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ミシェル・フーコーは「バイオの権力」(生権力)への対抗策をどのように考えていたのですか。

私が読んだ解説本(中山元著、初めて読むフーコー)には「バイオの権力」という権力との関係を楽しむという選択肢しか書いてありませんでした。 しかし、「バイオの権力」からの逃避、抵抗などという選択肢もあってよいように思うのです。 ミシェル・フーコーの著作に直接あたった方いらっしゃいましたら、御回答よろしくお願いします。

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回答No.2

おはようございます。 遅くなってごめんなさい。 このところこちらの方をのぞいていませんでした。「お礼」しか届かないので、やっと気がつきました。 まず、こうした問題に思想をあてはめて考えるとき、さまざまな要素がごっちゃになったまま、思想の側を乱暴に切り縮めたり変型させたりしやすい。 だからできるだけ雑にしないことです。社会的な諸事象に当てはめる前に、一次文献、二次文献ともによく読むこと。 それが「フーコー風味の雑談」に陥らないポイントだと思います。 まず、「学校」に関しては、バイオ・ポリティックスではなく、解剖政治学、アナトモ・ポリティックスのほうでしょう。 『 知への意志』(渡辺守章訳 新潮社)には簡潔にこうまとめてあります。 ---p.176からの引用------  具体的には、生に対するこの権力は、十七世紀以来二つの主要な形態において発展してきた。その二つは相容れないものではなく、むしろ、中間項をなす関係の束によって結ばれた発展の二つの極を構成している。 その極の一つは、最初に形成されたと思われるものだが、機械としての身体に中心を定めていた。身体の調教、身体の適性の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み、こういったすべてを保証したのは、規律を特徴づけている権力の手続き、すなわち人間の身体の解剖-政治学(アナトモ・ポリティックス)であった。 第二の極は、やや遅れて、十八世紀中葉に形成されたが、種である身体、生物の力学に貫かれ、生物学的プロセスの支えとなる身体というものに中心を据えている。繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件がそれだ。それらを引きうけたのは、一連の介入と、調整する管理であり、すなわち人口の生-政治学である。 身体に関わる規律と人口の調整とは、生に対する権力の組織化が展開する二つの極である。 ------ 「学校」を「監獄」に喩えるのは昔からよく行われてきましたが、事実、同じ時期に誕生したそのふたつは、ともに「規律」をもった身体を作り上げていく場所という意味で、同じ構造を持ちます。ともに「人間の身体の解剖-政治学(アナトモ・ポリティックス)」に貫かれた場所です。 > 「会社や学校が楽しい。」と思い込まなければオミットされて生き残れない、生活できないがゆえに「会社や学校が楽しい。」と思い込んでいる人は多いと思います。 > そういう意味でやはりそこには権力が働いていると私は考えています。 もちろんこうした面もありますが、もっと根本的なところ、一定時間、黙って坐って、人の話を聞ける身体を作り上げていくこと、とか、何かが正しくて何かがまちがっているという「規律」の存在を受け入れること、「規律」に照らし合わせて自分の位置を決めていくこと、といった、わたしたちがふだん意識しない面にまで、権力というのは及んでいる、ということです。 たとえばわたしたちはあたかも自分が何らかの「考え」を持っているように思っているけれど、それすらも権力の作用に過ぎません。言葉を受け入れる、という段階で、すでにこの権力関係のなかに入っているわけです。 「社会化」ということばで呼ばれることは、こうした「規律」を受け入れた主体となっていくことにほかなりません。 「ゲーム」というのは、それとは位相のちがう概念です。 > 「バイオの権力」はそういう権力、すなわち「楽しいサバイバルゲーム」に参加することを強制する権力だと解釈しています。 そうではなく、「ゲーム」というのは、生に対する権力の網の目に対して、わたしたちに可能である抵抗のありかたです。 > ホームレス生活というのも一つの選択肢ではないかと思えます。 ホームレス生活というのは、確かに一見、社会的な束縛を受けていなさそうにも見えますが、そうなんでしょうか。ホームレスとなるということは、その境遇以外では生きられない、ということを意味します。ほかの社会階層の人々とは交わることができない。排除された存在とも言えます。これほど制約を科せられた生活もないような気がしますが。 > インターネットのように匿名性、自由参加が保たれている空間では権力関係は働きにくいのではないかと考えているのです。 まず、後半部分の > 権力関係は働きにくいのではないか に関しては、否です。 フーコーのいう「権力関係」とは、言い換えれば差異のあいだに働く関係とも言えるのではないかと思います。人が異なっている以上、そこに差異はうまれます。「ルール」に基づく上下関係は必ず生じます。そこから逃れることは不可能です。 ただ、ゲームが容易ということは言えるかと思います。 たとえば「フーコーの思想について話し合う」というルールによって成立する関係であれば、フーコーの思想を典拠を元に言明する方が、「知っている」人物の立場に置き、聞き手を同意または不同意する人物の立場に置きます。 共有されるルールによって、関係が成立していく。 回答するわたしはしかるべき典拠という権威を主張し、質問者さんはこれを受け入れるか、拒否して服従しないかすればいい。 わたしの側は、質問者さんのつぎの「指し手」を決して予測できないし、さらに詳しい知識を持つ人が、わたしの回答の理解の足りなさを指摘するとしたら、またわたしの立場も、質問者さんの立場も変わっていく。つまりこの関係はたえず流動していくわけです。 他方で、責任ある主体としての発言ではないために、リスクを負わないものともなっていく。それだけに重んじられることもなくなり、私的な会話に流れやすい。何を「権威」とするかに合意が生じにくいケースもあるでしょう。 つまり、「インターネット」という場が何かを保証するわけではない。 ひとつの関係を生じさせる場、ということに過ぎません。 権力というのは、わたしたちが所有したり喪失したりする物や量ではなく、関係のありかたです。そこのところを忘れないようにしてください。

