられなければ、キリスト教的な「なぜ神はイエスをこの世に送ったのか」という問いは分からずじまいでしょう。 なぜならば、聖書はイエスの復活を中心にして書かれているからです。 いつ誰がどこでどのように書いたのかさえ分からないと言われる「4つの福音書」は、イエスの復活に関することです。 イエスの復活と言う出来事から始まったキリスト信仰なのです。 信じるというのは、簡単な話しで、そうであったかそうでないか分からないが、そうであると「信じる」ということだけです。 この信じることを通さなければ「神はなぜ?」という問いを解決することはできない・・・と思います。 ではなぜクリスチャンたちはこのイエスを信じるのかといえば、 救いを求めるからです。 自分の現実の、罪という問題にたいして、また必ず迎えなければならない「死」という問題に対して、そこからの救いを求めるからです。 よく反キリスト教的な人たちからは「死んだものが復活するなんていういい加減なことを言う宗教をどうやって信じたらいいんだ!?」ととわれることがあります。 もしわたしが知っている「人間」が救われうるのは、そんな異常な事態でも起きない限り、救われはしない、と思うのです。 かくいうわたし自身、自分の中に潜む罪の種がいつ芽生えてしまうか、また、死ということを迎える瞬間に救いを確信して死ぬことができるか、ととわれても「大丈夫です、救われていますので」といえる自信はありません。 だからこそ、ただただ「キリストゆえに救われる」ということを信じる以外にないのです。 それから、他の人がお答えになっているかもしれませんが、 「神の独り子」という表現は、「神の息子」ではありません。 「神から出た」ということで「子」という表現を使いますが、伝統的な理解ではか「神からの神」であるということです。 また、人間は神による創造物(被造物)です。神の子ではありません。 神が神自ら人間の現実におりてこられ、人として生きられ、神を否む人間の現実で抹殺され、そして復活し、人間と神との和解の道をお開きになった。 この真の人にして真の神であるお方を信じると言うことを通して、神は人をご自分の子としてお迎えになり、完全にお救いになる。 それがキリストを信じるということです。 長くなりましてすみません。

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