naritoku
質問者

お礼

大変勉強になりました。 「フーコー風味の雑談」にならないように更にフーコーについて学んで行きたいと思います。 御回答有難うございました。

その他の回答 (1)

回答No.1

> 「バイオの権力」という権力との関係を楽しむという選択肢しか書いてありませんでした。 ええと、これはおそらくフーコーの思想の到達点のことを言ってらっしゃるのだと思います。 わたしは > (中山元著、初めて読むフーコー) を読んでいないのではっきりとはわかりませんが、おそらくこれは「バイオの権力」との関係を楽しむということではないと思います。 まず > しかし、「バイオの権力」からの逃避、抵抗などという選択肢もあってよいように思うのです。 ということが出てくるのはちょっとまずいかな、と思います。 というか、一貫してその抵抗のあり方を考え続けたのがフーコーであったんですね。 ただ、そのうえで「抵抗」という概念そのものを、従来のものとはまったく変えていかなければならない、ということなんです。 バイオポリティックス、〈生かす権力〉についてすこし説明したいと思います。 まず『監獄の誕生―監視と処罰』は、冒頭で1757年の王殺しの処罰の詳細な記述から始まっていきます。 フーコーは19世紀半ばの犯罪者施設の規則表をそれに続けていく。六時起床→黙ったまま五分間で着換え→五分でベッドの整備……。 この二種類の処罰を比較したときに、どちらに抵抗へ向けたより広い展望があるのか。 それは、一見、残酷に見える前者のほうだ。というのも、公開で処刑される犯罪者は、そのふるまいによっては、民衆の英雄になることもできるからです。 ところが隔離され、隠され、規律を内面化することで、心身ともに体制に服従させられる囚人たちは、おとなしい従属者という主体になって外に出てくる。 身体に関する非常に豊かで刺激的な考察がこの本には満ちているのですが、細かく書きはじめるときりがないから、ぜひお読みくださいというしかない(『言葉と物』あたりにくらべると読みやすいように思います)。ともかくここで言われるのは、すべての関係は権力関係である、ということ。 試験を受ける。なにかを教える。こうした知識の伝達は、権力の行使の一形態でもある。 そこで主体はみずから進んで権力関係のなかに入っていく。 たとえ仮に〈わたし〉が「自由にものを言」っている、と思っていたとしても、言葉を使い、しかも文法に則ってしゃべっているというそれだけで、すでに文化の規範を受け入れている、ということなんです。そこからはどうしたって逃げ出すことはできない。 「自由を発見した《啓蒙時代》は、規律訓練をも考案したのだった」という言葉に端的に示されるように、ある一定の法的自由をもった個人というのは、じつは権力によって生みだされたものだった。 さて、そこから〈生かす権力〉が出てくるのは『知への意志』です。 『知への意志』ではフーコーは、18世紀のヨーロッパでは、「生命」ということが大きな問題になってきたことを指摘します。人間の繁殖、誕生、死亡、健康、寿命を調整管理すること。規律としての権力が人間の身体に対する「解剖政治学」であるとすれば、これは「生かす権力」としての「バイオ・ポリティックス」である、と。 かつての専制君主なら、ただ「殺す」権利を持つだけだったのが、この新たな権力は、福祉国家という名の下で、人間の生を経営・管理するものとなった。 一方で、戦争の様相も大きく変化していきます。 戦争は現代に入って、大量破壊兵器やジェノサイドによって、かつてないほど悲惨なものになっていった。 それは、この「生かす権力」の補完物としての「死の権力」が登場したからである、と。 つまり、政府は福祉という名目で、生命と生存の管理者として立ち現れる。 だからこそ、戦争を国民全体の生存の名において行い、国民は殺し合うように訓練させることもできる。多くの戦争をしたのも、多くの人間を殺させたのも、この同じ政府なんです。 ここから、ジェノサイドも生じます。ジェノサイドというのは、「権力というものが、生命と種と種族というレベル、人口という膨大な問題のレベルに位置し、かつ行使される」ことだった。これは「福祉国家」をちょうどひっくりかえしたものにほかなりません。 「生かす権力」は同時に「死に廃棄する」権力でもあるのです。 さて、ここから司牧者権力とかいろいろ出てくるんですが、終わらなくなっちゃうんで割愛します。『知への意志』を読むと、いろんなことがすごくわかってきて刺激的な反面、出口がないような気分に陥ります。 さて、そこから抵抗の原理に関しては、さらに後期の作品に描かれていて、わたしはそこまで読んでません。だから同じ中山さんの『フーコー入門』(ちくま新書)に依拠するしかないんですが、「愉しむ」というのは、こういう脈絡で使われています。 「生の権力」への抵抗として、フーコーはふたつの可能性を示した。 ひとつには自己を放棄しないこと、自己の欲望を断念しないこと。 さらにもうひとつは、「人々が真理だと信じているものが、実は歴史的な根拠から作り上げられたものにすぎず、普遍的なものでも、絶対的に正しいものでもないということを示すことによって、自明で見慣れたものと考えていたものを覆す」ために、ゲームをしよう、という。 ---p.229からの引用--- 真理だけでなく、権力もまたゲームとしての性格をもっている。フーコーは権力を他者との力関係の場において、相手の行動を変えていく可能性として定義する。この開かれた戦略的なゲームにおいて、物事が逆転される可能性があるところで、たとえば性的な関係やさまざまな愛の関係において、自分の力を使ってみる――それは悪ではなく、「愛や情熱や性的な快楽に属する事柄」なのである。そしてこのゲームが開かれれば開かれるほど、他の人の行為に影響を及ぼしたいという誘惑は高まる。ゲームの開放性に比例して、この誘惑はますます魅力的になり、人の欲望をかき立てるようになる。  フーコーは、他者との関係を変えていくことが一つの権力関係であることを認めながら、そこに愉しみをみいだそうと誘っている。社会はそこからしか変わっていかないと。 ----- つまり、こんなふうにわたしが質問者さんの質問に答えるというのも、権力関係です。わたしは、それはそういうことじゃないんだよ、と、質問者さんの考えを変えようとしているわけですから。人はこの権力関係ということから、どうしたって人は逃れることはできない。 それでも、人は「生かす権力」に対しては抵抗することができる。 ---p.199からの引用--- この権力に対する抵抗の拠点は何か。それはすでにフーコーが考えていたように、欲望をもつ人間が、自己の身体と欲望に忠実であることによって、新しい可能性を拓き、新しい生き方を作り出していくことであるはずである。フーコーはこの生き方を実存の美学と呼ぶ。 ------ なんとなくわかってきましたかしら。 わかりにくいところとかありましたら、わかる範囲で答えます。

naritoku
質問者

補足

お久しぶりです。御回答有難うございます。 例によって話がずれていくわけですが・・・。 現代の日本を例にとって、具体的に考えてみたいと思います。 「会社や学校が楽しい。」と答える社会人や学生は多いと思います。 しかし、本当に会社や学校が楽しいと思っているのでしょうか。 「会社や学校が楽しい。」と思い込まなければオミットされて生き残れない、生活できないがゆえに「会社や学校が楽しい。」と思い込んでいる人は多いと思います。 そういう意味でやはりそこには権力が働いていると私は考えています。私は「バイオの権力」はそういう権力、すなわち「楽しいサバイバルゲーム」に参加することを強制する権力だと解釈しています。 そういう「バイオの権力」に抵抗するにはどうすれば良いか。 生活保護を受ければケースワーカーがやってきてプライベートなことまで根掘り葉掘り詮索されるわけですよね。 司牧者権力と似ていますね。 ホームレス生活というのも一つの選択肢ではないかと思えます。 また、インターネットのように匿名性、自由参加が保たれている空間では権力関係は働きにくいのではないかと考えているのです。 生活のためにネットを使っている人は少数派でしょうし、「会社にいずらくなる。」等の事情もないので好きなことが言えます。権力関係というより寧ろ対等な関係を促進する存在といえるのではないでしょうか。

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